八つ目の茶碗
朝の盆と一緒に、紙袋が一つ届いた。中には紺の上着と黒いズボンと、底の厚い運動靴がたたんで入っていて、どれも値札を切った跡だけが残っている。運んできた職員は、室長の手配です、と言い、事故の日に着ていた服は血と破れがひどかったので処分しました、とつけ足した。
錠は二人前の粥を片づけてから、寝間着を脱いだ。左手だけでズボンを穿くのに手間取り、上着の右袖は固定具が通らないので、肩に引っかけて前を留める。寝間着の胸のポケットから住所の紙を出して、上着の内ポケットに移したところで、職員がもう一つ言った。
「外に出るときは、私が付き添います。保護の手続きが済むまでは、室長の指示で」
「俺の端末って、どこにあります?」
「こちらでお預かりしています」
「預かるって、俺のですよね。店長に一言入れたいだけなんすけど。生きてます、って」
「外への連絡は、室長を通していただくことになっています」
「生きてます、の五文字を?」
職員は困った顔をして、答えなかった。この人が決めているのではないのだ。伝えた、という記録があるのだから、向こうにはそれで足りているのだろう。足りてねえよ、と錠は思った。
午前の検査は、腕から血を三本抜かれ、首の後ろに板を当てられて、それで終わった。検査室を出たところで職員の手首の端末が震え、職員は画面を見て眉を寄せる。
「別の階の移送で、手が足りないそうで。……五分で戻ります。ここに座っていてください」
錠は検査室の前の長椅子に腰を下ろし、職員の背中が廊下の角を曲がるのを見送った。廊下の先には受付があり、その向こうのガラスの戸が、ときどき開いては閉まる。段ボールを積んだ台車を押した男が入ってきて、受付で伝票に何か書き、花の包みを抱えた女が、受付の職員に頭を下げて奥へ歩いていく。戸は押せば開くらしく、誰も鍵を出さなかった。錠は戸が三度開いて閉まるのを数えてから立ち上がり、長椅子の前を離れて廊下を歩いた。受付の職員が顔を上げ、錠の顔と、上着の下の固定具を見て、お大事に、と言う。錠は軽く頭を下げて、ガラスの戸を押した。
端末もないし、金もない。そのかわり道は分かった。配達で何度も通った大通りを、信号ごとに角を選びながら歩いていくと、見慣れた看板やシャッターの色が、少しずつ前から近づいてくる。腹は一時間もしないうちに鳴りはじめ、右腕は固定具の中で、歩くたびに一拍遅れて痛んだ。
〈血糖値、低下〉
「分かってるって。金がねえの。お前も見てたろ、端末ごと預けられてんだよ」
すれ違った自転車の男が振り返ったので、錠は口を閉じた。
商店街の角で、長机を出して署名を集めている年配の女が、錠の固定具を見て声をかけてきた。
「あら、その腕、どうしたの。……治療、受けてないの?」
受けていれば、こんなものを巻いて歩いてはいないでしょう、という訊き方だった。錠は足を止めた。歩き疲れていたし、施設を出てから誰ともまともに口をきいていない。
「勝手に入れられた」
言ってしまってから、何を言ったのか分かった。女は顔色を変え、長机の後ろから折りたたみの椅子を引っぱり出して、錠を座らせた。水筒の蓋に水を注いで持たせ、錠が飲み干すと、黙ってもう一杯注ぐ。
「ひどい話ね。本人に訊きもしないで。……あなたみたいな被害者のために、やってるのよ、私たち」
女はそう言って、机の上のビラを一枚取り、二つに折って、固定具と腕のあいだにそっと挟んだ。
「被害者……。いや、まあ。そう、なんすかね」
「そうよ。決まってるじゃない」
決まってるのか。錠は水の礼を言って立ち上がった。座ったのは施設の長椅子を立ってから初めてで、立ってみると、足が少し軽くなっている。
高架の柱の案内板に、住所の頭にある駅の名前が出ていて、矢印の向きを確かめてから、錠は高架に沿って歩きだした。
住所の建物は古い集合住宅で、外壁のタイルがところどころ剥げ落ち、郵便受けの並んだ入口の前に、コンクリートを打った狭い駐輪場がある。通りの端には、標識のない四角い車が一台止まっていた。錠は番地の最後の数字を紙と見比べて、廊下のいちばん端の、隣り合った二つの戸の前に立った。片方の戸の前には子ども用の小さな靴が二足並んでいて、もう片方の戸の向こうから、何かを煮る匂いがする。錠が匂いのするほうの戸を叩くより先に、戸が内側から開いた。
「来たんだね」
静は戸を大きく開けて、一歩下がった。錠を見て笑ったが、驚いた顔はしていなかった。
「座って。話は、食べてからでいいよ」
「いや、飯食いに来たわけじゃ——」
腹が鳴った。廊下に響くくらいの音だった。
