冷蔵室の戸口
室の施設の処置室は、検査室よりずっと狭かった。白い上着の医師が、錠の右腕から割れた固定具の残りを一つずつ外していき、外すたびに破片を金属の皿に落とす。皿が鳴るたびに、戸口に立った芹沢がそちらを見た。医師は錠の肘の内側を指で押し、手首を返させ、指を一本ずつ握らせてから、腫れはひどいが骨はつながっている、と言った。
〈右腕の損傷の治療を提案します。許可しますか〉
「しない」
医師が顔を上げたので、錠は「こっちの話です」と言った。医師はそれ以上訊かずに、新しい固定具を腕に当て、留め具を下から順に締めていく。締めるたびに腕の芯で熱がうずいて、錠は奥歯を噛んで天井の明かりを見た。最後の留め具が締まったところで、錠は戸口のほうへ首を回した。
「行きます」
芹沢は錠の顔を見て、それから新しい固定具を見た。
「そうか」
芹沢は手首の端末を口もとに寄せて、廊下へ一歩出た。戸は開いたままで、低い声がそのまま聞こえてくる。
「芹沢です。久我を、俺の現場に同行させます。……はい。俺の判断です。そう記録しておいてください」
端末の向こうで誰かが何か言い、芹沢は「はい」とだけ答えて通話を切った。医師が使い終わった道具を皿にまとめ、錠に、熱が上がったら呼びなさい、と言って出ていく。芹沢は戸口から錠を見下ろした。
「寝ておけ。呼びに来る」
部屋で横になっても、すぐには眠れなかった。あの炊飯器で炊いた飯を誰かが食べたのか、靴下のまま走ったあの子がどこへ行ったのか、錠には分からなかったし、訊ける相手もいなかった。
呼びに来たのは、窓のない部屋の時計が四時を回ったころだった。錠が上着に袖を通しかけて、固定具の右腕では通らないのを思い出して肩に引っかけると、芹沢が黙って上着の前に手を伸ばした。
「いや、自分でやれます。……やれないっすね、これ」
片手ではボタンが穴を探しているうちに逃げる。芹沢は何も言わずに、上から順に留めていった。
白い車の運転席には、錠の知らない職員が座っている。車が走り出すと、芹沢は端末の画面を錠のほうへ少し傾けた。女の顔写真と、短い文が何行か並んでいる。
「岸本 奈央。二十六。パン工場の夜勤だ。体の中のやつが、自分で異常を知らせてきた。体の表面が熱くなってる」
「熱くって」
「触ったものが焦げるくらいだ。……今のところ、誰も火傷はしてない」
「焦げるって、人が。……それ、本人は熱くないんすか」
「分からん。だから行く」
芹沢は画面を消して窓の外を見たまま、軍も、いずれ知る、その前に着きたい、と言った。
工場は、川沿いの倉庫の並ぶ通りにあった。夜明け前の空気の中に、焼けた小麦の甘い匂いが流れてくる。駐車場の端に、白い作業着の人たちが五、六人かたまっていて、帽子を握ったまま工場のほうを見ていた。芹沢が車を降りて近づくと、年配の男が一人、こちらへ早足で来た。
「岸本さんが、冷蔵室に入って出てこないんです。みんな外に出ててくれって、本人が。台の上の生地が、あの子が手をついたとこだけ焼けてて」
「誰か、触られたか」
「いえ。……あの子、触らせないんです。近づくと、すみませんって、下がっちゃって」
芹沢はうなずいて工場の扉へ歩いていき、錠はそのあとについていった。
中は明るく、暖かかった。長い作業台の上に丸めた生地が並んでいて、奥の窯の窓の向こうで、焼き上がりかけたパンが色づいている。作業台の一か所だけ、生地が平たくつぶれて表面が茶色く焦げていて、その横の鉄の天板には、手のひらの形の焦げ跡が五本の指まで残っていた。冷蔵室は作業場のいちばん奥にあって、厚い銀色の扉の隙間から、白い湯気が細く漏れている。
芹沢は扉の前で足を止め、扉を二度叩いた。
「岸本さん。芹沢という。あんたみたいな体になった人を、保護してる所の者だ」
扉の向こうで、何かが金属に当たる音がした。
「……すみません。来ないでください」
声ははっきりしていて、語尾まで聞こえた。扉に近づいてくる足音はしない。
「開けなくていい。そのままで聞いてくれ」芹沢は扉に手を触れずに言った。「あんたの体のことを、調べて、手当てする所がある。そこに来るかどうかは、あんたが決めていい」
返事はなかった。湯気が扉の隙間から漏れ続け、天井の換気扇が低く回っている。
工場の表で、車の止まる音が重なった。
芹沢が振り返るのと、扉の開く音がしたのは同時だった。作業場の入口から、灰色の服の男たちが入ってくる。先頭の男は作業台の列を見渡し、焦げた天板と冷蔵室の扉を見て、まっすぐこちらへ歩いてきた。後ろの男たちが、作業台のあいだに散らばる。
「回収します。下がってください」
「本人に、今、訊いてる」と芹沢は言った。
