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オプトアウター ~初めて「許可する」と言った日、俺の右腕は人を殺した~  作者: 猫間じん


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18/28

私がつけた

 三日目は、寮から出なかった。芹沢は朝から下の棟に下りたきりで、昼に一度上がってきて、冷蔵庫の麦茶を立ったまま飲み、また下りていった。誰と何を話しているのかは言わない。錠は卓で工具箱を開け、ドライバーを抜いては布で拭いて戻した。拭く必要のないものを拭いていると、きのうの自分の声が、頼みもしないのに戻ってくる。飯が、うまかったです。


 あの母親はいまごろ、手袋の両手を膝に置いて、二つの話を並べているのだろう。離れるけれど抑えられるほうと、離れないけれど戻し方のないほう。どっちがましかと訊かれたら、錠は離れるほうだと言うつもりでいた。言うつもりでいたのに、訊かれたのは別のことで、答えたのは飯の話だった。一本拭き終えるたびにそこへ戻ってきて、次の一本を抜く。


「君、それ四周目」


 卓の向かいで、両角が綴りから顔を上げずに言った。


「数えんなよ」


「数えるでしょう。右が」


 三つ目の戸は開いていて、雨宮が戸口の内側に椅子を出し、膝の上に端末を立てている。画面の中では誰かが暗い階段を下りていて、一段ごとに床板の軋む音が、小さく卓まで届いた。団地の外廊下で二日続けて手すりのほうを向いていた背中と、ここで映画を見ている背中は、同じ丸め方をしている。


 錠はドライバーを置いた。


「なあ」


 雨宮は画面から目を上げなかった。一拍あった。


「……私に言ってる?」


「ほかに誰がいんだよ。なんで入んないの、あの部屋」


「記録は、廊下でも付くから」


「きのうも、おとといも、外向いてただろ。ずっと」


「見てたの。暇なんだ」


「暇じゃねえよ。こっちは中で、クレヨンで車描かされてたんだぞ」錠は言ってから、何の自慢にもなっていないのに気づいた。「じゃなくて。あの人が怖いのか。それとも、あれか。入ったら、あの白いのが出るから——」


「ヨル」


 低い声が、途中で入った。


「……は?」


「あの白いの、じゃない。ヨル」


 雨宮は端末を伏せて、こっちを見ていた。廊下で固まっていたときの、右腕に貼りついて動かなかった目とは違う。まっすぐ錠の顔に来ていて、怒っているのだと錠にも分かった。


「名前、あんのかよ」


「ある。私がつけた」


「……ヨル」


「気安く呼ばないで」


「どっちだよ」


 両角が、綴りの陰で息だけで笑った。雨宮はそっちを一度にらんで、また錠に目を戻した。にらまれても、錠は腹が立たなかった。あの白いの、と言ったとき、自分がそれを、壊れた機械の不具合か何かのように口にしたのは分かっている。きのうも似たようなことをやった。


「悪い。ヨル、な」


「……別に」


 それで終わるのかと思った。雨宮は伏せた端末の角を、親指の爪でこすっている。


「あの人」と雨宮は言った。「怖いと、出るんでしょ。手から」


「ああ。朝比奈先生が、そう言ってた」


「自分じゃ止められなくて」


「うん」


「近くにいるのに、当たる」


 錠は答えなかった。答えを待っている言い方ではなかった。


「見たくないの。それだけ」


 それだけ、と言われてから、いまのは母親の話だけではなかったのだと、錠は遅れて気づいた。廊下の床に手のひらがついたときの重い音と、床板の鳴ったのを覚えている。あれも怖いと出て、本人には止められなくて、たまたま近くに立っていた錠のほうを、目の半分が見ていた。


「……似てんのか。あんたのと」


「似てない」


 速かった。目はそらさない。


「似てない。あの人のは手袋で止まるでしょ。ヨルは手袋なんかしない。あの人は子どもに触りたくて、私は誰にも触りたくない。全然、違う。似てるって言うなら、あんたのその腕のほうが——」


 雨宮は口を閉じた。違う所を数え上げているうちに、自分が何と何を並べていたのかに気づいた顔だった。


 錠は右手を卓の下に下ろした。言われかけたことは分かったし、たぶん合っている。許可しなければ出ない、というのは錠にとっては大きな違いだったが、廊下でこの腕を見て固まった人間に、それを言って何になるのかは分からなかった。


