よこせ
調査協力の紙は、二晩、机の上に置いたままになっていた。
一晩目は、紙の上の文字を読むだけで終わった。検査と測定に協力すること。その記録の扱いについて定めること。本人が条件を書く欄。そこから下は、細い罫線が何本も引いてあるだけで、何も書いていない。錠はそれを、店に持ちこまれた古い機械の取扱説明書を読むときと同じように、一行ずつ指でなぞって読んだ。書いてあることより、書いていないことのほうが多い紙だった。
二晩目に、錠は鉛筆を持った。左手で持つと、鉛筆は思っていたよりずっと細く、指のあいだで勝手に回る。右手は吊り布の中で、固定具の先から指が五本出ているだけで、鉛筆を握れる形にはならない。錠は罫線の一本目に、自分の名前を書こうとして、久の字の払いが紙の外まで滑っていくのを見ていた。消しゴムで消すと、紙の表面が少し毛羽立つ。
名前は最後でいい、と思い直して、錠は欄のほうへ鉛筆を移した。何を書けばいいのかは、二晩のあいだに、だいたい決まっている。一つは、冷蔵室の戸口で、自分が岸本より先に口を開いたときのことから来ていた。もう一つは、受付の前で見た書類の見出しと、病院のベッドの上から覗いた、自分の希望を書く欄のない二枚の紙から来ていた。どちらも、うまく言葉にならないまま、二晩、頭の中に居座っている。
自分の体の記録を、自分も読める。
一行書くのに、ずいぶん時間がかかった。字は罫線から上にはみ出して、下にもはみ出して、最後の「る」だけが妙に大きくなった。錠は鉛筆を置いて、左手を何度か握ったり開いたりしてから、もう一度持った。
回収の前に、本人に聞く時間をよこせ。
こっちのほうが、もっと時間がかかった。よこせ、と書いたところで、錠は少し迷った。紙に書く言葉にしては乱暴な気がしたが、ください、と書き直すと、それは誰かに頼むための言葉になってしまう。消しゴムに手を伸ばしかけて、そのままにした。
翌朝、芹沢に連れられて、錠は室長の部屋へ行った。九重はいつものように机の向こうで書類を読んでいて、錠が紙を差し出しても、すぐには手を伸ばさなかった。
「その紙を受け取る前に、一つ」九重は書類に目を落としたまま言った。「あなたの記録には、測定値の外部提供の欄があります。読めば分かることなので、先に言っておきます。条件を出すなら、知ったうえで出してください」
錠は紙を差し出した手を、宙で止めた。
「外部って、どこ」
「軍です」九重は書類をめくった。「あなたの引き渡しの要求を、取り下げさせる条件です。あなたの体の測定値を、定期的に渡します。あなた自身は渡しません」
「軍って。あの、病院で銃向けてきたやつらに? 俺の? ……それ、いつ決まったんすか。俺、ずっとここにいたんだけど」
「決まったことを、お伝えしています」
敬語が落ちたのに、自分で気づいた。九重は気づいた様子もない。
「俺の体のデータで、何すんの」
「それは、先方の目的です」
九重はそれ以上は言わず、戸口の横の芹沢も何も言わなかった。錠は紙を自分のほうへ引き戻して、二晩かけて書いた二行を見た。
渡すな、と三行目に書くことはできる。鉛筆はポケットにある。でも九重は、要求を取り下げさせる条件だと言った。書いて、それが通ったら、表にあの灰色の車が戻ってくる。通らなかったら、書いた字が紙に残るだけだ。どっちにしても、渡すことは錠が紙を書く前に、錠のいない所でもう決まっていた。病院のベッドの上で、頭の上を行き来していた二枚の紙と同じだった。
それなら、一行目は要る、と錠は思った。渡されるものを、渡される本人が読めないのはおかしい。二行目も、消す理由がない。錠は紙を机の上に置いて、九重のほうへ押し出した。
「これで出します」
九重は書類を脇へ寄せて、錠の紙を受け取った。一度上から下まで見て、二行目のところで目を止める。
「一つ目は、受けます」と九重は言った。「求められたら、そのつど、写しをお渡しします。記録の扱いの範囲ですので」
「え。通るの」
声に出ていた。思っていたより簡単に通ったことに、錠は少し拍子抜けした。九重は紙を机の上に置き、指で二行目の端を押さえた。
「二つ目は、受けられません」
「なんで」
「回収の現場には、時間がありません。症例のほうが待ってくれない場合もありますし、軍が先に着く場合もある。本人に聞く時間を、こちらが約束することはできません」
「工場には、あった」と錠は言った。「一分もなかったけど、あった」
九重は、そこで初めて錠の顔を見た。
「あれは、あなたが作った時間です」九重の声は、書類を読んでいたときと同じ高さだった。「こちらが約束できる時間ではありません」
