あったかい
朝には、上の階の水漏れで天井が落ちた、という話になっていた。誰がそう決めたのかを錠は知らない。外廊下を通る人が母子の戸の前で足をゆるめ、芹沢が同じ説明を同じ声で繰り返すのを、台所の瓦礫の横で三回聞いた。
体は、どこを押しても痛かった。腹と肩は色が変わりはじめていて、背中はシャツの上から両角が貼った布がつっぱる。夜のうちに芹沢が買ってきたパンを四つ食べたのに、まだ腹の底が空いている。
奥の部屋では、直したばかりの空調が低く回っていた。母親は壁に背中をつけて座り、右の脚を前に投げ出している。膝の両側には割れた食卓の板が一枚ずつ当ててあり、裂いた敷布で上から下まで巻いてあった。芹沢が夜中にやったものだ。巻くあいだ、芹沢は軍手を二枚重ねて、一度も膝から上へ手をやらなかった。
男の子は部屋の反対の隅で、座布団を並べた上に眠っている。両腕に濡らした手ぬぐいが巻いてあり、端から見える肌は、手首から肘の内側まで赤く腫れていた。ゆうべ、母親の首に回していた所だ。
錠は戸口から入れなかった。板と敷布の下にあるものを、やったのは自分の腕だ。入って何を言うのかが、一晩たっても決まらない。
「隊長さん」
母親が言った。芹沢は台所から来て、錠の横を抜け、畳に膝をついた。
「はい」
「ゆうべの人たちは、また来ますか」
芹沢はすぐには答えなかった。
「来ないとは、言えません」
「先生のおっしゃっていた所は」
「準備が、まだです。今日あすには整いません」
母親は頷いた。手袋の両手は腿の上で握り合わされていて、その指が細かく揺れている。ゆうべからずっと止まっていない。
「真柴さんを、呼んでいただけますか」
錠は戸の枠を握った。その前のは余計だ、と言われた階段を、手のほうが覚えていた。
「分かりました」と芹沢は言った。「止めません。三好さんが決めることです。ただ、俺は見たことを全部、上に書きます」
「はい」
芹沢は立って、外廊下へ出ていった。手前の階段のほうで戸を叩く音が二回して、低い声が短く行き来し、戸が閉まった。
真柴は、日が手すりの上まで上がる前に来た。後ろに二人ついていて、その二人は外廊下で足を止め、中へは入らなかった。真柴は台所の穴を見上げ、割れた食卓を見て、何も訊かずに奥へ来た。戸口の錠の、色の変わった顎を一度見る。
「今日は、何も言わねえよ」と錠は言った。「聞かれてないんで」
「はい」
真柴はそれだけ言って、頭を下げて横を通り、母親の前で膝を折って目の高さを合わせた。添え木の脚を見て、眠っている男の子の腕を見て、それから母親の顔に戻った。
「三好さん。ゆうべのことは、聞きました。先に、二つのことを分けさせてください」
「はい」
「一つは、どこにいるか。御影さんの所へ来るかどうかです。もう一つは、私の処置を受けるかどうか。これは別のことです。処置だけ受けて、ここに残ることもできます。処置を受けずに、御影さんの所へ来ることもできます。どちらも断って、こちらの方たちの準備を待つこともできます」
母親は聞いているあいだ、一度も真柴から目を外さなかった。
「先に、どこにいるかのほうを」
「はい」
「この子と、離れずにいられる所へ行きます」母親は芹沢を見た。芹沢は戸口の、錠の反対側に立っている。「隊長さん。ごめんなさい。先生にも、あんなに診ていただいたのに」
「謝ることじゃありません」
「行きます。この子と」
真柴は頷いた。喜んだ顔はしなかった。
「分かりました。では、もう一つのほうです。前に言ったことを、もう一度言います。聞いたことがあっても、聞いてください」
体のことを全部、体の中の機械に任せる設定に書き換える。怖さや緊張は薄くなる。腹が立つことも、焦ることも薄くなる。やめたい、と言うことはいつでもできて、言えば機械はそこから先の新しいことを止める。ただ、書き換える前へ安全に戻す方法を、自分はまだ知らない。真柴はこの前の夜と同じ順番で、同じ速さで言った。錠には、一つも削っていないように聞こえた。