「雨宮」


 両角が鉛筆を置いていた。


「警告、増えてるよ。団地に行った日から。きのうは、おとといより多い」


「聞かないで」


「聞こえるの。選べない」


「それ、俺も言った」と錠は言った。「無駄だぞ。聞くなって言っても聞くから、この人」


「あんたと一緒にしないで」


「一緒だろ。聞かれてる側は」


 雨宮は言い返しかけて、やめた。両角は右のほうへ少し首を傾け、それから左へ傾けて、どちらにも頷かなかった。


「何の警告なのかは、読めない。鳴ってる、ってことだけ。君の中のが何に鳴ってるのかは、私には分からないし、右にも左にも分からない」両角は鉛筆を拾い直した。「分かったら言う。先に、君に」


「……要らない」


「じゃあ、訊かれたら言う」


 雨宮は椅子を引いて立ち、端末を胸に抱えた。戸に手をかけてから、振り向かずに言った。


「明日も、行くの。あそこ」


「行くだろ。隊長が行くなら」


「……そう」


「あんたは」


 返事はなかった。三つ目の戸が閉まり、少しして、壁越しに映画の音がまた始まる。階段を下りる足音と床板の軋みが続くあいだ、ヨルは出なかった。出なかった、と考えるのに、きょうは名前がついている。


「五周目」と両角が言った。


 錠は、いつのまにかまた握っていたドライバーを見下ろした。



 同じ夜、団地の見える通りに、標識のない車が一台止まっていた。


 鳴海は運転席で、膝の上の端末を読んでいた。対象は三階、奥から二つ目の部屋。成人の女が一名。症状は接触による皮膚の炎症。特定症例対応室が接触済みで、保護の同意は取れていない。移送の準備が整うのは四日後。用途の欄には一行、兵装の材料、とある。


 同意が取れていないうちは、現場で回収できる。取れてしまえば、紙のやりとりになる。期限は、だから四日ではなく、同意までだった。


 窓の外に、五階建ての棟が一つ見えている。三階の奥から二つ目にだけ明かりがあり、その隣と、真上の四階は暗い。空き部屋が多いのは調べがついていた。外廊下に人影はない。


「B-01。確認します」


 助手席で、少年が顔を上げた。十七か、二十か、そのあたりに見える。座席に収まりきらない膝が、さっきから細かく揺れていた。待たされている者の揺れ方だった。


「対象は三階。成人の女が一名。同居の子どもが一名いますが、こちらは対象外です」


「子どもがいるのか」


 声が大きい。車の中では、なお大きい。


「います」


「じゃあ、早いほうがいい。いますぐ行ける。その人を助けるんだろ」


「回収します」と鳴海は言った。「ただし、今夜ではありません。今夜は、真上の四階の空き部屋を押さえる。君はそこで待機です」


「待機って、どのくらい」


「こちらが指示するまで」


「上にいるのに? すぐ下なんだろ。下りて、扉を開けて、連れて出る。それだけじゃないか」


「室の移送は四日後です。それまでに、一度で済ませます。二度やれば、損耗が出る」鳴海は端末の頁を送った。「室の出入りを見てからです。寝袋と水と、四日ぶんの食事は、今夜まとめて持って上がります。上がったら、指示があるまで扉は開けない。眠れるときに、眠っておいてください」


 少年は不満そうに息を吐いたが、言い返しはせず、膝の揺れだけが続いている。寝袋は二重にさせた。床の冷えで関節を固くされると、動かす日に余計な損耗が出る。助ける、という言葉のほうは、鳴海は訂正しなかった。


「B-01、装備の確認を——」


 ダッシュボードの通信機が鳴った。


「カナタ、聞こえる? 階段、いま空いてるよ」


 若い声だった。型番ではなく、名前で呼んでいる。少年の顔が、その一言で明るくなった。


「聞こえる! すぐ行く!」


「すぐではありません」と鳴海は言った。


 少年はもう扉に手をかけていた。鳴海は端末を閉じ、時計を見て、通信機に向かって言った。


「これから、四階を押さえます」


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