私がつけた
三日目は、寮から出なかった。芹沢は朝から下の棟に下りたきりで、昼に一度上がってきて、冷蔵庫の麦茶を立ったまま飲み、また下りていった。誰と何を話しているのかは言わない。錠は卓で工具箱を開け、ドライバーを抜いては布で拭いて戻した。拭く必要のないものを拭いていると、きのうの自分の声が、頼みもしないのに戻ってくる。飯が、うまかったです。
あの母親はいまごろ、手袋の両手を膝に置いて、二つの話を並べているのだろう。離れるけれど抑えられるほうと、離れないけれど戻し方のないほう。どっちがましかと訊かれたら、錠は離れるほうだと言うつもりでいた。言うつもりでいたのに、訊かれたのは別のことで、答えたのは飯の話だった。一本拭き終えるたびにそこへ戻ってきて、次の一本を抜く。
「君、それ四周目」
卓の向かいで、両角が綴りから顔を上げずに言った。
「数えんなよ」
「数えるでしょう。右が」
三つ目の戸は開いていて、雨宮が戸口の内側に椅子を出し、膝の上に端末を立てている。画面の中では誰かが暗い階段を下りていて、一段ごとに床板の軋む音が、小さく卓まで届いた。団地の外廊下で二日続けて手すりのほうを向いていた背中と、ここで映画を見ている背中は、同じ丸め方をしている。
錠はドライバーを置いた。
「なあ」
雨宮は画面から目を上げなかった。一拍あった。
「……私に言ってる?」
「ほかに誰がいんだよ。なんで入んないの、あの部屋」
「記録は、廊下でも付くから」
「きのうも、おとといも、外向いてただろ。ずっと」
「見てたの。暇なんだ」
「暇じゃねえよ。こっちは中で、クレヨンで車描かされてたんだぞ」錠は言ってから、何の自慢にもなっていないのに気づいた。「じゃなくて。あの人が怖いのか。それとも、あれか。入ったら、あの白いのが出るから——」
「ヨル」
低い声が、途中で入った。
「……は?」
「あの白いの、じゃない。ヨル」
雨宮は端末を伏せて、こっちを見ていた。廊下で固まっていたときの、右腕に貼りついて動かなかった目とは違う。まっすぐ錠の顔に来ていて、怒っているのだと錠にも分かった。
「名前、あんのかよ」
「ある。私がつけた」
「……ヨル」
「気安く呼ばないで」
「どっちだよ」
両角が、綴りの陰で息だけで笑った。雨宮はそっちを一度にらんで、また錠に目を戻した。にらまれても、錠は腹が立たなかった。あの白いの、と言ったとき、自分がそれを、壊れた機械の不具合か何かのように口にしたのは分かっている。きのうも似たようなことをやった。
「悪い。ヨル、な」
「……別に」
それで終わるのかと思った。雨宮は伏せた端末の角を、親指の爪でこすっている。
「あの人」と雨宮は言った。「怖いと、出るんでしょ。手から」
「ああ。朝比奈先生が、そう言ってた」
「自分じゃ止められなくて」
「うん」
「近くにいるのに、当たる」
錠は答えなかった。答えを待っている言い方ではなかった。
「見たくないの。それだけ」
それだけ、と言われてから、いまのは母親の話だけではなかったのだと、錠は遅れて気づいた。廊下の床に手のひらがついたときの重い音と、床板の鳴ったのを覚えている。あれも怖いと出て、本人には止められなくて、たまたま近くに立っていた錠のほうを、目の半分が見ていた。
「……似てんのか。あんたのと」
「似てない」
速かった。目はそらさない。
「似てない。あの人のは手袋で止まるでしょ。ヨルは手袋なんかしない。あの人は子どもに触りたくて、私は誰にも触りたくない。全然、違う。似てるって言うなら、あんたのその腕のほうが——」
雨宮は口を閉じた。違う所を数え上げているうちに、自分が何と何を並べていたのかに気づいた顔だった。
錠は右手を卓の下に下ろした。言われかけたことは分かったし、たぶん合っている。許可しなければ出ない、というのは錠にとっては大きな違いだったが、廊下でこの腕を見て固まった人間に、それを言って何になるのかは分からなかった。