「……食います」
台所のある部屋には低い卓が一つあって、壁際には座布団が積んである。流しの前に年配の女が立っていて、鍋の蓋を開けながら錠のほうを見た。
「お客さん?」
「この前、話した人」と静が言った。
「……久我です」
女はうなずいて、鍋の飯を手早く握り、皿に二つ載せて卓に置いた。味噌汁の椀がその横に来る。錠は礼を言うのも半分に、左手で握り飯を取ってかじった。米は少し焦げていて、底のほうが固い。二つ目を食べ終えるころには、皿にもう一つ増えていた。
静は卓の向こうに座って、錠が食べるのを黙って見ている。錠が三つ目を食べ終え、味噌汁を飲み干して、椀を置いても、どうして来たのかとは訊かなかった。
「この前の」と錠は言った。「なり方が違うってやつ。……あんたのは、どうなんの」
「久我くん」静は錠の名前を、一度で覚えたように呼んだ。「僕のは、君の腕みたいに外には出ないよ。中で動くだけ」
「中で」
「うん」
錠はしばらく待ったが、静の説明はそこで終わりだった。
「抜きたいって、思ったことは」
静は少し首をかしげた。考えているというより、質問の意味を確かめているような間だった。
「ないよ。僕のは、僕が頼んで入れてもらったものだから」
「……俺は頼んでねえ」
「うん」
静はそれだけ言って、錠の空になった椀を自分のほうへ引き寄せた。次に来るはずの問いを錠は待っていたが、それは来なかった。
「……訊かねえんだな、あんた。これからどうすんのかとか。なんで来たのかとか」
「君が話したくなったら、聞くよ」
「それ、楽だけどさ」
楽だけど、何なのかは、自分でも続けられなかった。錠は行き場のなくなった左手を卓の上に置いて、それから、棚の上の炊飯器に目が留まった。電源の紐が本体にぐるぐる巻きつけてあって、蓋の上に布巾がかかっている。
「あれ、壊れてんすか」
「スイッチが下りなくなってね」と流しの女が言った。「私が前の家から持ってきたやつだから、もう捨てようかって話してたところ」
錠は立って、炊飯器を棚から下ろした。画面も喋る機能もない、押し下げる棒が一本ついているだけの古い型で、側面の印字は半分かすれている。棒を指で押すと、途中まで下りて、手を離すと戻った。錠は本体を傾けて底を覗き、ねじが四本であることを確かめてから、女のほうを振り返った。
「たぶん直せますけど。直します? 捨てるなら、それでも」
女は少し驚いた顔をして、炊飯器と錠を見比べた。
「……直るなら」
静が引き出しからドライバーを出してきた。錠は左手でねじを一本ずつ回したが、本体を押さえる手がないので、三本目で炊飯器ごと卓の上を滑らせてしまう。そのとき戸が開いて、ただいま、と子どもが二人入ってきた。背の高いほうの子が、ランドセルを下ろしもせずに卓の横にしゃがみこみ、錠の手元を覗く。
「それ、直すの?」
「直す。ここ、押さえてて。両手で。動かすなよ、動いたら俺のせいじゃなくてお前のせいな」
「えー」
子どもの両手が炊飯器の胴を挟んだ。底の板を外すと、スイッチの棒を押し上げるばねが、引っかけの爪から外れて、板の上に転がっていた。錠はばねをドライバーの先で拾い上げて爪に掛け直し、棒を押して、ばねが縮んでまた伸びるのを確かめる。底の板を戻し、ねじを締めて、子どもに手を離させてから棒を押し下げると、かちり、と音がして、今度は棒が下りたまま止まった。
「おお」と子どもが言った。
「だろ。もう一回やっていいぞ」
子どもが棒を上げて、下ろす。かちり。もう一回。かちり。
錠は電源の紐をほどいて、女に本体を渡した。女は棒を一度上げて、また下ろし、同じ音を聞いて、ありがとう、と言った。
「いいっすよ。ばね一個なんで」
午後のあいだ、錠は帰るきっかけを見失っていた。子どもたちは卓に問題集を広げ、小さいほうの子が分からないところを静に訊き、静はその子の鉛筆の先を見ながら、急がずに答える。隣の部屋では誰かが布団を出していて、夕方には勤めから帰ってきた男が一人、錠に会釈して流しで手を洗った。窓の外が橙色になるころ、炊飯器から湯気が上がりはじめ、女が戸棚から茶碗を出して、卓に並べていく。
錠は茶碗を数えた。八つあった。この家の人数を、錠は誰にも訊いていない。それでも一つ多いのが誰の分なのかは、なんとなく分かった。
錠は立ち上がった。
「俺は、ここには住まない」
卓の周りの何人かが顔を上げ、静は一度だけまばたきをした。
「そう」
それで終わりだった。静は立ち上がって、壁にかけてあった上着を取る。
「駅までは、下の通りを右。二つ目の信号で左に折れれば、さっきの高架に出るよ。下まで行こう」
