かっこいい
封筒は二つとも、寮の部屋の机の引き出しに入れたままになっている。持って出ていくのか、置いていくのか。決めないまま、夏になっていた。
白い車は堀川に沿って南へ下っていた。窓を閉めていても蝉の声が入ってくる。右腕は吊り布が取れてだいぶたち、握れば元どおりに力が入った。錠は助手席でその手を膝に置いて、運転席の芹沢のほうを見ないようにしていた。必要なことは話す。飯も同じ卓で食う。それ以上のことを、あの晩から、どっちも言っていない。
「熱田の団地だ」と芹沢は前を見たまま言った。「八歳の女の子。夜になると体が光る、と相談の窓口に連絡が入った。同じ団地の中からだ」
「光るって、どのくらいすか」
「分からん。暗い所でしか見えんらしい。だから夕方に着いて、日が落ちるのを待つ」
「見てから決めるんだ」後ろで両角が言った。「隊長にしては順番が正しい。右は、光る皮膚に害はないだろうって言ってる。左は、見るまで黙ってろって」
「左が正しい」
雨宮は運転席の後ろで、窓に寄っていた。今朝、廊下で芹沢が現場だと言ったとき、三つ目の戸は訊かれる前に開いた。私も行く、とだけ言って、もう上着を着ていた。誰に言われるより先に、後ろの席に乗っていた。
団地は四階建ての棟が二つ、駐車場を挟んで向かい合っていた。三好の団地のような外廊下はなく、階段を上がると踊り場ごとに戸が二つ向き合っている。二階の左の戸を芹沢が叩くと、鎖をかけたまま、細く開いた。
「芹沢といいます。お子さんのような症状の出た人を、保護している所の者です」
「うちは、何もありません」
女の声は丁寧で、短かった。目の下が青い。
「辻さん。連絡が入っています。確かめさせてください」
「娘は寝ています」
向かいの戸の内側で、床の鳴る音がした。女はそっちを見て、唇を結び、鎖を外した。
「……中で。ここは、聞こえますから」
通されたのは台所だった。二人掛けの卓に芹沢と女が向かい合うと、あとの三人の座る所はない。錠は居間との境に立った。居間は灯りがついておらず、窓という窓に厚い布が、端を画鋲で留めて張ってある。昼の残りの明るさが、布の織り目から少しだけ漏れていた。雨宮は誰の近くにもいたくないらしく、居間へ入って、窓ぎわの壁に寄ろうとした。
「すみません。そこ、窓のそばは」
女が卓から言った。雨宮は黙って窓を離れ、居間のいちばん奥、寝る部屋の入口の横まで行って、壁に背中をつけた。女はそれ以上は言わなかった。入口の向こうは暗い。
「日が落ちるまで、ここにいさせてください」と芹沢は言った。「何も見えなければ、そう書いて帰ります」
「見えたら」
「どうしたいかを、あなたに訊きます」
女は答えなかった。卓の上で、両手の指を組んで、ほどいて、また組んだ。
布の織り目の明るさが、少しずつ引いていった。台所の灯りが届くのは居間の手前の畳までで、奥の雨宮は輪郭しか見えなくなる。両角が小声で、右は三十分、左は二十分に賭けた、と言い、錠は聞こえないふりをした。
「……光ってる」
雨宮の声だった。壁から背中を離して、寝る部屋の中を見ている。
女が椅子を鳴らして立った。錠も居間へ二歩入り、雨宮の肩ごしに、入口の中を見た。暗い部屋の奥に、押し入れの戸がある。その戸の縁の細い線が、青白かった。月の明かりを、水に溶かして薄めたような色だ。線は、息をするように、強くなったり弱くなったりしている。
誰も寝る部屋へは入らなかった。押し入れの戸のほうが、中から開いた。
小さい手が戸の縁をつかんでいて、その指の一本ずつが光っている。続いて顔が出た。頬とまぶたがいちばん明るく、首筋がそれに続いて、暗がりの中に子どもの顔の形だけが浮いた。目が、まっすぐこっちを見た。
雨宮の喉が、短く鳴った。来る、と錠が思うより先に、生あたたかい空気が居間に満ちる。雨宮の襟の後ろから白いものが盛り上がり、肩を越えて、入口から暗い部屋へなだれこんでいった。濡れた重い体が畳を沈ませ、背中が天井につかえて、長い腕が壁の上のほうを這う。白い表面に、目が開く。一つ、三つ、数える前に増える。