「雨宮」
両角が鉛筆を置いていた。
「警告、増えてるよ。団地に行った日から。きのうは、おとといより多い」
「聞かないで」
「聞こえるの。選べない」
「それ、俺も言った」と錠は言った。「無駄だぞ。聞くなって言っても聞くから、この人」
「あんたと一緒にしないで」
「一緒だろ。聞かれてる側は」
雨宮は言い返しかけて、やめた。両角は右のほうへ少し首を傾け、それから左へ傾けて、どちらにも頷かなかった。
「何の警告なのかは、読めない。鳴ってる、ってことだけ。君の中のが何に鳴ってるのかは、私には分からないし、右にも左にも分からない」両角は鉛筆を拾い直した。「分かったら言う。先に、君に」
「……要らない」
「じゃあ、訊かれたら言う」
雨宮は椅子を引いて立ち、端末を胸に抱えた。戸に手をかけてから、振り向かずに言った。
「明日も、行くの。あそこ」
「行くだろ。隊長が行くなら」
「……そう」
「あんたは」
返事はなかった。三つ目の戸が閉まり、少しして、壁越しに映画の音がまた始まる。階段を下りる足音と床板の軋みが続くあいだ、ヨルは出なかった。出なかった、と考えるのに、きょうは名前がついている。
「五周目」と両角が言った。
錠は、いつのまにかまた握っていたドライバーを見下ろした。
同じ夜、団地の見える通りに、標識のない車が一台止まっていた。
鳴海は運転席で、膝の上の端末を読んでいた。対象は三階、奥から二つ目の部屋。成人の女が一名。症状は接触による皮膚の炎症。特定症例対応室が接触済みで、保護の同意は取れていない。移送の準備が整うのは四日後。用途の欄には一行、兵装の材料、とある。
同意が取れていないうちは、現場で回収できる。取れてしまえば、紙のやりとりになる。期限は、だから四日ではなく、同意までだった。
窓の外に、五階建ての棟が一つ見えている。三階の奥から二つ目にだけ明かりがあり、その隣と、真上の四階は暗い。空き部屋が多いのは調べがついていた。外廊下に人影はない。
「B-01。確認します」
助手席で、少年が顔を上げた。十七か、二十か、そのあたりに見える。座席に収まりきらない膝が、さっきから細かく揺れていた。待たされている者の揺れ方だった。
「対象は三階。成人の女が一名。同居の子どもが一名いますが、こちらは対象外です」
「子どもがいるのか」
声が大きい。車の中では、なお大きい。
「います」
「じゃあ、早いほうがいい。いますぐ行ける。その人を助けるんだろ」
「回収します」と鳴海は言った。「ただし、今夜ではありません。今夜は、真上の四階の空き部屋を押さえる。君はそこで待機です」
「待機って、どのくらい」
「こちらが指示するまで」
「上にいるのに? すぐ下なんだろ。下りて、扉を開けて、連れて出る。それだけじゃないか」
「室の移送は四日後です。それまでに、一度で済ませます。二度やれば、損耗が出る」鳴海は端末の頁を送った。「室の出入りを見てからです。寝袋と水と、四日ぶんの食事は、今夜まとめて持って上がります。上がったら、指示があるまで扉は開けない。眠れるときに、眠っておいてください」
少年は不満そうに息を吐いたが、言い返しはせず、膝の揺れだけが続いている。寝袋は二重にさせた。床の冷えで関節を固くされると、動かす日に余計な損耗が出る。助ける、という言葉のほうは、鳴海は訂正しなかった。
「B-01、装備の確認を——」
ダッシュボードの通信機が鳴った。
「カナタ、聞こえる? 階段、いま空いてるよ」
若い声だった。型番ではなく、名前で呼んでいる。少年の顔が、その一言で明るくなった。
「聞こえる! すぐ行く!」
「すぐではありません」と鳴海は言った。
少年はもう扉に手をかけていた。鳴海は端末を閉じ、時計を見て、通信機に向かって言った。
「これから、四階を押さえます」




