天井
奥の戸が開く音で、錠は椅子の上で顔を上げた。眠っていたつもりはなかったが、冷めた茶の湯呑みを握ったまま、首が前に落ちていたらしい。台所の小さい明かりだけが点いていて、時計の針は見えない。
「おみず」
男の子が、目をこすりながら出てきた。寝間着の裾を引きずっていて、その後ろから母親が、手袋の手で戸を静かに閉めながら続く。
「すみません。起こしましたか」
「起きてました」
「うそ。ねてた」
「寝てねえよ。目ぇ閉じてただけ」
男の子は食卓の、錠の隣の椅子によじ登った。母親は流しで右の手袋を外し、蛇口をひねって、子ども用の小さい湯呑みに水を半分入れる。濡れた手を布巾で拭き、湯呑みを食卓の端に置いて、男の子のほうへ指先で押した。手から手へは渡さない。おととい握り飯で見たのと同じ手順を、夜中の、半分眠った体でも間違えなかった。
男の子は両手で湯呑みを持って、喉を鳴らして飲んだ。
「おにいちゃん、ずっといるの」
「朝まで。交代が来るまで」
「あしたも、かぜ、でる?」
「出る。壊れたら、また直す」
母親が流しで、少し笑ったような息をした。奥の部屋から、空調の低い音が続いている。廊下では芹沢が立っているはずで、戸の向こうに、靴底が一度だけコンクリートをこする音がした。
上で、何かが鳴った。
乾いた枝を束ねて折るような音だった。天井の、ちょうど食卓の真上あたりから聞こえる。上は空き部屋だと聞いている。配管が冷えて鳴ったのか、古い建物ならそういうこともある、と錠は思いかけたが、音は一度で終わらず、二度、三度と続いて、だんだん近くなる。
男の子が湯呑みを下ろして、天井を見上げた。
天井に、線が走った。
考える前に体が動いていて、錠は椅子ごと男の子を抱えこみ、食卓の下へ転がりながら、小さい頭を胸の下に入れて背中を上に向けた。丸くなりきる前に、板とコンクリートの固まりが落ちてくる。一つ目は肩甲骨のあいだに来て息が全部出、二つ目は腰で、三つ目からは数えられなかった。食卓の天板が頭の上で割れ、湯呑みが砕けて、粉が口に入る。右腕は男の子の頭を抱えたまま震えもしなかったが、力が戻ったわけではなくて、震える余裕がないだけだった。
落ちてくる物が止まっても、耳は鳴りつづけていた。胸の下で、男の子が息を吸う音がする。泣いてはいない。固まって、錠のシャツの胸を両手でつかんでいる。
「痛いとこ、あるか」
男の子は首を横に振った。振れるなら、首は無事だ。
「蒼!」
母親の声だった。錠は瓦礫を背中から落として、顔を上げた。流しの前に母親が立っている。こっちへ踏み出しかけた足が止まり、伸ばしかけた右手が宙で止まっていた。手袋をしていない手だった。その甲が、白い。粉を吹いたように白くなっている。母親は自分の手を見て、歯を食いしばり、外した手袋を濡れたまま引っぱってはめた。
天井には、人がくぐれるほどの穴があいていた。穴の縁から、白いものが突き出している。長くて反りのない、骨の色をした刃で、それが穴の縁を一度こじって引っこむと、同じ穴から足が出てきた。
降りてきたものは人の形をしていて、着地で床が揺れた。割れた食卓の向こうに立ち上がったそれは、頭から足の先まで、白い板に覆われている。板と板のあいだが動くたびに、さっきの、枝を折るような音がする。錠は一瞬、高架下の交差点にいた。白くて、硬くて、粉を吹いた板。あのときの板は不ぞろいに重なって膨らんでいたが、これは合わせ目がそろっていて、動くために作られた形をしている。右腕の先から、さっきの刃がそのまま伸びていた。
頭の板の隙間から、目が見える。若い目だった。その目が、錠ではなく、流しの前の母親を見ている。
「魔物から、その子を返してもらう!」
声は大きくて、まっすぐで、少しも迷っていない。言われた中身のほうは、錠にはまるで分からなかった。
「……は? 何言ってんだ、お前」
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
口が勝手に答えたあとで、背中の痛みが追いついてきた。切れている所が何か所かあって、シャツが貼りついているが、動かせば動くので、骨はやっていない。
廊下で、芹沢の声がした。
「止まれ。ここから先は通さん」
靴の音が重なって、階段のほうから何人かが下りてくる。金具の触れ合う音。誰かが、どいてください、と事務的に言い、芹沢が、どかん、と答えた。戸の外で体のぶつかる鈍い音がする。銃声はしない。
「久我! 中は!」
「上から来た! 一人! 天井抜かれた!」
怒鳴り返したぶんだけ、粉が喉に入って咳が出た。
白い鎧が、一歩前へ出た。割れた天板を踏んで、板が鳴る。目は母親から、錠の胸にしがみついている男の子へ移った。
「大丈夫だ。いま助ける」
男の子に向けた、やさしい声だった。本気で言っているのが分かって、それがいちばん気味が悪い。
「助けるって、誰からだよ。この子の母親だぞ、その人」
返事はない。聞こえていないのではなくて、聞く相手に入っていない、という無視のされ方だった。
錠は男の子を抱えたまま立った。膝が笑う。背中で何かが垂れている。
「蒼。お母さんのとこ行け。走んな。歩いて」
男の子は錠の顔を見て、それから白い鎧を見て、動かなかった。
「蒼」母親が言った。声が震えている。「こっち。お母さんの後ろ。手は、エプロンだけ持って」
それで男の子は動いた。錠の腕から下りて、流しの前まで走り、母親の腰のエプロンを両手でつかむ。母親は手袋の両手を高く上げて、子どもに触れないようにしたまま、背中で手前の部屋のほうへ下がりはじめた。
白い鎧がそれを追って二歩目を出したので、錠はそのあいだに入った。立つ場所は選べない。台所と手前の部屋の境の、敷居の上で足を開き、両腕を体の横に広げる。冷蔵室の戸口でやったのと同じで、通り道に体を置いただけだった。あのときは扉の枠をつかめた。ここには、つかむ物がない。
「どけ」
初めて、目がこっちを見た。
「お前に用はない」
「俺にはあるんだよ。人んちの天井抜いといて、用はないで済むか」
白い鎧は刃を振らずに、刃のないほうの腕を、肘から先だけ払うように動かした。それだけで錠の体は浮き、背中から畳に落ち、低い卓の角で腰を打って、襖を一枚巻きこんで止まる。息が入らない。天井が回っている。切れていた背中に畳の目が食いこんで、声が出なかった。
一度だった。
殴られたのでも斬られたのでもなく、邪魔な椅子をどけるような手つきで、どけられた。
頭の上で、母親の息が聞こえる。浅くて、速い。男の子がエプロンを握ったまま、おかあさん、と小さく言った。
錠は肘をついて、体を起こした。右腕が、今ごろになって震えている。首の後ろは静かだったが、こっちが構えればまた訊いてくるだろうし、許可すればあれが出る。出たものがこの狭い部屋のどこへ行くのかを、錠は決められない。後ろには母親の膝があって、男の子の頭がある。
立って、母子と白い鎧のあいだに、もう一度入る。広げる腕も、踏ん張る足も残っていないので、ただ立った。
白い鎧は境の敷居をまたいで、畳に片足を下ろした。板が鳴る。若い目が、錠の肩越しに男の子を見ている。
「もう少しだ」と、それは男の子に言った。「すぐ、そこから出してやる」




