空調
朝、芹沢は寮の階段の下で端末を耳に当てていた。錠が工具箱を提げて下りていくと、背中を向けたまま片手を上げて、待て、と止める。
「……見守りです。移すまでのあいだ。隣が空いている」
相手の声は聞こえない。芹沢はしばらく黙って聞き、分かりました、報告は上げます、と言って端末を下ろした。
「今日から、団地に詰める」
振り向いて、錠と、その後ろの階段にいる二人に言った。
「あの部屋の隣を、室が押さえた。寝るのはそこだ。母子の部屋の中に一人、廊下に一人、交代で付く。着替えを持て」
「詰めるって」錠は工具箱を持ち直した。「軍が来るってことですか」
芹沢は少し間を置いた。訊かれると思っていた顔だった。
「同意がないうちは、あの取り決めでは守れん。来るとは限らんが、来たときに誰もいないよりはいい」
「来るかもしれないんだ」
「分からん。向こうがあの人を知っているのかどうかも、俺は知らん」芹沢は端末を胸のポケットに入れた。「もう一つある。あの二人を同じ部屋に置いておくと決めたのは、俺だ。置くからには、目を離さん」
踊り場で言われたことを、錠は覚えている。保護を受けなければ、守れない。あのときは自分の話だった。
「それ、あの人に言うんすか。軍が来るかもって」
「言わん」
「なんで」
「言えば、脅して『はい』を取ることになる」芹沢の声は変わらなかった。「来るかどうかも分からんものを見せて、だからうちに来い、と言うのは、俺はやらん」
「でも、知らないで決めんのと、知ってて決めんのは、違うじゃないですか」
「俺の口から言えば、同じことになる」
「同じじゃないでしょ。知らせんのと、脅すのは」
「連れて行く側の人間が、怖い話をして、だから来いと言う。あの人には、それが脅しに聞こえる」
「聞こえるかどうかは、あの人が決めることで——」
「言わん」
それで終わりだった。芹沢は車の鍵を出して、先に歩いていく。錠は言い返す言葉を探して、見つからないまま工具箱の取っ手を握り直した。脅すのと知らせるのは同じなのか。同じではない気がするのに、どこが違うのかを、口で言えるほどには分かっていなかった。
「乗る」
後ろで、低い声がした。雨宮が、端末と小さな鞄を持って階段を下りてくる。錠が見ていると、目だけこっちに向けた。
「何」
「いや。来るんだなって」
「記録、要るから」
前にも聞いた答えだった。両角がそのあとから、綴りと枕を抱えて下りてきた。
「右が、団地の布団は固いって言ってる。左は、寝ないから関係ないって」
団地の三階で、芹沢は母親に、戸口で話した。
「移すまでのあいだ、隣の部屋にいます。それと、中に一人、交代で座らせてください。台所の椅子で構いません」
「……移るとは、まだ」
「分かっています。返事を待つあいだ、です」
母親は芹沢の後ろの三人を見た。錠で目が止まって、少しだけ頭を下げる。おとといのことを、礼とも詫びともつかない角度で済ませたのだと思う。錠も同じくらい下げた。
「どうぞ。狭いですけど」
最初の当番は錠だった。台所の椅子に座って、工具箱を足のあいだに置く。雨宮は外廊下の、戸から三歩ほど離れた手すりにもたれ、両角は隣の部屋へ荷物を入れに行った。芹沢は廊下の、階段のほうを向いて立っている。
男の子は、知っている顔が家の中に座っているのがうれしいらしく、五分おきに台所へ来た。
「おにいちゃん、それ、なに入ってるの」
「道具」
「みせて」
「見せるだけな。触んなよ、刃物もあるから」
蓋を開けると、男の子は手を背中に回したまま、顔だけ突っこんでのぞいた。ドライバーの列と、端に一本だけ形の違う目打ち。その横の、つぶれかけた鉋屑の輪を指さして、これは、と訊く。
「もらったやつ」
「ごみ?」
「ごみじゃねえよ」
男の子は納得していない顔で、今度は奥を指さした。
「あっちのへや、むっとするよ。かぜのでるやつ、こわれてるの。ずっと」
「ずっと?」
「前に住んでいた方が、置いていかれたもので」母親が流しから言った。「前は動いていたんです。直す人を呼ぶと、家に上がってもらうことになるので、それで」
それで、の先は言わなかった。手袋の両手が、布巾を絞っている。
「見ていいですか」と錠は言った。「直せるかは、開けてみないと分かんないですけど」
奥の部屋は、たしかに空気がこもっていた。壁の高い所に、黄ばんだ空調の室内機が付いている。運転の灯りは点くのに、風が出ない。錠は食卓の椅子を借りて上に立ち、左手で前の覆いの爪を外した。右手で覆いを支えると、肘から先が細かく震えて、覆いの端が壁に当たって音を立てる。
下で、母親の手が上がりかけて、止まった。