首の後ろで、あの声が訊いてきた。錠は口の中で、しない、と答えた。腕は出さない。あの目のいくつかは、今も錠の右手のあたりを見ている。
「結」
叫び声ではなかった。女は低く一度呼んだだけで、もう錠の横を抜けようとしていて、芹沢の腕に止められた。動かないでください、と芹沢が同じ低さで言う。
白い体は押し入れの前に立っていた。子どもは、戸の縁をつかんだまま、それを見上げている。頬の光が、さっきよりも明るくなっていた。怖がって明るくなったのか、と錠は思った。
「……かっこいい」
違った。
「おっきい。目、いっぱいある。ねえ、これ、なに。おねえちゃんの? おねえちゃんから出てるの? 名前あるの?」
雨宮は答えなかった。答えられる顔をしていなかった。口が少し開いたまま、子どもと、自分の肩から出ているものを、順番に見ている。
「名前」
「……ヨル」
「ヨル」子どもは押し入れから畳に下りた。光る指を、白い腕のほうへ伸ばしかけて、母親のほうを一度見て、引っこめる。「ヨル、かっこいい。ゆいね、光るの。ヨルは光らないの?」
「光らない」
「ふうん。おねえちゃんは、名前なに」
「……宵」
「よいちゃん」
雨宮の肩が、一度揺れた。そう呼ばれたことのある肩には見えなかった。
白い目が、端から閉じはじめた。背中が天井を離れ、長い腕がたぐられるように戻り、白いものは萎みながら雨宮のうなじへ引いていく。畳に、濡れた薄皮が点々と残った。子どもはしゃがんで、それをのぞきこんでいる。触りはしなかった。
「よいちゃん、また出る?」
「出ないほうがいいの」
「なんで。かっこいいのに」
雨宮は何か言いかけて、言葉が見つからないまま、壁ぎわまで下がった。額に汗が浮いている。両角が黙って、その横に立った。
女は芹沢の腕をくぐって娘の所へ行き、光る頬を両手で挟んで、どこも何ともないのを確かめてから、自分の体で娘を隠すように向き直った。
「この子は、どこにも行きません」
「連れて行きません」と芹沢は言った。「あなたが断ったことは、そのまま上に伝えます。ただ、連絡はこの団地の中から入っています。見た人がいる。しばらく、ここに人を置かせてください。台所と、この部屋まででいい」
「さっきの、あれは」
「出ないとは、約束できません」答えたのは雨宮だった。壁に背中をつけたまま、女のほうは見ていない。「私は、玄関の側にいます」
「やだ。よいちゃん、こっちにいて」
「結」
女は娘の肩を押さえ、長いあいだ芹沢を見ていた。それから、向かいの棟に面した窓の、布の端を見た。画鋲が一つ浮いて、隙間ができている。女は黙ってそれを親指で押しこんだ。
「……台所と、居間までです」
「分かりました」
「いつまでですか」
「まだ分かりません。分かったら、先に言います」
子どもは母親の腕の中から首を伸ばして、錠を見つけた。
「おにいちゃんは、なんか出る?」
「出ない」と錠は言った。「出さない」
「ふうん。つまんない」
両角が吹き出して、右も左もつまらないってさ、と言った。
その動画は、知らない名前から届いた。
つぐみはカウンターで、端末を両手で持って再生した。夜の団地だ。向かいの棟の二階の窓。布か何かでふさいであって、その端の細い隙間が、青白く光っている。光は弱くなって、また強くなる。七秒で終わった。
添えてあるのは三行だけだった。これも、治療のせいですか。うちの団地です。子どもがいる部屋です。
つぐみはもう一度再生し、止めて、隙間の所を指で広げた。画面が粗くなるだけで、中は見えない。子どもがいる部屋、という字を、しばらく見ていた。
それから、治療の異常かもしれない、情報を集めています、と打った。打ち終えた指は送る所の上で一度だけ止まり、押した。




