表の車
外れた肩は、処置室の台の上で、医師が錠の腕を持ってゆっくり引いて、ある所で手首をひねったときに、鈍い音と一緒に元の場所へ戻った。戻る瞬間、錠の目の奥が白くなって、台の縁を掴んでいた左手の爪が、ビニールの表面に食いこんだ。
「……っ、先に言ってくださいよ。戻すなら戻すって」
「言うと、力が入るので」
医師は手を止めずに答えた。
頭の中の声が背中の治療を提案してきたのを、錠は一言で断り、医師はもう何も訊かなかった。錠をうつぶせにさせ、焦げた上着の布が貼りついた背中を、冷たい水で濡らしながら少しずつ剥がしていく。剥がすたびに、錠の背中で熱い線が一本ずつ増えた。薬を塗った布を当てられ、包帯を胸のほうまで何周も巻かれて、最後に、固定具の右腕ごと肩を吊る布をかけられる。右腕はもう、肘から先だけでなく、肩から下がまるごと動かせなかった。
「二週間は、腕を上げないこと」と医師は言った。「熱が出たら呼びなさい」
「二週間。左だけで。……飯、こぼしますよ、俺」
「こぼしても、熱は出ません」
処置室を出ると、芹沢が廊下の壁にもたれて待っていた。芹沢は錠の吊られた腕と、包帯の上から羽織った上着を見て、何も言わずに歩きだした。
室長の部屋は、前に来たときと同じで、九重は机の向こうで書類を読んでいた。芹沢が戸口で名乗り、錠が中へ入っても、九重の目は書類の上から動かない。机の端には職員が一人立っていて、手元の板に何か書きつけていた。
「岸本さんの件、お母さまには、工場のガス漏れで検査入院、と」九重は書類をめくりながら言った。「勤め先には、担当から伝えてください。本人の意向で退職、と」
「記録は」と職員が訊いた。
「雇用先へ連絡済み。それだけで」
職員が板に書きつけるあいだに、九重はもう一枚めくった。
「それから、岸本さんへの面会は、職員以外は止めておいてください。落ち着くまで」
「あの」
錠は口を出していた。
「本人の意向って。本人、言ったんすか。辞めるって」
職員の手が板の上で止まった。九重は書類から目を上げない。
「久我さん。その件は、岸本さんの件です」
「だから訊いてんですけど。岸本さんが言ったのかって」
答えは来なかった。九重はそのまま、芹沢のほうへ言った。
「芹沢さん。昨日の同行の報告は、受けています」
「はい」
「久我さんの怪我は」
「肩を外しました。背中に火傷。医者には見せました」
九重は小さくうなずいて、書類の端に何か書きこむ。錠の頭の中には、本人の意向で退職、という言葉がまだ残っている。冷蔵室の壁ぎわで、すみません、と言いながら棚の柱を拭いていた手のことを思い出しかけたところで、部屋の戸が叩かれた。
入ってきた別の職員が、封筒を一つ九重の机に置いて、九重の耳もとで何か言う。九重は封筒を開けて、中の紙を一枚だけ引き出し、最初の数行を読んで、紙を封筒に戻した。錠の位置からは、紙の上のほうに印が押してあるのが見えただけだった。
「受領します」と九重は言った。「控えを先方に」
職員が出ていくと、九重は初めて顔を上げて、芹沢を見た。
「軍から、久我さんの引き渡しの要求です。今朝の工場の件を理由に。……移送の車が、もう表に来ているそうです」
「は? 引き渡しって、俺を? 待って、本人ここにいるんですけど。俺、いま初めて聞いたんですけど」
九重が見ているのは芹沢だった。芹沢は錠のほうを見ないまま、時間をください、と言った。
「どれくらい」
「分かりません。本人と話します」
九重は芹沢の顔を少しのあいだ見て、それから書類に目を戻した。
「表の車には、私の名前で、要求は受領した、回答は文書でする、と伝えます。それで、どこまで待つかは先方次第です」
芹沢は錠を自分の部屋の前の長椅子に座らせて、「ここにいろ」と言い、表へ出ていった。廊下の窓から、受付の向こうの通りが少しだけ見える。灰色の四角い車が一台、施設の正面に横づけされていて、その横に灰色の服の男が二人立っている。芹沢がガラスの戸を押して出ていき、二人の前で足を止めるのが見えた。芹沢は何か話し、男の一人が首を振り、芹沢はまた何か話している。
錠は長椅子から立った。面会は職員以外は止めておいてください、と九重は言っていたし、錠は職員ではなかった。階段は廊下の突き当たりにあって、錠は吊られた右腕を体に押しつけながら、手すりを左手で掴んで一段ずつ上がった。背中の包帯が、段を上がるたびに引きつれる。別の階の廊下には、病室らしい戸が並んでいて、その一つの前だけ、廊下の床に、隙間から漏れた冷気が溜まっているようだった。戸の横の札には、何も書いてない。錠はその戸を叩いた。
