ねじではない
朝の粥は、昨日より一口少なかった。錠は匙で椀の底をこそげて、そこにもう何も残っていないのを確かめてから、盆を運んできた白い上着の女を見上げた。
「おかわりは」
「検査のあとで、と申し送りに書いてあります」
「書いたんだ、あの人。交代の十分前に」錠は匙を椀に戻した。「検査って何時です。それまでに俺、縮みますよ」
「十時です」
縮む、のほうには返事がなかった。女はベッドの脇に車椅子を寄せた。今日のうちに室の施設へ移る、検査はそちらでやる、と女は言い、錠の着替えの入った袋を膝の上に載せる。袋の中身は病院の寝間着の替えと靴下だけで、錠の服も、配達の袋も、そこにはなかった。
〈血糖値、低下。体温、三十七度九分〉
「知ってるよ。俺の腹だぞ」
女が顔を上げたので、錠は「こっちの話です。中の」と言って、固定具の右腕を膝に乗せた。指先には、昨夜挟んだ紙がまだ残っている。錠は左手でそれを抜き取り、少し迷ってから、寝間着の胸のポケットに押し込んだ。
白い車の窓からは、外がよく見えた。高架の下をくぐるとき錠は思わず首をすくめたが、車は何ごともなく通り抜けて、朝の通りを走っていく。信号待ちの交差点で、ランドセルの子どもが縁石につまずき、手のひらを見て、泣かずに走り出した。歩道の工事の男は、鉄の棒で指を挟んだらしく一度だけ手を振って、それきり作業に戻る。錠はそういうのを、昨日までと同じ町の、同じ朝の景色として眺めた。腕の固定具の中で、傷がひとつ脈を打った。
室の施設は、外から見ると古い区役所の出張所のような建物だった。灰色の四角い棟に、窓が行儀よく並んでいて、正面の看板には何の名前も書いてない。車椅子のまま中へ入り、長い廊下の先の、窓のない部屋に通された。
机の向こうで、女が書類を読んでいた。四十代の半ばくらいで、錠が部屋に入っても、書類の一枚目から目を上げない。
「九重です。ここの室長をしています」
女はそう言ってから、ようやく書類を二枚目にめくった。
「久我さんには、今日から当面、この建物で生活していただきます。午前は検査。午後は部屋で休んでいただいて、食事は一日三回、部屋に運びます。外への連絡は、こちらを通してください」
「当面って、いつまでです」
「未定です」
「未定。……あの、俺、配達の途中だったんですけど」
「荷物は、依頼主に届いています。お父さまには病院から連絡が行っています。勤め先には、事故でしばらく休むと、こちらから伝えてあります」
「店長、なんか言ってました?」
「伝えた、という記録があります」
「記録じゃなくて。なんて言ってたか、を訊いてんすけど。怒ってたとか、今日中だぞとか」
「記録にあるのは、伝えた、までです」
九重の声は少しも変わらなかった。意地悪で言っているのではなくて、本当にそこまでしか書いていないのだ、と分かるような言い方で、そのぶん余計に腹が立つ。
九重は三枚目をめくり、錠の横に立っていた職員に、検査は十時から、朝比奈先生の部屋で、と言い、錠のほうは見なかった。九重の指は、もう四枚目の端にかかっている。
「店、戻れんの。俺」
敬語がどこかへ行っていた。九重は気にした様子もなく、四枚目をめくった。
「それは、いまお答えできる段階にありません」
「段階って、誰の」
「こちらの、です」
俺の、じゃねえのかよ。言い返す言葉を探しているあいだに、紙がもう一枚めくられた。
「質問は」と九重が言った。
「飯の量って、増やせます?」
九重は初めて顔を上げ、錠の顔と、固定具の腕と、痩せた首を順番に見て、職員に「二倍に」と言った。それから書類に目を戻した。
「……通った」錠は職員のほうを向いて、小声で言った。「聞きました? 二倍。言ってみるもんすね」
職員は聞こえなかった顔で、車椅子の向きを変えた。
朝比奈先生の部屋は、廊下のいちばん奥にあった。戸を開けると、機械の熱と、焦げたような豆の匂いがいっぺんに流れてくる。壁一面に画面が並び、その前の机で、年配の女が、ガラスの器具に湯を細く注いでいた。湯は粉の上でふくらんで、ゆっくり沈んでいく。
「朝比奈です。そこに座って。……機械に淹れさせると、毎日同じ濃さになるの」
錠は訊いてもいないことに、はあ、と答えた。朝比奈は湯を注ぎ終えるまでこちらを見ず、それから器具を脇へ寄せて、錠の固定具を外しにかかった。留め具を外す手つきに迷いがない。固定具が開くと、赤く腫れた腕が出てきて、指先がまだ少し震えている。朝比奈はその指の震えを、三秒ほど黙って見ていた。
首の後ろに冷たい板を当てられ、腕を台の上に伸ばされて、動かないで、と言われた。台の上の機械が低く回りはじめ、壁の画面に、灰色の影が少しずつ浮かび上がってくる。骨の形。肩から肘、肘から手首。錠には、それが自分の腕だとすぐには分からなかった。
