取り置き
目を開けると、天井に染みが三つあった。錠は二つ目の染みの形が、店の奥の作業台にこぼした油の跡に似ていると思って、そこでようやく、自分が店にいないことを思い出した。
右腕が重い。首だけ動かして見ると、肘から先がぶ厚い固定具に包まれていて、指先だけが出ている。指は動いた。動かすと腕の芯で熱がうずいて、腹の中が空っぽの鍋みたいに鳴る。
〈宿主の意識回復を確認〉
頭の中で、あの平らな声がした。
〈右腕の損傷、重度。固定を確認。腹部の縫合、良好。体温、三十八度二分〉
「……お前、まだいんのかよ」
返事はなかった。
「いるならいるって言えよ。三十八度二分は言うくせに」
それにも返事はない。訊かれていないことには答えないらしい。訊いたつもりだったんだけど、と錠は思った。
部屋は狭い病室で、窓には外が見えないように白い膜が貼ってある。ベッドの足元に、灰色の服の男が一人、白い上着の女が一人立っていて、二人とも書類挟みを持ち、錠が目を開けたのに気づいても、互いの書類から目を離さなかった。
「移送は本日中に行います。こちらの管理区分は資産です」
「ここは室の管理下の病院です。この人は患者で、保護の対象です」
「その区分はそちらの内規でしょう」
「そちらの資産という区分も、そちらの内規です」
「あの」
二人とも聞いていない。
「あの、資産って、俺のこと? 腕のこと?」
「その区分についても、後ほど」と灰色の男が、錠ではなく女に向かって言った。
後ほどって、いつだよ。錠は枕の上で頭をずらして、二人の書類挟みを下から覗いた。灰色のほうの紙には、管理番号、資産区分、移送先、の欄が並んでいる。白いほうの紙には、受付番号、保護区分、担当班、の欄がある。どちらにも錠の名前は書いてあって、どちらの紙にも、錠がどうしたいかを書く欄はなかった。
「じゃあ、どっちでもいいんで」と錠は言った。「飯、ありますか。本人、ここで腹減ってんですけど」
二人が同時にこちらを見て、同時に書類へ目を戻した。灰色の男はそのまま部屋を出ていき、白い上着の女が残って、錠の固定具の留め具を一つずつ確かめはじめる。女の手首に巻いた端末の画面に、錠の腕を撮った写真が並んでいるのが見えた。昨日、交差点で錠の腕を撮っていた人だ、と錠は思い出した。
「あの人、どうなりました」
女の手が、留め具の上で止まった。
「白い、板の。佐野さん」
「亡くなりました」
女は留め具を最後まで確かめてから、それだけ言った。錠は、はい、と言おうとして声が出ず、代わりに左手で、シーツの上から自分の右腕の固定具を押さえた。押さえても何も変わらないのに、そうしていないと、腕のほうが勝手に何かを思い出しそうだった。
「家族とか、いたんですか」
「それは、私から言えることではありません」
女はそう言って、錠の枕元の端末に何かを打ち込み、出ていった。錠は天井の染みを見た。三つあるはずの染みが、にじんで四つにも五つにも見えた。
昼を過ぎると、灰色の服の男たちが部屋に機械を運び込んできた。壁際に三脚が二つ、ベッドの両脇に脚の長い測定器、枕元には錠の首の横に貼る丸い電極。運んできた男たちの後ろから、手元の板に何か打ち込みながら男が一人入ってきて、錠の顔ではなく固定具の右腕を見た。
「評価担当の者です。発動試験を行います。久我さんは、そのままで結構です」
「発動って、なにが」
「右腕です。昨日の現象を、条件を整えて再現します」
「再現って。いや、待って。しなくていいです、あれは。一回で」
「久我さんは、そのままで結構です」
さっきと同じ言葉が、同じ高さで返ってきた。聞いてねえな、この人。
白い上着の女が戸口で何か言いかけ、評価担当の男は書類を一枚見せて黙らせた。女は出ていかずに、壁に背中をつけて腕を組んだ。
三脚の上に載っていたのは、カメラではなかった。灰色の服の男が二人、ベッドから三歩の位置で膝をつき、短い銃をこちらに向けて構える。銃口は錠の胸と、固定具の右腕に一つずつ向いていた。
「待って待って。それ、銃ですよね。病院で。……撃つ気はないですよね」
「撃つ条件は定めてあります」と評価担当の男が言った。「久我さんが条件に入らなければ、撃ちません」
「その条件、俺にも見せてもらえます? 撃たれんの、俺なんで」
返事はなく、評価担当の男は測定器の画面を見たまま片手を上げた。銃を構えた男の一人が、立ち上がって一歩、ベッドに近づく。もう一歩。三歩目で、銃口が錠の額の高さまで上がった。評価担当の男は、それでも画面から目を上げない。
「……はは。近い近い。近いって」
笑うつもりはなかったのに、口が勝手に笑っていた。
〈脅威を検知〉
首の横の電極が、ぴっと鳴った。
〈右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
右腕の傷が、昨日のことを思い出したようにうずく。痛いのか怖いのか、錠には区別がつかなかった。錠は枕の上で、評価担当の男の手元の画面と、額の前の銃口と、自分の右腕とを順番に見た。
昨日も、同じことを訊かれた。昨日は、許可した。
「しない」
〈了解しました〉
うずきは、ただの傷の痛みのまま、どこへも行かなかった。
何も起きなかった。
測定器の画面の線は平らなまま、三脚の上の機械は低くうなり続け、銃を構えた男の額に汗が一筋流れる。評価担当の男が顔を上げて、錠を初めて正面から見た。
「一回目、反応なし」男は手元の板に目を戻して、声に出して確かめた。「……もう一度。条件を変えます」
「変えんなよ。いま、しないって言ったろ。聞いてただろ」