錠は女に、飯、ごちそうさまでした、と言った。戸口で靴を履いていると、背の高いほうの子がこちらを見ていて、錠が目を合わせると、何も言わずに部屋の奥へ引っ込んだ。
外はもう、夕方と夜のあいだの色になっていた。入口の前の駐輪場で、静が通りのほうを指さそうとして、その手を途中で止めた。
通りの端に、来たときに見た四角い車がまだいた。同じ場所で、後ろにもう一台増えている。反対の端にも、同じ形の車が一台。ドアが開いて、灰色の服の男たちが降りてくる。錠は、高架下の交差点で同じ色の服を見たことがあった。男たちは声をかけ合いもせずに散らばって、何人かは建物の入口のほうへまっすぐ来る。
「久我くん」静の声は、さっきよりも低く、ゆっくりになっていた。「たぶん、君を探しに来たんじゃないよ。行って」
「行ってって、どこに。冗談だろ、あれ、あのときの——」
通りの両側は、車でふさがれていた。
「その場を動くな」
銃を持った男が二人、駐輪場の端で足を止め、銃口を錠と静に向ける。残りの男たちは錠の横を通り抜けて、建物の中へ入っていった。廊下の奥で戸が叩かれ、誰かの声が上がり、それにかぶさるように、別の誰かが何かを言い聞かせる声が続く。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
静は動かなかった。両手を体の横に下ろしたまま、建物の入口を見ている。
入口から、子どもが飛び出してきた。背の高いほうの子だった。靴下のまま、錠と静のあいだを抜けて駐輪場の奥へ走り、自転車の列の隙間に体をねじこもうとする。その後ろから、灰色の服の兵士が一人追ってきた。まだ若く、錠より少し上くらいに見える。兵士は子どもの背中に飛びつき、二人はもつれてコンクリートの上に倒れた。
「動くな、動くなって!」
兵士は子どもの背中に膝を乗せ、片手で頭を地面に押さえつけている。子どもの頬がコンクリートに擦れて、口が開いたまま声にならない。足が二度、三度とコンクリートを蹴って、それから蹴る力が弱くなった。兵士の手は、子どもの頭を押さえたまま白くなるほど力が入っていて、兵士自身はそれに気づいていないようだった。
「おい、離せよ! 子どもだぞ、そいつ! 息、できてねえって!」
兵士は顔も上げない。錠は一歩出た。銃口が錠の胸のほうへ動く。子どもまではまだ五歩あって、静は入口を見たまま動かず、建物の中からは誰も出てこない。左手一本と固定具の腕で、膝をついた男を引き剥がせるとは思えなかった。子どもの足が、もう一度だけコンクリートを蹴った。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
許可する、のあとに何か付け足さなければいけない気がしたが、何を言えばいいのか分からないうちに、子どもの足が止まった。
「許可する」
固定具の留め具が、内側から弾けた。肘から先が熱く膨らみ、骨が軋みながら伸びて、割れた固定具の破片が足もとに散る。赤黒い筋肉の束が肩まで巻きつき、錠の右腕だったものが、錠の体を引っぱるように前へ出る。錠が掴もうとしたのは、子どもを押さえている兵士の襟首で、引き剥がせばそれで済むと思っていた。腕は襟首へは行かず、低いところへ回りこんで兵士の膝を横から打ち、打った勢いのまま上へ返って、赤黒い拳を兵士の頭の上へ持ち上げる。膝が、曲がるはずのない向きに折れる音がした。
「やめろ」
〈取り消しを受け付けました〉
「受け付けたなら止めろよ!」
拳は止まらなかった。
兵士の体が子どもの上から横へ崩れて仰向けに転がり、子どもが咳きこみながら這い出す。兵士の顔の上へ、拳が落ちてくる。錠は肩ごと後ろへ体を投げ出して腕を引いたが、落ちてくる拳の重さは、錠の体重よりずっと大きい。兵士は仰向けのまま、上から来るものを見ていた。
静がその間に入った。いつ動いたのか錠には見えなかったが、静は兵士の頭の横に片膝をつき、左の腕を、拳の通り道に斜めに差し入れていた。静の首筋から襟の中へ、皮膚の下を白い筋が何本も走る。上着の上からでも、肩が沈みこみ、鎖骨が皮膚の下を滑って位置を変えるのが分かった。拳は静の前腕に当たって、その上を滑るように外へそれた。
コンクリートが砕けた。
破片が兵士の頬に跳ね、粉が舞い上がって、夕方の残りの光の中で白く漂う。赤黒い拳は、兵士の耳から指二本ぶん横の地面に、手首までめり込んでいた。兵士は目を見開いたまま、自分の顔のすぐ横にできた穴を、首を動かさずに横目で見ていた。