「……はい」
戸を開けると、部屋の中はひんやりしていた。壁際の機械から冷たい風が吹き出していて、ベッドの上に岸本が座っている。病院の寝間着を着て、膝の上に畳んだタオルを置き、その端で、ベッドの柵を一本ずつ拭いていた。岸本は錠を見て、手を止めた。
「あ、」
「近づかねえよ」錠は戸口で止まった。「ちょっとだけ、いいですか」
岸本はうなずいた。それから錠の吊られた腕を見て、上着の下の包帯のふくらみを見て、タオルを握りしめた。
「背中、すみません。私、あのとき」
「押されたんだよ、あれは。あんたのせいじゃない」
錠は戸口の枠に左の肩をもたせかけたが、どう訊けばいいのか分からなかった。冷蔵室で、答えを聞く前に自分で言ってしまったことが、まだ口の中に残っている。
「さっき、説明の人、来ました?」
「はい」岸本は柵を一本拭いた。「母には、工場でガス漏れがあって、検査で入院してるって。……それは、助かりました。母、すぐ心配するので。本当のことを言われたら、たぶん、ここまで来ちゃうので」
「そうですか」
「でも」と岸本は言った。タオルを握る手に力が入って、指の関節が白くなる。「仕事を辞めたことにされたのは、困ります。私、辞めるなんて言ってないです。辞めるって、誰が決めたんですか」
「……あんたじゃないのは、知ってる」
それしか言えなかった。誰が、のほうは喉まで来ていた。九重の部屋で職員の板に書きこまれていた、雇用先へ連絡済み、という字が目の裏にある。言えば、この人はあの部屋へ行こうとするだろう。行けないのに。
「朝の四時が、いちばんきれいに焼けるんです」岸本は柵を見たまま言った。「窯の窓から、色がつくのが見えて。……あれ、もう見られないんですか」
「分かんねえ」と錠は言った。「でも、あんたがそう言ったって、言っとく。言っとくだけだけど」
岸本は顔を上げて、錠を見た。少しして、うなずいた。
「室なら聞いてくれるって、言ってくれましたよね」
錠は何も言えなかった。岸本は責めるような顔はしていない。ただ確かめるように錠を見て、それからまた柵を拭きはじめた。
廊下に足音がした。振り返ると、芹沢が階段の上に立っていた。芹沢は錠と、開いた戸と、戸の向こうの岸本を順番に見て、錠のほうへ歩いてきた。
「久我」
一度だけ名前を呼ばれて、それ以上は何も言われなかった。錠は岸本に頭を下げて戸を閉め、芹沢のあとについて廊下を戻った。階段の踊り場で、芹沢が足を止めた。
「表の車は、まだいる」芹沢は窓の外を見たまま言った。「室長は、文書で答えると言った。それまで待つかどうかは、向こうが決める。俺に稼げるのは、ここまでだ」
「俺がいなくなればいいんですか」
「そういう話はしてない」芹沢は錠を見た。「お前がどうしたいかを聞いてる。軍の車に乗るか。ここに残るか」
「残るって言ったら、あれ、帰るんすか」
「帰るとは言ってない」芹沢はまた窓の外の車を見た。「室の保護を受けた人間を、向こうは、その場で無理には連れて行けん。分かってるのは、そこまでだ」
「その場では、って」
「寄こせという紙は残る。応じるか断るかは、室長が決める」
「じゃあ、残るって言わなかったら」
「その取り決めでは、守れん」
選べと言うわりに、どっちもろくな話じゃない。
錠は踊り場の窓から、灰色の車を見た。運転席の窓が少しだけ開いていて、中で誰かが端末を見ている。錠は吊られた右腕の固定具の、指先が出ているところを見下ろして、指を動かしてみた。
「俺は、ここに残る」
芹沢は少し間を置いた。
「ここに残るってのは、室の保護を受けるってことだ。それでいいか」
「……いい」
芹沢はうなずいて、階段を下りていった。錠は踊り場に残って、窓から表を見ていた。芹沢がガラスの戸を出て、灰色の服の男に何か言い、振り返って踊り場の窓を指さす。男がこちらを見上げた。錠は窓の前に立ったまま男の顔を見返して、一度うなずいた。男は端末に何か打ちこみ、しばらく画面を見ていた。それから芹沢に何か短く言い、もう一人に手を振って、車に乗りこむ。灰色の車は、来たときと同じように静かに通りへ出ていった。
芹沢が戻ってきて、踊り場の下から錠を見上げた。
「要求は、文書のとおり有効だそうだ」芹沢は言った。「車は引いた。要求は引いてない」
「それ、勝ったんすか。負けたんすか」
「どっちでもない。飯を食え」
夕方、錠の部屋に、九重の部屋にいた職員が来た。盆の横に、紙を一枚置いていく。紙のいちばん上に、調査協力、と書いてあった。その下に、本人が書く欄があって、何も書かれていない欄が、紙の下のほうまで続いていた。