止めたまま、どこへやればいいのか分からなくなった手だった。錠の腕に触れるわけにはいかない。それは錠にも分かった。
「あ、大丈夫っす。……いや、嘘。持っててもらえます? そっちの端。俺の手じゃないほう」
母親は椅子の反対側へ回って、覆いの端を両手で受けた。手袋ごしに、覆いの重さが半分、向こうへ移る。錠の右手の震えが止まった。
「おかあさん、もってる」と男の子が言った。
「持ってるね」
「ぼくも」
「お前はねじ係。この皿に入れるから、数えてて。なくすなよ」
覆いを下ろしてもらって、中を見る。原因は二つあった。水を外へ出す管の口に、埃と何かの固まりが詰まっていて、受け皿に水が溜まり、それで機械が自分から止まっている。もう一つは端子台で、線が一本、ねじが緩んで抜けかけていた。誰かが一度開けて、締めきらずに閉めたらしい。
「前の人、自分でいじったな」
「分かるんですか」
「ねじの頭、なめてるんで。合わないドライバーで回した跡っす」
管の詰まりは、目打ちの先で少しずつ掻き出した。左手に合わせて削ってもらった柄は、こういう細かい仕事でいちばん言うことを聞く。受け皿の水が、ごぼ、と鳴って引いていく。線を差し直し、ねじを締め、男の子に皿を出させる。
「いくつ」
「よっつ。……いつつ」
「四つだろ」
「いつつあるもん」
皿の上には、たしかに五つあった。錠は一つずつつまんで見て、頭の形の違う一本を男の子の前に置いた。
「これは、うちのじゃない。最初から皿に乗ってたやつ」
「じゃあ、どこの?」
「知らねえよ。お前んちのどっかだろ」
母親が、小さく笑った。この部屋で笑うのを、錠は初めて聞いた。
覆いを戻して、運転の釦を押す。
音が変わった。
低い唸りのあとで羽根が回りだし、吹き出し口の板がゆっくり開いて、風が錠の顔に当たった。男の子が椅子の下で跳ねて、両手を風のほうへ伸ばす。
「でた! おかあさん、でた!」
「出たね」
母親は覆いを支えていた手袋の手のひらを見て、それから錠に頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に」
「線一本と、ごみなんで。……あ、ごみって、詰まってたほうの」
夜の当番も、錠に回ってきた。芹沢は廊下に立ち、両角と雨宮は隣の部屋にいる。男の子は早く寝た。奥の部屋の戸の隙間から、空調の低い音が続いている。
母親が台所に出てきたのは、それからしばらくしてからだった。湯を沸かして、茶を二つ淹れ、一つを食卓の錠の側へ、手の届かない所まで押して寄こす。自分は向かいに座った。
「一つ、訊いてもいいですか」
「はい」
「あの人の言うこと。本当でしょうか」
真柴のことだった。錠は湯呑みを見た。
「分かんないです」
それだけでは足りない気がして、続けた。
「うちの親父が、受けてて。あの人のやつじゃなくて、病院の治療のほうですけど。受けてから、怒らなくなった。楽になった、って本人は言ってます」
「……それは、いいこと、ですか」
「分かんないです」
同じ答えを二度言った。母親は責めなかった。湯呑みを手袋の両手で包んで、湯気を見ている。
「怒らなくなったら、困りますか。お父さまが」
「困っては、ないです。連絡もくれるし、怒鳴られることもないし」錠は首の後ろをこすった。「ただ、返事が、書けないんすよ。俺のほうが。なんでかは、うまく言えないです」
母親は頷いた。聞いた、という頷き方だった。
言っていないことが、もう一つある。
同意がないあいだは守れなくて、来るかもしれない。朝、芹沢は、言えば脅しになるから言わん、と言った。そうなのかもしれない。でも、この人はいま、二つの話を並べて決めようとしていて、その片方の皿に何が乗っているのかを、半分しか知らされていない。
錠は口を開けた。
「あの」
「はい」
母親が顔を上げた。待っている顔だった。離れる話と、戻せない話のあいだで、よく眠れていない顔でもあった。ここへもう一つ、怖い話を足すのか。足すのが正しいのか。足さないのは、隊長と同じことをしているだけじゃないのか。
「……空調。風が強かったら、弱めてください。リモコンの電池、たぶん古いんで、効かなかったら言ってもらえれば」
「はい。ありがとうございます」
母親は茶を飲み終えて、湯呑みを流しに置き、おやすみなさい、と言って奥へ戻った。戸が閉まる。
錠は椅子に座ったまま、冷めた茶を飲んだ。言わなかった。言えなかったのか、言わないと決めたのか、自分でも区別がつかない。明日、もう一度隊長に言おう、と思った。知ってて決めんのと知らないで決めんのは違うと、今度はもう少しましな言い方で。
奥の部屋から、空調の音が続いていた。




