今そいつに聞くな
駐輪場の端で銃を構えていた二人が、一歩ずつ後ろへ下がっていった。片方が肩の無線に何か短く言い、もう片方は銃口を錠の右腕に向けたまま、靴の踵でコンクリートを探るようにして通りのほうへ戻っていく。建物の入口からも、中へ入っていた男たちが一人、また一人と出てきて、錠の腕を大きくよけながら通りの車のほうへ退いていった。通りの両端の車のそばでは、灰色の服の男たちが動きを止めて、こちらを見ていた。誰も、倒れた兵士を取りに来ない。兵士は錠の赤黒い拳と、その横に片膝をついた静のあいだに仰向けになったまま、自分の膝を見ようとして首を起こしかけ、起こせずにまた頭を落とした。
拳が縮みはじめた。コンクリートの穴から赤黒い肉が引き抜かれ、巻きついていた筋肉の束が肩のほうから順にほどけて、腕の中へ戻っていく。伸びていた指の骨が軋みながら元の長さに縮み、最後に残ったのは、腫れて熱を持った錠の右腕と、肘から先にぶら下がった固定具の破片だった。錠はその腕を左手で抱えこんで、膝からコンクリートに座りこんだ。
〈体温、三十八度九分。血糖値、低下〉
「……黙ってろ」
声がかすれていた。腹の底は焼けるように空っぽだった。目の前の穴は錠の拳の形をしていて、指の関節の跡まで残り、縁から細かいひびが四方へ走り、そのひびの一本は、兵士の耳の下まで届いている。錠は穴から目を離せないまま、左手の指で、自分の右手の関節を一つずつ押さえた。
静が立ち上がった。袖口から覗く左の前腕に、白い筋がまだ一本だけ残っていて、それもゆっくり皮膚の下に沈んでいく。静は建物の入口のほうを振り返って、中へ呼びかけた。
「タオルと、板を。それから、ハサミ」
入口の戸が開いて、流しの女と、勤めから帰っていた男が出てきた。女は腕にタオルを何枚も抱えていて、男は物干しの竹竿を一本と、まな板を持っている。二人は通りの両端の車をちらりと見たが、静がうなずくと、まっすぐ兵士のそばへ来て膝をついた。
「動かさないで。膝の下に、畳んだのを入れて」
静は兵士の脇にしゃがみ、手は出さずに、順番だけを言った。男がハサミで兵士のズボンの裾から膝の上までを切り開き、女がタオルを重ねて膝の下に差し入れる。竿は男が膝で踏んで二つに折り、まな板と一緒に脚の両側に当てて、タオルで縛っていく。兵士は縛られるたびに喉の奥で声を上げ、そのたびに片手でコンクリートを掻いた。頬の擦り傷から血がにじんでいて、女がそれを、別のタオルの端で押さえる。錠は座りこんだまま、それを見ていた。手を出せることは何もなかったし、止める理由もなかった。
「……自分、」と兵士が言った。「自分は、命令で、」
「うん。分かってる」
静は兵士の顔を覗きこんで、名前を訊かなかった。縛り終えた男と女が少し下がると、静は兵士の肩のそばに膝をついて、自分の膝の上に両手を置いた。
「痛いよね。ここでできる手当ては、これくらいなんだ」静の声は、夕飯の卓で子どもの鉛筆の先を見ていたときと同じ高さだった。「うちの先生に、体の中に治療を入れてもらえる。膝も、きっと良くなる。そのまま、うちに来ればいい。戻らなくていい。……それで、いい?」
兵士は静を見上げた。唇が乾いて白くなり、目の端から涙が耳のほうへ流れている。兵士の喉が一度上下して、唇が動いた。
「……はい」
「今そいつに聞くな」
錠の声は、自分で思ったよりも大きかった。静がこちらを向いた。
「久我くん」
「今そいつに聞くなって言ってんだよ。膝、砕けてんだぞ。そんなときに訊いたら、はいって言うに決まってんだろ」
「この人が、いま、はいって言ったんだよ」
「だから、今聞くなって」
錠は左手をコンクリートについて立ち上がった。足がふらついて、右腕の重さに体が引っぱられる。それでも二歩で静のそばまで行き、左手で静の肩を掴もうとした。指が閉じたとき、そこにはもう静の肩はなくて、錠の手は空気を握っていた。静は兵士の頭の横から半歩ずれた所に立っていて、錠の勢いがそのまま前へ流れるのを、待つように見ていた。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
「逃げんな!」
錠は体を戻しざまに、左の拳を静の腹へ振った。静は打たれる前に腰を引き、拳が通り過ぎる場所から、腹がそっくり外れている。三度目は体ごとぶつかりに行き、静の胸に肩を入れようとしたところで、足首を軽く払われた。錠の体は前に投げ出され、左手と膝でコンクリートを受けて、そこから跳ね起きる。静の首筋に、また白い筋が走っている。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しないって言ってんだろ。こいつは俺が殴るんだよ、俺の手で!」
四度目も、五度目も同じだった。錠が手を伸ばすたび、静の体はその手の届く場所から先に外れていて、静は一度も打ち返さない。錠の左手が静の上着の袖をかすめそうになったのが、いちばん近かったが、それも袖のほうが錠の指より先に動いた。息が上がり、固定具の破片が腕に当たってがちゃがちゃと鳴る。六度目に踏みこんだとき、静の手が錠の左の手首を取って、そのまま錠の背中のほうへ回したが、痛くはなかった。錠の膝が勝手に折れ、体が前へ倒れて、頬がコンクリートについた。