評価担当の男の合図で、別の男がベッドの脇に来て、固定具の上から錠の右肘を握った。握って、ひねった。腕の芯で痛みが一気に跳ね上がり、錠の喉から自分のものとは思えない声が漏れる。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しないって言ってんだろ」
〈了解しました〉
「二回目、反応なし。条件二を継続」
「継続すんな。おい。こっち見ろよ、あんた。画面じゃなくて」
男は見なかった。肘がもう一度ひねられる。痛みで目の奥が白くなって、頭の中の声がまた同じことを訊きはじめる。
「聞くなって。今聞くなって言ってんだよ、しない、しないから!」
〈了解しました〉
三度目も、何も起きない。四度目には、錠は相棒AIが訊き終わるのを待てなかった。歯のあいだから「しない」と先に押し出し、それでも〈了解しました〉は最後まで言われた。律儀かよ、と思った。評価担当の男は板に何か長く打ち込み、白い上着の女が壁から背中を離して、「終わりですね」と言った。評価担当の男は答えずに、測定器の線をもう一度見てから、部屋を出ていった。
肘を握っていた男が手を離し、銃が下ろされて、錠はようやく、自分の左手がシーツを握りしめていたことに気づいた。指をほどくと、手のひらに爪の跡が四つ並んでいる。
「……なんだ。言えば、止まるんじゃねえか」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。頭の中の声は、何も言わなかった。
夕方、白い上着の女が戻ってきて、盆を置いていった。粥と、薄い味噌汁と、刻んだ青菜。錠は左手で匙を握って、三口で粥を平らげ、盆の縁を舐めかけてやめた。足りない。体の芯の熱がまだ引かず、腹の底がずっと何かを要求している。
「おかわりって、できます?」
「明日の検査のあとで」
「明日。いや、減ってんの今なんですけど。いま」
女は腕時計を見て、「あと十分で交代なので」と出ていった。交代の人に言えってことかよ。
枕元の端末が震えた。父からで、一行だけ出ている。
〈病院から連絡がありました。ゆっくり休みなさい〉
錠は親指を画面の上で止め、今度は何か打とうとさえせずに端末を伏せかけて、画面の隅の時計に目が留まった。
十七時二分。
錠は天井を見て、三つの染みを数え直した。
「……取り置き、流れた」
五時まで、とあいつは書いてきた。過ぎたら棚に戻す、とも。
「二分だぞ。二分くらい待てよ」
言ってみたが、待たないのがあいつだというのも知っている。あの値段で、あの部品が次に出るのはいつだろう、と考えかけて、錠は考えるのをやめた。店に戻れるのかどうかも分からない体で、次の部品のことを考えるのは、なんだか損をした気がした。
夜になって、病室の明かりが半分に落とされた。廊下の足音が遠のき、窓の白い膜の向こうが暗くなる。錠は空腹で眠れずに、天井の染みの四つ目を探していた。
戸が静かに開いた。
入ってきたのは、錠とあまり変わらない年に見える男だった。紙袋を提げて、見舞い客の札を首から下げている。細い体に、無駄なものが何もついていない感じがした。男は戸を閉め、錠の顔を見て、少しだけ笑った。
「起きてたんだね。よかった」
「……誰」
「御影 静。静でいいよ」
静はベッドの脇の椅子に座り、紙袋から包みを出して、錠の膝の上の盆に置いた。弁当だった。蓋を開けると、握り飯が三つと、卵焼きと、甘く煮た人参が詰めてある。錠の腹が、自分でも驚くほど大きな音で鳴った。
「食べて。お腹、空いてるでしょう」
「空いてる。空いてるけど。ていうか、誰。見舞いって、俺、あんた知らないんだけど」
「うん。知らないよね」静は包みの紐を丸めて、紙袋に戻した。「ここで働いてる人に聞いたんだ。昨日運ばれてきた子がいて、どこへ行くかを、周りの人だけで話してるって」
あの、灰色と白のことだ。あれを見ていた人間が、ほかにもいたらしい。
「……それで弁当? なんで腹減ってんのまで分かんの」
「僕も、そうだったから」
静はそれ以上は言わず、錠の固定具の右腕に目をやった。見ただけで、何も訊かない。どうしたのか、とも、痛むのか、とも、これからどうしたいのか、とも。錠は弁当と静の顔を見比べ、それから左手で握り飯を一つ取って、かじった。塩が強くて、米が冷たくて、うまかった。
「うま。……え、これ、あんたが握ったの」
「みんなで。大勢で作ると、形がそろわないんだ」
言われてみれば、三つとも大きさが違う。二つ目に手を伸ばしたとき、静が弁当の蓋の裏に挟んであった紙を、錠に見えるように少しずらした。住所が一行、細い字で書いてある。
「ここに、僕たちの家がある。同じように体が変わった人たちが、何人か一緒に暮らしてる」
「……勧誘かよ。弁当で」
「来てほしいとは言わないよ。来たくなったら、来られる場所がある。それだけ」
「……あんたも、腕がああなんの」
静は少し考えるように首をかしげた。
「なり方が違うだけ。みんな、少しずつ違うんだ」
「病院の人、あんたが来てんの知ってんの」
「一人だけ、知ってる」静は困ったように笑った。「だから、長くはいられない」
静は立ち上がった。錠が何か訊き返す前に、戸口まで行って、振り返らずに言った。
「弁当箱は、返さなくていいから」
「いや、返すだろ、普通——」
戸が閉まった。廊下に足音はしなかった。錠は三つ目の握り飯を食べ終えてから、蓋の裏の紙を抜き出して、固定具の右腕の、指先の近くに挟んだ。左手で持っているのは、なぜか落ち着かなかった。




