二つの封筒
返事は、寝ているあいだにも増えていた。
つぐみはシャッターを下ろした店のカウンターで、端末を立てずに手に持って、上から順に読んだ。うちの母もです。説明はありませんでした。退院してから、人が変わったみたいで。知らない名前ばかりで、どれが本当なのかを確かめる手だては、つぐみにはない。それでも一つずつ最後まで読み、読みました、と書き、もう少し聞かせてください、と書き足して送る。
続きを聞きたいです、というのも来ていた。あなたの話の、続きを。
カウンターの足もとには、きのう届いた抵抗の箱が、封を切らないまま三つ積んである。引き出しに分けるのは朝でいい、ときのうも思った。つぐみは箱を足で少し奥へ押して、次の返事を開いた。
受付の窓口には、知らない顔の職員が座っていた。
「記録の写し、ください。俺の」
「久我さんですね」職員は端末を見て、何かを確かめた。「求めがあれば、そのつど、ということになっています。少しかかりますので、そちらで」
長椅子で待つあいだ、錠は腹を押してみた。団地から戻って何日かたち、色は黄色く抜けてきたが、押せばまだ奥が痛む。肩は腕を上げなければ忘れていられた。戻った日に検査室で上から下まで診られて、貼る物を貼られ、それきりになっている。
知りたいのは、あの夜のことだった。あの人の膝に何をしたのか。それが紙の上で何という字になっているのか。自分の体の記録にそこまで書いてあるのかどうかも分からなかったが、読める物はこれしかない。
封筒は前のより薄かった。前の日付から、今日までの分だという。
部屋に戻って机に出し、錠は今度も後ろから開いた。いちばん新しい頁は処置の記録で、日付と時刻のあとに、腹部打撲、肩部打撲、背部切創、と並んでいる。冷却、被覆、経過を見る。担当医の欄に判。書いてあることは今度も全部本当で、壁に入った三つ目の拳のことまでは書いていない。
その下の欄を、錠は見る前から知っていた気がした。
負傷の場所。空いている。負傷の経緯。空いている。
前の封筒を袋の底から出して、右肩の頁を横に並べた。脱臼と熱傷の下の二つの欄と、打撲と切創の下の二つの欄。罫線の太さも、欄の幅も、空き方も同じだった。工場と団地が、紙の上では同じ白さになっている。
「……またかよ」
書き忘れじゃない、と前のときにも思ったが、確かめてはいない。同じ空き方をもう一度見ると、その疑いは前より重くなった。芹沢は団地でも端末に何か打っていた。俺は見たことを全部、上に書きます、とあの人に言うのを、錠は戸口で聞いている。書いた物がここへ来るまでのあいだに、どこかで、誰かが、この二つの欄だけを通さないのではないか。誰の手なのかは、紙を何度見ても出てこなかった。
膝のことを探すはずだった指は、その欄の上で止まったまま、先の頁へ行かなかった。
共用の卓では、両角が端末を二つ並べて何か写していた。錠が来ても顔を上げない。あの夜から、両角は錠をからかわなくなっていて、錠のほうも謝っていなかった。
錠は綴じた写しを、開いたまま卓に置いた。
「両角さん。ここ、なんで空いてんすか」
両角は手を止めて、頁を見た。処置の行は読まなかった。目は紙の上をまっすぐ下りて、二つの空欄の所で止まり、そこからどこへも動かない。初めて見る紙を読む目の動き方ではなかった。
「測定のとき、横で時刻書いてるでしょ。俺の記録に。だったら、誰がどこ書いてるか、知ってんじゃないすか」
「私が扱うのは測定値だけだ」
両角はそれだけ言って、自分の端末に目を戻した。右にも左にも、何も答えなかった。
錠は写しを閉じた。もう一つ訊けば、番号をつけて言い返されるか、黙って指を叩かれるかのどちらかで、どちらも今は要らなかった。
部屋に戻る廊下で、芹沢の戸の前を通った。戸の下から灯りが漏れていて、中でペンの先が紙を打つ音がしている。一字ずつ、間を置いて。
出す、とあの人は言った。出したあとを、錠は一度見ている。書いたとおりに、人が連れて行かれた。今度は、欄が空いている。
戸は叩かなかった。叩くなら、何を訊くのかを先に決めてからだ、と錠は思い、二つの封筒を重ねて脇に挟み直した。




