一回だけ
白い鎧の足が畳を踏んで、板が鳴った。錠は母子の前に立ったまま、次に払われたら今度はどこへ飛ぶのかを考えていた。考えられるのはそこまでで、止める手は思いつかない。
玄関のほうで戸の開く音がして、外廊下の灯りを背に、上がり口に雨宮が立った。後ろに両角の頭が見える。音を聞いて、隣から来たのだ。雨宮は台所の天井の穴を見て、割れた食卓を見て、白い鎧の背中を見た所で止まり、踏み出しかけた足が床に着かなくなった。寮の廊下で見たのと同じ固まり方だった。
来るな、と言うつもりで口を開けたときには、もう遅い。玄関から、生あたたかい空気が押してきた。雨宮の肩の後ろで白いものがせり上がり、戸の枠をくぐって、台所へ入ってくる。背を丸めても天井につかえるので、頭は抜かれた穴の縁に半分はまりこんだ。長い腕が左右から下りて、手のひらが台所の床につくと、濡れた重い音がして、散らばった瓦礫が跳ねる。数えられないほどの目が、ばらばらに瞬いた。
ヨルだ、と錠は思った。名前を知っていても、怖さは少しも減らない。外廊下では靴の音が乱れ、何人かが声を上げて、階段のほうへ下がっていく。
白い鎧が、初めて錠と母子に背を向けた。振り向いて刃のある腕を上げ、腰を落とすと、板と板のあいだで枝を折る音が続けて鳴る。
「もう一体いたのか」
さっきまでと同じ、迷いのない声だった。ヨルは打ちかかりもせずに、目の半分で白い鎧を見ている。残りの半分は、その頭を越えて、錠の後ろを見ていた。
後ろで男の子が叫び、振り向くと、母親のエプロンを離して母親の体をよじ登っていた。白くて大きい、目だらけのものが台所に立ったのだから、六つの子どもが行ける所は一つしかない。両腕を母親の首に回し、足を腰に絡めて、顔を肩に押しつけている。
「蒼、だめ。首はだめ。離して」
母親は手袋の両手で、男の子の腕を首から外そうとしていた。けれども男の子は外されるほど強くしがみつき、ずり落ちかけた腕が、母親の袖のまくれた前腕にも巻きつく。首と、前腕。布のない所ばかりだった。最初の日、この子は手首を一瞬つかんだだけで、あとから指が三本赤くなった。いまは両腕ごと巻きついていて、離れない。
「離して。お願い。蒼」
声が裏返っていた。母親は離したがっているのに、子どものほうが離れない。
錠は左手で男の子の腰をつかんで、引いた。男の子は悲鳴を上げ、首を絞めるほど腕に力を入れて、母親の体ごとこっちへ傾く。右手を添えたが、肘から先に力が入らず、寝間着の布を滑っただけだった。背中の傷が開く。もう一度引く前に、頭の上が暗くなった。
ヨルの腕が上がっていた。白い鎧の頭を越え、境の上を越えて、長い腕が手前の部屋の天井すれすれに伸びている。手のひらは開いたままで、その影が母親と、母親にしがみついた子どもの上に落ちていた。叫んで、もつれて、ひとかたまりになっている二人。あれにはたぶん、一つのものに見えている。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
いつもなら、しない、と言う。口はそう動きかけたが、しなければあの手が落ちて、その先には子どもがいる。引いても離れないし、肌に触れている時間は一秒ごとに延びていく。
「右腕で、あの人の腕を押さえるだけだ」錠は言った。「押さえるだけ。それ以上、何もすんな」
〈その動作は、戦闘使用に含まれません〉
「含めろよ! 押さえるだけだぞ」
〈推奨しません〉
案じて止めているのではなく、できない、と言っているだけだった。こいつにできるのは殴ることと砕くことで、そっと押さえるという動きは、最初から作りに入っていない。交差点でも駐輪場でもそうだった。傷つけずに済む言い方は、ない。
錠は母親を見た。母親も錠を見ていた。子どもの腕の下から、片目だけが見えている。何をしようとしているのかは、分からないはずだった。それでもその目は、早く、と言っていた。そう見えただけかもしれない。
頭と、首と、胴。そこに当たれば死ぬし、子どもがしがみついているのもそこだ。回数は一回で、二度目をやらせたら、もう止められない。
「あの人に対して」
声が震えた。
「頭と首と胴は狙うな。一回だけだ」
〈了解しました〉
右の袖が、内側から裂けた。肘から先が熱く膨らみ、骨が軋みながら伸び、赤黒い筋肉の束が肩まで巻きつく。重さで体が右へ引かれる。錠は左手で男の子の背中の布をつかんだまま、自分の腕だったものが、低く出ていくのを見ていた。
狙うな、と言った所には行かなかった。
膝だった。
鈍い、濡れた音がした。母親の右の膝が、横から払われて内側へ入り、支えを失った体が横へ落ちる。声は出なかった。息だけが、短く切れた。首に回っていた腕が、落ちる勢いで外れ、錠の左手が男の子を引き抜く。男の子は畳の上を転がって、襖の残りにぶつかって止まった。
赤黒い腕は、そこで止まっていた。母親の頭の上にも胸の上にも行かず、膝を打った形のまま畳に拳を置いて、動かない。やめろ、とは言っていなかった。一回、と言って、一回で終わっている。
頭の上の影が落ちてきて、ヨルの手のひらは、男の子がさっきまでいた場所に落ちた。畳が沈み、重い音が床を伝って、錠の膝まで来る。その下には、誰もいなかった。母親は横へ崩れていて、子どもは襖のそばにいる。白い指が、何もつかまないまま、畳の上でゆっくり開いた。
腕が縮みはじめた。赤黒い肉が中へ引いていき、伸びていた骨が軋みながら戻る。裂けた袖の中に、腫れて熱を持った自分の右腕が残った。芯から焼けるような熱と、腹の底が抜けたような空腹が、同時に来る。
母親は畳に肘をついて、膝を抱えこんでいた。歯を食いしばって、顔が白い。それでも最初に出た言葉は、
「……蒼は」
だった。
男の子は襖のそばで起き上がっていた。両腕の内側は、まだ何の色も変わっていない。変わるのはこれからだと、錠は最初の日に見て知っている。男の子は泣きながら母親のほうへ這おうとして、母親の、来ないで、という声で止まった。
錠は何か言おうとしたが、すいません、も、大丈夫ですか、も合わなくて、口の中で言葉が一つも形にならなかった。
「……また膝からだ」
玄関のほうから、声がした。
両角だった。固まったままの雨宮の後ろで、戸口にしゃがんで、こっちを見ている。いつもの面白がる調子が、声から抜けていた。
「見てたなら止めろよ」
振り向くより先に、口から出ていた。
「そこで見てたんだろ。最初から。なんで見てんだよ。またって何だよ、またって」
両角は答えなかった。上がり口の床に置いた指が、二回、板を叩いた。それからもう二回。
錠は謝らなかった。