「止められることと、戻せることは別です。それと、症状が収まるかどうかは、いまも見込みです。収まらなかったら、そのときは私の見込み違いです」
「はい」
「そのうえで、訊きます。処置を、受けますか」
空調の音がしている。母親は男の子のほうを向いて、手ぬぐいの端からのぞいている赤い所を、長いあいだ見ていた。それから自分の、板を当てた脚を見て、最後に錠を見る。責めている目には見えず、何を見ているのかも錠には分からなかった。
言うな、と思った。口は閉じたままだった。
「はい」
母親は自分の声で言った。
「お願いします」
真柴は右手を出した。指先の、そろった細い傷あとが開いていく。開いた所から白い糸が出てきて、髪より細いそれが、母親の手のほうへ伸びる。
「手袋を、片方だけ」
母親が右の手袋を二枚とも外した。甲は白く粉を吹いている。糸はその甲に触れ、そのまま皮膚の中へ入っていった。母親は痛がらなかった。真柴の指は、母親の肌のどこにも触れていない。
錠は数えていた。数えるつもりはなかったのに、十、二十、と頭のどこかが勝手に進む。許可しますか、と訊かれて、する、と言うのに一秒もかからない。あっちは何十秒もかかるのか、と思い、だから何だ、とも思った。
四十の手前で、母親の指が止まった。
握り合わせていた左手がほどけて、腿の上に落ちる。肩が下がり、口の端に入っていた力が抜けて、息が長く一つ出た。眠ったのかと思うほど静かな顔だったが、目は開いていて、ちゃんと真柴を見ている。
糸がたるんで、真柴が手を引いた。指先を握りこんで、開く。小指の先を親指でこすり、確かめるように、もう一度こすった。
「終わりました。気分の悪い所はありませんか」
「いいえ」母親は自分の右手を裏返して見た。「……静かです」
それから左の手袋も外した。二枚ともていねいに重ねて、畳の上に置く。
「蒼」
男の子は座布団の上で目を開けていた。いつから起きていたのか分からない。母親が両手を広げても、すぐには動かなかった。素手を見て、自分の腕の手ぬぐいを見て、また素手を見る。
「おいで。もう、だいじょうぶ」
男の子は立って、三歩めで走った。母親は受けとめ、素手で頭を抱え、首の後ろを抱え、頬に頬をつけた。男の子は最初、体を固くしていた。固いまま、少しずつ、母親の胸に額を押しつけていく。
誰も口を利かなかった。芹沢は端末を出して時刻を見て、しばらくしてからもう一度見る。錠は男の子のうなじと頬を見ていた。母親の手が当たっている所は、いつまでたっても、ただの子どもの肌の色だった。腕の赤い腫れはゆうべのままで、広がりも引きもしない。
「おかあさん、あったかい」
「そうね」
母親は笑った。きれいに笑えていて、その笑い方を錠は見たことがあった。寮の卓に、工具箱を提げてきた人の顔だ。
母親は男の子の頭ごしに、錠を見上げた。
「空調、ありがとうございました。ゆうべは、この子がよく眠れました」
膝のことを言え、と錠は思った。痛いと言え。あんたのせいだと言え。母親の顔には、それを言う場所がどこにも残っていなかった。
すみません、と言いかけた口が、別のことを言った。
「……あんたが決めたなら」
「はい。私が決めました」
外廊下の二人が入ってきて、母親の両側から、服の上に腋を取って立たせた。添え木の脚は畳につかない。男の子は母親の素手を握って、握った自分の手を何度も見ていた。真柴は芹沢に頭を下げ、錠にも同じ角度で下げた。
手前の階段のほうで、戸が一つ細く開いた。
「よかったね、三好さん」
母親はそっちへ、ていねいに頭を下げた。戸は閉まった。
足音が階段を下りていき、聞こえなくなってから、芹沢は端末に何か打ちはじめた。錠は奥の部屋に戻った。畳の上に、白い手袋が四枚、重ねて置いたままになっている。空調はまだ回っていた。
「隊長。あれ、治ったんすか」
「腫れは出なかった。俺が見たのはそこまでだ」
芹沢は顔を上げずに言った。
「そう書く」