「これが、あなたの首の付け根」と朝比奈は言い、画面の一つを指で叩いた。「ここにあるのが、核。培養神経組織の塊。……育てた神経の細胞を、小さく固めたもの、と言えば分かる?」
「……なんとなく」
画面の首の付け根に、米粒ほどの白い影があった。そこから細い線が何本も伸びていて、首の骨の奥へ潜るものもあれば、肩を回って、右腕の中へ、神経の束に沿うように下りていくものもある。線は肘のあたりで細かく枝分かれし、手首の手前で見えなくなる。
錠は身を乗り出しかけて、首の板に止められた。見覚えがある、と思った。事故の朝に直したラジオの、後から付けられた基板。純正の配線のあいだを縫うように、新しいはんだの跡が走っていた。画面の白い線は、あれよりずっと細くて、ずっと奥まで入り込んでいる。
「これが、中にいるやつですか」
「中にいるやつ、というのが、あなたの頭の中で話す声のことなら、そう。声を出しているのは、この核」朝比奈は画面から目を離さずに言った。「あなたの血で動いている。……あなたの体が、食べたものから作る力を、横から使っている、ということ。だから、使うと飢える」
錠の腹が、そこで鳴った。朝比奈は一度だけ錠の腹のほうを見て、机の端のメモに何か書きつけた。
〈血糖値、低下〉
「うるせえ」
「何か言われた?」
「腹が減ってるって」
「それは正しい」
朝比奈はそう言って、もう一つの画面を拡大した。首の付け根の白い影から伸びる線のうち、いちばん太い何本かが、首の骨の中の、さらに奥へ入っている。影はそこで灰色の組織と見分けがつかなくなっていた。
「抜いてくれよ」と錠は言った。「これ。全部」
「抜いてほしい。この核と、根を全部」朝比奈は錠の言葉を、ゆっくり言い直した。「根が首の奥まで入っている。脳幹と、脊髄。……頭と体をつなぐ、いちばん太い神経の通り道。そこに絡んでいる。今の技術では、抜けば死ぬ」
「は?」
台の上の機械が、低く回り続けている。
「いや、待って。入れるときは勝手に入れたんだろ。寝てるあいだに。で、抜くときは死ぬって、何だよそれ。順番おかしいだろ。入れられるなら抜けるだろ、普通。ねじだって、締めたのと逆に回しゃ抜け——」
「ねじではないの」朝比奈は画面を見たまま言った。「絡んでいる、と言ったの。絡んだ物は、逆に回しても解けない」
錠は画面を見たまま、左手で自分の首の後ろに触った。冷たい板の縁に指が当たる。そこには何の手触りもなくて、皮膚と、骨と、板があるだけだった。
「……じゃあ、無理ってことか」
「無理、とは言っていない」朝比奈は画面から目を離さなかった。「今の技術では、と言ったの」
朝比奈は機械を止め、首の板を外して、錠の腕に新しい固定具を巻きはじめた。留め具を一つずつ締めながら、錠のほうは見ずに、もう一つ言った。
「抜く方法は、いずれ見つかるかもしれない」
「いずれって、いつ」
「分からない。分からないことは、分からないと言う」
最後の留め具が締まった。朝比奈は机に戻り、さっきの器具から器に移したものを一口飲んで、少し眉を寄せる。冷めたのか、濃すぎたのか、錠には分からない。錠は固定具の指先を見て、それから寝間着の胸のポケットを、左手で上から押さえた。紙がちゃんとそこにあるのを確かめて、手を離す。
「先生」
「なに」
「その、抜く方法って、どこで探せばいいんですか」
朝比奈は器を置いて、初めて錠の顔をまっすぐに見た。答えるまでに、少し時間がかかった。
「私の知っている範囲には、まだない」と朝比奈は言った。「探すなら、私の知らないところから探すことになる」
部屋に戻ると、盆が二つ置いてあった。錠は左手で一つ目の盆を片づけ、二つ目の盆の飯に汁をかけてかき込み、最後に残った漬物を指でつまんで口に放り込んだ。腹の底の熱が、少しだけ静かになる。窓はここにもなくて、壁の時計だけが、十二時四十分を指していた。
錠は胸のポケットから紙を出して、膝の上で広げた。細い字の住所は、駅の名前で始まって、番地で終わっている。裏には何もない。錠は紙を指でなぞって、声に出さずに一度だけ読み、それから、なんでそんなことをしているのか自分でも分からなくなって、紙をたたみ直し、ポケットに戻した。
手を洗おうと廊下に出ると、突き当たりの受付の前に、見覚えのある背中があった。昨日、病室で測定器の画面を見ていた男だ。男は受付の机の上に書類の束を置き、角をとんとんと二度そろえてから、受付の職員に何か話しかけている。
「朝比奈先生の検査の数値を、写しでいただけるかどうか。室長にご確認いただけますか」
錠は洗面所の戸の陰で足を止めた。男の書類の束は、いちばん上の一枚だけが少し横にずれていて、見出しの字が、廊下の明かりの下で読めた。
「摘出」
男が束をもう一度そろえると、その字は下の紙の陰に隠れた。




