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オプトアウター ~初めて「許可する」と言った日、俺の右腕は人を殺した~  作者: 猫間じん


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飯は、あとだ

 最初に動いたのは芹沢だった。外廊下から、固まった雨宮と両角の横を抜けて入ってくる。台所のヨルと白い鎧を一度だけ見て、足は止めなかった。奥の部屋から厚い毛布を一枚抱えて戻り、畳に崩れている母親の上に、広げてかける。


「三好さん。くるみます。触りません」


 母親は歯を食いしばったまま頷いた。芹沢は毛布の端を母親の体の下へ折りこみ、布ごと抱えこむようにして、畳の上を奥へ引いていく。膝が畳に当たるたびに、毛布の中で息が詰まる音がした。男の子は泣きながら、母親ではなく毛布の端を両手でつかんで、ついていく。誰に言われたのでもなかった。


 錠は何も手伝えなかった。右腕は熱を持って垂れているだけで、左手は震えている。腹が、音を立てて鳴った。こんなときに、と思うより先に、目の前が少し暗くなる。


 台所で、ヨルが萎みはじめていた。畳の上に落ちていた手のひらが持ち上がり、長い腕がたぐり寄せられるように戻っていく。目が端から閉じ、天井の穴にはまっていた頭が抜けて、白い体は玄関のほうへ引いていった。上がり口では、雨宮が戸の枠をつかんだまま膝を折っている。両角がその脇に肩を入れて、何か短く言い、外廊下へ連れ出した。手前の部屋の畳には、濡れた薄皮が、手のひらの形に残っている。


 白い鎧が、振り向いた。相手のいなくなった台所で刃を下ろし、こっちを見る。奥の部屋の戸は、まだ開いていた。芹沢の背中と、毛布の端と、男の子の足が見える。


〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉


「しない」


〈了解しました〉


 さっき一回と言って、一回やった。あの膝の音が、まだ耳の中にある。二回目を言う口は、錠にはなかった。


 立つ場所は、また境だった。足を開く力はもう残っていなくて、ただ戸口の真ん中に体を置く。白い鎧は今度は腕で払わず、肩から来た。胸に板が当たり、息が全部出て、背中が畳を滑る。それでも錠は転がりながら、奥の部屋の戸を見ていた。芹沢の手が内側から戸を引いて、閉まる。


 錠は起き上がり、白い鎧の脇をすり抜けて、台所へ出た。瓦礫を踏んで玄関へ向かう。走っているつもりで、前へ倒れつづけているだけだった。


「待て!」


 後ろで板が鳴った。追ってくる。母子の戸のほうではなく、こっちへ。それでいい、と錠は思った。なぜこっちへ来るのかは分からなかったが、理由はどうでもよかった。


 外廊下に出て、戸を背中で閉める。手前の階段の下り口に、何人かが固まって、こっちを見ている。雨宮と両角は隣の戸の中へ入る所だった。錠は反対へ、奥へ向かった。


 奥の階段の脇の壁に、鉄の小さい扉が見えた。団地の廊下の灯りは、たいていこういう所でまとめて切れる。鍵は溝を回すだけの簡単なもので、錠はズボンの尻のポケットを探った。昼に空調を直したときのドライバーが一本、入ったままになっている。


 右手は使えない。左手で先を溝に当て、回す。一度すべって、二度目でかかった。扉が開くと、中につまみが並んでいる。どれがどれかを読んでいる暇はなく、後ろでは戸の開く音がして、板の足音が外廊下に出てきていた。


 錠は並んだつまみを、手のひらで全部下ろした。


 廊下が消えた。天井に並んでいた灯りが端から端までいっぺんに落ちて、手すりの向こうの夜と、廊下の区別がなくなる。母子の部屋の戸の下から、細い明かりが一本漏れているだけだった。錠は盤の扉から手を離し、壁に背中をつけて、息を止めた。


 板の足音が止まる。暗がりの中で、白い鎧は立ったまま動かない。刃を上げかけた腕が、途中で下りる。頭の板が、右を向いて、左を向いた。


「……今、誰と戦ってた?」


 さっきまでの声から、迷いのなさが抜けていた。誰に訊くでもなく、自分の口から出た言葉を、自分で聞いているようだった。


 錠はその隙に、壁づたいに階段へずれた。母子の戸から、一歩でも遠くへ。奥の階段を、手すりにつかまって下りる。五段で膝が抜けて、残りは尻で落ちた。


 上で板が鳴り、見つかった、と思ったときには、もう目の前に立っていた。刃は来ない。来たのは拳で、板に覆われた手が、腹に一つ、肩に一つ、こめかみの横の壁に一つ入る。錠は腕で頭を抱えて丸くなった。背中の傷がまた開き、口の中に血の味がする。殴り返す手はなかったし、殴り返すつもりもなかった。ここで殴られているあいだ、あの戸の前には誰もいない。


 四つ目が来なかった。


 目を開けると、白い鎧は拳を上げたまま止まっている。肘のあたりで、板と板の合わせ目がずれて、さっきまでとは違う音がしていた。枝を折る音ではなく、もっと湿った、中で何かが擦れている音だった。鎧は自分の腕を見下ろして、もう一度握ろうとし、握りきれなかった。


 鎧の耳のあたりから、小さい声が漏れた。


「B-01、撤収」


 男の声だった。平らで、急いでいない。


「……まだやれる」


「撤収です」


 白い鎧は、しばらく動かなかった。それから拳を下ろし、錠を見て、何か言いかけて、やめた。階段を上がっていく足音が、廊下を手前のほうへ遠ざかる。途中で一度、止まった。母子の戸の前だ、と錠は思った。息が止まる。足音はまた動き出して、今度は止まらなかった。


 どのくらいそうしていたのか分からない。階段の上に、明かりが戻った。誰かが盤を上げたのだ。


「久我」


 芹沢が下りてきて、錠の前にしゃがんだ。息が上がっていた。


「連中は引いた。母親と子どもは、奥の部屋にいる」


「……連れてかれて、ない」


「ない」


 錠は壁に頭をつけた。腹が、また鳴った。


「立てるか」


「無理っす。腹、減った」


「飯は、あとだ」


 芹沢は錠の左の腋に肩を入れて、引き上げた。階段の一段ごとに、殴られた所が順番に痛む。


「隊長。B-01って、何すか」


「何だ、それは」


「あいつの耳から聞こえた。そう呼ばれて、帰ってった。名前、じゃないっすよね」


 芹沢は答えなかった。知らない、という顔だった。三階の廊下には灯りが戻っていて、手前の階段の下り口には、もう誰も立っていない。母子の戸は閉まったままだった。


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