「作ったよ。作れたんだから、あるだろ、現場に。なあ、隊長」
錠は芹沢のほうを見た。芹沢は戸口の横に立って、腕を組み、九重の机の上の紙を見ている。口は閉じたままだった。
「隊長。いたでしょ、あそこに。あったって、言ってくださいよ」
「ありました」
芹沢は腕をほどいて、九重に向かって言った。
「一分足らずです。久我が、肩と背中で払いました。連れて行ったのは、俺です」
「だろ。ほら、あったって、隊長も——」
「次も払えるとは限らん」今度は錠のほうを向いていた。「約束は、できん」
錠は口を開けたまま、続きを待った。続きはなかった。
「……どっちの味方なんすか、それ」
芹沢は答えなかった。目だけは、錠からそらさない。
冷蔵室の戸口で、室なら聞いてくれる、と言ったのは自分だった。岸本はそれを覚えていて、病室で確かめるように口にした。あのとき錠は、室が聞いてくれるかどうかを知らなかったし、知らないまま岸本より先に口を開いた。九重の指は、まだ二行目の端を押さえている。
「岸本さん」と錠は言った。「仕事、辞めたくないって言ってました。朝の四時の焼き上がりが好きだって」
九重は書類の端に何か書きこんでから、言った。
「伺いました」
それだけで、錠が病室で言った、言っとくだけだけど、はそのとおりになった。
九重は錠の紙を自分のほうへ向け直し、一つ目の行の横に小さな丸をつけ、二つ目の行の横に短い線を引いた。それから紙を錠のほうへ戻した。
「ここに署名を。……お父さまには、こちらから通知します。未成年の方の調査協力は、本人の署名で足りますが、保護者には知らせることになっています」
父の名前が出たところで、錠の頭に、病院で受け取ったまま返していない一行が浮かんだ。ゆっくり休みなさい。通知が届いたら、父はまた、ああいう一行を送ってくるのだろうか。それとも、何も送ってこないのだろうか。錠にはどちらとも思えなかった。
錠は左手で鉛筆を持って、署名の欄に名前を書いた。久の払いは、今度は紙の中に収まる。我の字が少し傾いて、錠の字は最後の一画で欄の端に当たった。
九重は紙を受け取ると、引き出しから厚い封筒を出して、錠の前に置いた。
「あなたの記録の写しです。今日までの分」
錠が左手で持った封筒は、思っていたより重い。
部屋に戻って、錠は封筒の中身を机の上に出した。写しは綴じてあって、いちばん上の頁には、受付番号、保護区分、担当班、の欄が並んでいて、病院のベッドの上から見た白いほうの紙と同じだった。
錠はそこを飛ばして、頁をめくった。検査の頁はすぐ見つかった。首の付け根の核と、そこから伸びる根のことが、数字で並んでいる。錠は左手の指で、一行ずつたどった。抜く、という字を探していた。位置。大きさ。根の伸びている範囲。そこで行は終わっていて、抜くことについては一行もない。
「……知ってるよ、それは」
朝比奈の口から聞いたことより、一行も多くなかった。錠は頁を戻し、今度はいちばん新しい頁から読むことにして、綴じたものを後ろから開いた。
最後の頁には、九重が言ったとおり、測定値の外部提供、定期、と一行あった。錠はそこを指で一度なぞってから、一枚前に戻った。
処置の記録だった。右肩関節脱臼、整復、固定。背部熱傷、処置、被覆。日付と時刻があって、処置の内容があって、担当医の名前の欄に判が押してある。錠の右肩が台の上で元に戻ったときの、鈍い音のことは書いていなかったが、書いてあることは全部、本当のことだった。
その下に、負傷の場所、という欄がある。
「……あれ」
空いていた。
その横の、負傷の経緯、という欄も空いていた。
錠は頁をめくって、もう一枚前を見た。そこには、誰の手書きもない同じ様式の紙が一枚綴じてあって、紙の上のほうに、記入例、と印刷してあった。記入例の負傷の場所の欄には、施設内の階段、と書いてある。負傷の経緯の欄には、移動中に段を踏み外し転倒、と書いてある。どちらの欄も、字で埋まっていた。
錠は記入例の頁と、自分の頁を、交互に何度か見比べた。処置の欄は、どちらも埋まっている。場所と経緯の欄だけが、自分の頁では空いていた。
「書き忘れ、じゃねえよな。これ」
誰もいない部屋で、声に出して言った。書き忘れるなら、処置のほうも忘れる。工場に行ったことを、誰かが書かなかった。芹沢が端末に、そう記録しておいてください、と言うのを、錠は開いたままの処置室の戸の内側で聞いていた。
錠は左手で、空いている欄の罫線を、端から端までなぞった。紙はつるつるしていて、指の下で何の引っかかりもない。