先頭の男は芹沢を見たが、答えなかった。片手を上げると、男たちが冷蔵室のほうへ歩きだす。
錠は冷蔵室の扉の取っ手を、左手で引いた。重い扉が開いて、冷えた空気と熱い空気がいっぺんに顔に当たる。中は狭く、両側の天井まである棚に生地の箱が並んでいて、奥行きは大人が二歩も歩けば突き当たるほどしかない。その奥の壁ぎわに、白い作業着の女がしゃがみこんでいた。女の周りの空気が揺らいでいて、作業着の肩から湯気が上がっている。女は布巾で棚の柱を拭いていて、錠が入ってくると、布巾を握ったまま壁に背中を押しつけた。
「すみません、来ないで」
「来ねえよ」
錠は扉の内側に立って、作業場のほうへ向き直った。扉の枠に左手をかけ、体を戸口いっぱいに広げる。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
男たちが二人、錠の前まで来て、「どいてください」と言った。
「いやだ。いま訊いてんだろ、本人に。隊長が。聞こえてなかったのかよ」
「腕に注意しろ」と先頭の男が言った。「傷はつけるな」
片方の男が錠の固定具の右腕を両手で掴み、もう片方が錠の左手を扉の枠から剥がしにかかった。錠は足を床に踏ん張り、左手の指を枠の角に引っかけて、体を戸口から動かさなかった。右腕が後ろへねじ上げられる。固定具ごと肘を返され、肩が、自分の体の外へ引っぱり出されるように軋んだ。
「痛っ、待て、そっちは曲がんねえって——」
肩が外れた。
音は自分の体の中で聞こえた。右腕から力が抜けて、ぶら下がる重さだけが残る。
「……はは。外れた。外したぞ、お前ら」
笑っているのは口だけで、目の前が白くちらついていた。錠の膝が一瞬崩れかけ、それでも左手は枠から離れなかった。左手を剥がしきれなかった男が、錠の胸に肩ごとぶつかってきた。枠にかけた指が外れないまま、錠の体は戸口を斜めにふさいだ形で、冷蔵室の中へ一歩ぶん押しこまれる。その一歩で、背中のすぐ後ろが奥の壁だった。
背中が、熱いものに当たった。壁ぎわから立ち上がりかけていた女の肩で、そこへ錠の背中が押しつけられて、上着の布越しに焼けた鉄を当てられたような熱が走る。女の喉から短い声が漏れた。
「すみません、すみません、離れて、」
「離れらんねえんだよ、挟まってんだから! 謝んな、あんたのせいじゃねえ」
女は壁と錠の背中のあいだで体を縮め、棚の柱にしがみつくようにして横へ逃げようとしたが、棚が詰まっていて逃げる場所がない。上着の背中から、布の焦げる匂いが上がった。
〈右肩関節、脱臼。背部、熱傷。治療を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しないって。順番に訊くな、どっちもしねえよ」
錠は息を吐いて、左手の指を枠の角にかけ直した。前からは灰色の服の男たちが錠の体を引き、後ろからは女の熱が背中を焼いて、錠の体は戸口に挟まったまま動かない。男の一人が錠の顔の前で何か言っていたが、錠には聞こえなかった。錠は首だけを後ろへ回した。女の顔が、肩越しにすぐそこにあった。
「あんた、どうしたい」
女は錠を見た。唇が動きかけて、何も出てこない。
「室なら、聞いてくれる」
言ってから、錠は自分が何を言ったのかに気づいた。女の唇が、言いかけた形のまま止まっていた。女は錠の顔を見て、それから錠の向こうの、灰色の服の男たちと、その後ろに立つ芹沢を見た。
「……そっちに、行きます」と女は言った。「その、室に」
芹沢が先頭の男のほうへ一歩出て、本人が保護に同意した、と告げた。
先頭の男は芹沢を見て、それから冷蔵室の戸口まで来て、錠の肩越しに中を覗きこんだ。
「岸本 奈央さんですね。今の言葉は、あなたの意思ですか」
女は布巾を握りしめたまま、うなずいた。それから、うなずくだけでは足りないと思ったのか、はっきり言った。
「はい。室に、行きます」
先頭の男はしばらく女の顔を見ていた。それから片手を上げて、錠を掴んでいた男たちに下がるよう合図する。右腕を離された瞬間、外れた肩に重さが全部かかって、錠は扉の枠にもたれたまま声も出せずに息を吸った。
先頭の男は手元の板を出して、錠を撮った。戸口に挟まった錠の体と、ぶら下がった右腕と、焦げた上着の背中を、一枚ずつ。それから冷蔵室の扉と、作業場の入口までの距離を撮って、板に何か長く打ちこみはじめた。
「回収の妨害として、記録します」
男はそう言って板をしまい、作業場の入口のほうへ戻っていった。灰色の服の男たちがそのあとに続き、扉の開く音と閉まる音がして、表で車のエンジンがかかる。
錠は作業場の壁の時計を見た。男たちが入ってきたとき、長い針は五十二分のところにあった。針は、まだ五十三分に届いていなかった。