「くそ。離せ、くそ……」
さっき、子どもの頬が擦れていた場所だった。
「ごめんね」と静が言った。手首を押さえる力は、錠が暴れない限り何も感じないくらいに軽い。「君が嫌なら、しない。でも、これはこの人が選んだことだから」
錠は頬をコンクリートにつけたまま、兵士の顔を見た。兵士は錠ではなく、静の背中のほうを見上げている。その顔が何を望んでいるのか、錠には分からなかった。
通りの奥で、エンジンの音が重なった。
車の数が増えていた。さっきの車の後ろに、同じ形の四角い車がもう三台つながっていて、ドアが次々に開き、灰色の服の男たちが、今度は隊列を組んでこちらへ歩いてくる。静は錠の手首を離して立ち上がり、建物の入口に向かって、声を張らずに言った。
「裏から。みんな、ばらばらに」
入口の奥で足音が乱れ、隣の部屋の戸が開く音がして、それから建物の裏手のほうへ、いくつもの足音が遠ざかっていった。流しの女はタオルを兵士の頬に当てたまま一瞬だけ迷い、男に腕を引かれて、入口の中へ駆けこむ。静は兵士を一度だけ見下ろした。何か言うかと錠は思ったが、静は何も言わずに背を向け、駐輪場の奥の、建物の角のほうへ歩いていく。
角の手前で、静の膝が折れた。
静は壁に手をついて体を支えようとしたが、手のひらが壁を滑り、そのまま壁際にしゃがみこむ。顔から血の気が引いていて、唇まで白い。「おい。あんた、顔——」
錠が起き上がって近づこうとすると、静は壁にもたれたまま、片手を軽く上げて首を振った。建物の角から男が戻ってきて、静の脇の下に肩を入れ、静を半分担ぐようにして立たせる。二人の姿が角の向こうへ消える前に、静の手が男の背中を一度叩くのが見えた。
灰色の服の男たちは、駐輪場の入口で止まった。先頭の男が手を上げると、後ろの列が左右に開いて、担架を持った二人が兵士のほうへ走ってくる。先頭の男は、膝をついて起き上がりかけている錠を見下ろし、錠の右腕と、コンクリートの穴と、ぶら下がった固定具の破片を順番に見て、手元の板で何枚か写真を撮った。
「その者は」と男は錠のほうへ顎を向けたが、錠にではなく、後ろの誰かに訊いていた。「指示は」
「ありません」と後ろの誰かが答えた。
そのとき、通りの反対側から、白い車が一台、灰色の車の列の横をすり抜けるようにして入ってくる。運転席から降りてきた男は、背が高く、動きはゆっくりなのに、駐輪場の入口までの距離を誰よりも早く詰めた。交差点で白い体に自分の上着をかけていた男だと、錠はすぐに分かった。
男は錠の前に来て、一瞬だけ足を止めた。
「……ここにいたのか」
低い声だった。男は錠の顔を見て、それから錠の右腕を見て、灰色の服の先頭の男のほうへ向き直り、上着の内側から書類挟みを出して開いた。錠の位置からでも、受付番号、保護区分、担当班、の欄が見えた。
「室の保護下にある。芹沢だ」
先頭の男は書類を読み、写真をもう一枚撮った。それから板に何か長く打ちこんで、何も言わずに書類を男に返した。担架に乗せられた兵士が運ばれていき、列がそのあとについて、通りのほうへ戻っていく。担架の上で、兵士は首だけを動かして、もう誰もいない建物の角のほうを見ていた。
白い車の後ろの座席で、錠は芹沢の上着にくるまっていた。座らされるより先に、芹沢が自分の上着を脱いで錠の肩にかけたのだった。膝の上には、芹沢が助手席の袋から出してよこした菓子パンの袋が三つあって、錠は二つ目を、袋ごと噛みちぎるようにして食べている。
「……飯、食ったか」と芹沢が訊いた。
「食ってます。いま」
口の中がパンでいっぱいで、ひどい声になった。芹沢は錠の膝の上を見て、そうだな、と言った。
頭の中の声が右腕の治療を提案してきて、錠はパンを飲みこんでから、しない、と短く断った。芹沢がバックミラー越しにこちらを見たが、何も訊かなかった。車は高架の下を抜けて、暗くなった通りを走っていく。芹沢は信号で止まるたびに手首の端末を見て、一度だけ、短く何か打ちこんだ。
「軍があの家を回収にかけると分かったから、保護に来た。……お前がいるとは思ってなかった」芹沢はそう言って、少し黙った。「施設から、お前がいなくなったと言ってきてる。昼すぎからだ」
「……すみません」
「謝る相手は、俺じゃない」
信号が変わった。芹沢は前を向いたまま、少し間を置いて言った。
「あそこには、軍の評価担当が出入りしてる。お前は、付き添いもなしに、昼間に表から出てこられた。……それで、また一人で置いておくのが、いいとは思えない」
摘出、という字が頭に浮かんだ。受付の前で見た、あの書類の見出しだ。言おうとして、錠は運転席の背中を見た。上着をかけてくれた人で、パンをくれた人で、それでも、あの施設の側の人だった。どっちの人なのか、まだ分からない。錠は口を閉じて、三つ目の袋を開けた。
「俺の仕事は、ああいう現場に行くことだ」芹沢は言った。「施設に一人で残るか、一緒に来るか。命令じゃない。お前が決めろ」




