控え
訊くことは、一晩かけて一つに減らした。
次の晩、片づけのあとの卓に芹沢が一人で残るのを待って、錠は二つの封筒を持って出ていった。芹沢は湯呑みを前に置いて、罫の入った紙に何か書いている。錠は向かいに座らず、卓の角に立ったまま、新しいほうの写しを開いて紙の上に置いた。
「これ」
芹沢はペンを止めて、開かれた頁を見た。処置の行は読まなかった。両角と同じ所へ、同じ速さで目が下りる。
「空いてるな」
「空いてるな、じゃねえよ」
声が思ったより大きく出て、三つ目の戸の向こうの映画の音が小さくなった。錠は構わなかった。
「工場のときも空いてた。今度も空いてる。隊長は、団地であの人に言ったよな。見たことを全部、上に書くって。俺は戸口で聞いてた。書いたのかよ。書いて、これかよ。それとも、最初から書いてねえのか。どっちだ」
訊くことは一つのはずだったのに、口から出たら四つになっていた。
芹沢は言い訳をしなかった。ペンを置き、立って、奥の自分の部屋へ入っていく。戻ってきた手には、紐で綴じた紙の束があった。厚い。芹沢はそれを途中で開いて、錠の写しの横に並べて置いた。
角ばった字だった。寮の卓で、錠の名前を自分の名前と同じ紙に書いていた、あの字だ。
日付。場所。団地の名前と、三階、と書いてある。その下に、同行した者として久我 錠。室内の当番に久我を置いたのは芹沢の判断による。夜間、上階より侵入した骨の装甲の者一名に対し、久我は対象親子とのあいだに立ち、台所と居室の境で二度押し戻された。のち外廊下から奥の階段へ移動、同所で殴打を受けた。腹部、肩部の打撲。背部の切創は天井の落下による。
行はまだ続いていたが、錠の目は、そこから先へ進む前に紙のいちばん下へ落ちた。
芹沢 巌、と名前がある。その横に、印が押してあった。受付、という字と、日付。
「控えだ」と芹沢は言った。「出すときに、受付で押して返してくる」
錠は二枚を見比べた。芹沢の紙では、場所も経緯も、字で埋まっている。室の紙では、同じ夜の同じ怪我の、同じ二つが白い。
「……出してんじゃねえか」
「出した」
「受け取ってんじゃねえか。印、押して」
「その印は、受け取った、というだけだ」芹沢は自分の控えの印を、指で一度押さえた。「読んだとも、そのとおりだとも言っとらん」
「十分だろ」
錠は卓の縁を左手でつかんだ。受け取った。受け取って、読んで、処置のことだけ写して、場所と経緯だけを通さなかった。知らなかった人間に、この空け方はできない。知っていて、空けている。錠の中で、疑いだったものが、もう疑いの形をしていなかった。
「工場のも、出したのか」
「出した」
「空いたの、知ってたのか」
「知ってた」
短い返事が、短いまま卓に落ちた。芹沢は目をそらさなかった。そらさないことが、錠にはかえって腹立たしかった。
「じゃあ何だよ。消されるって分かってて書いて、それで何が変わるんだよ。あの人に書くって言ったのも、それか。書いたら終わりか。書いて、綴じて、印もらって、棚に入れて、それで隊長は寝れんのか」
芹沢は答えなかった。
口が一度開きかけて、何も出さずに閉じる。答えを選んでいるようには見えなかった。持っていない物を訊かれた人の顔だ、と錠は思った。持っていないなら持っていないと言え、と言いかけて、それもこの人は言わないのだと分かった。
芹沢は立って、流しの下の棚から箱を出した。蓋を開けて、白い四角い物を一枚取り、裏の紙をはがす。
「腹、出せ」
「……は」
「まだ押すと痛むんだろう。廊下を歩くとき、かばっとる」
払いのける手は、あった。左手は卓の縁から離れて、途中まで上がっていた。錠はその手でシャツの裾をつかんで、上げた。なぜ上げたのかは、自分でもうまく言えない。腹は立ったままだった。
湿布は冷たくて、芹沢の手のひらは乾いていて重かった。端を押さえる指が、黄色く抜けかけた痣の縁を、痛くない強さで一度なぞる。
「肩は」
「肩はいい」
「そうか」
芹沢は箱の蓋を閉めて棚に戻し、自分の控えを綴じ直した。錠の写しには触らなかった。
錠はシャツを下ろした。冷たいのが、腹の上にじっと乗っている。二つの封筒と、開いたままの写しが、卓の上に残っていた。それを持って部屋へ戻るのか、置いていくのか。この卓に、明日も座るのか。
まだ、どれも決めていなかった。




