高架下
ラジオの中で、男が鼻歌を歌っていた。歌の途中で声だけがすっと細くなり、雑音と一緒に消えて、あとには古いオルガンの伴奏だけが残る。巻き戻すと、また同じ所で男だけがいなくなった。
「ほらね、ここ。ここで消えるの」
作業台の向こうで、客のおばあさんが言った。持ち込まれたのはカセットの再生もできる古いラジオで、背面の蓋を開けると、あとから誰かが貼りつけた小さな基板が、配線に割り込むように座っている。雑音を自動で消してくれる後付けの部品で、はんだの跡だけがほかより新しい。錠は基板の端子を爪の先でなぞって、ははあ、と声に出した。
「いたいた。こいつだ。こいつ、じいさんの声を雑音だと思ってますね」
「じいさんじゃなくて、主人」
「すいません。ご主人の声を」錠は基板を指で軽く叩いてみせた。「頭はいいんすよ、こいつ。電車も、冷蔵庫のうなりも、ちゃんと聞き分けて消してる。で、ついでにご主人も消してる」
「ついでに」
「音程が、ちょっと、その。機械が迷うくらいには」
奥の作業台で、矢作が顔も上げずに鼻を鳴らした。客の亭主を音痴と言うな、の鼻だ。言ってない。まだ言ってない。
「外れてたのよ、あの人。ずっと」おばあさんは怒らなかった。「お風呂でも、台所でも」
「これ、要ります? 切っていいなら切りますけど。切ったら、ほかの雑音も全部そのまま入ってきます。前みたいに」
おばあさんはラジオのつまみを親指でなでて、しばらく黙っていた。
「前みたいに、ねえ。……便利なのよ、これ。電車の音とか、きれいに消えるの」
どっちでもいいっすよ、とは言わなかった。どっちでもよくないから、わざわざ持ってきたのだ。それに決めるのはこの人で、錠ではない。温まりかけのはんだごてをスタンドに戻すと手が暇になり、暇になるのが苦手なので、つまみを一つずつ外しては、刻みの溝にたまった埃を古い歯ブラシでかき出していく。
「今日中だぞ。昼から配達が三件ある」
「分かってますって。三件でしょ、三件。朝から四回聞きました」
「五回目だ」
言い返そうとしたところで、作業台の端に置いた端末が震えた。日比野電材のつぐみからだった。
〈例のやつ、五時まで。過ぎたら棚に戻すからね〉
「戻すなって」
声に出しながら、歯ブラシを持ったままの親指で〈戻すな〉とだけ返して、壁の時計を見る。十時半を回っている。あの値段を払えるかどうかは今日の配達の手当しだいで、三件だと、ぎりぎり足りない気もした。四件目、どっかに落ちてねえかな。
「日比野の娘か。手を動かせ。分かってる奴は、客の前で歯ブラシは使わん」
「歯は磨いてません。つまみです」
おばあさんが小さく笑って、それから顔を上げた。
「切って。あの人、電車の音より、うるさかったもの」
「了解。うるさいほう、戻します」
錠がこてを当てて基板の足を一本ずつ浮かせ、最後の一本が外れたところでテープを巻き戻して再生すると、オルガンの伴奏の上に、少し音程の外れた男の鼻歌が乗っていた。窓の外を電車が通って、鼻歌はその轟音にほとんど埋もれ、それでも電車が行ってしまうと、まだそこで続いている。
「うわ、ほんとに外れてる」
言ってから、しまった、と思った。おばあさんはラジオを胸に抱えて、そうでしょう、と言った。自慢するみたいな言い方だった。代金を二度数えてから置いていく。
戸が閉まるのを待って、錠は奥を振り返った。
「……いい仕事だろ」
矢作は返事をしない。
「なあ、聞いてた? 電車に負けてなかったぞ、じいさん」
「主人だ」
「ご主人」
矢作は工具箱から余ったつまみを一つ出して、黙って錠の作業台に置いた。置いたきり、もう自分の手元に戻っている。錠はつまみを指で弾いて回し、止まるまで見てから、引き出しの、同じようなつまみが溜まっている仕切りに入れた。
配達の荷は前かごに二つ、背中の袋に一つで、袋の底には昼の握り飯が二つ入っている。
「鮭か、梅か」
信号で止まるたびに、錠は声に出して考えた。梅を先にすれば、鮭を楽しみに午後を走れる。いや、いま食う鮭のほうがうまいんじゃないか。信号が変わって、結論は次の信号に持ち越しになる。
高架沿いの道はまだ朝の冷たさを残していて、春の風が首筋に入ってくる。ビルの壁面の広告では知らない家族が食卓で笑い、その下に「あなたの体に、ずっと寄り添う治療を」と字が流れていく。横断歩道の向こうで転んだ子どもが、すりむいた膝をちらっと見て、泣く前に立ち上がった。膝の傷はもう乾きかけていて、母親は子どもの頭をなでるだけで歩きだす。
次の信号の角には、人が溜まっていた。壁面の広告のちょうど下で、端末を顔の高さに構えた若い女が、背広の男の前に立っている。
「受けてから、人が変わったって言われません? ご家族とかに」
男は曖昧に笑って会釈し、横へ抜けようとした。端末がそのまま男の顔についていく。男が一歩ずれると女も一歩ずれて、答えられないんですか、と、さっきより少し大きな声で言う。周りでは二、三人が自分の端末を向けていて、買い物袋を提げた年配の男がうなずき、学生ふうの二人連れは目を伏せて足を速めた。男が治療を受けているのかどうか、錠には分からない。女のほうは、最初から分かっているような訊き方をしていた。
錠は自転車にまたがったまま、それを見ていた。鮭も梅も、どこかへ行っていた。人が変わったって言われません、のところで自分の顎が小さく下がったのに、錠は下がってから気づいた。
腰のあたりで端末が震えた。父からで、画面には一行だけ出ている。
〈今日も、いい一日を〉
錠は親指を画面の上で止め、何か打ちかけて消して、端末を腰に戻した。さっきまで信号のたびに動いていた口が、閉じたままになっている。信号が青に変わる。
高架下の交差点に差しかかったとき、右から来た灰色の輸送車が曲がりきれずに傾き、そのまま橋脚の壁に向かって滑ってきた。標識も社名もない箱のような車体で、錠は自転車ごと壁際へ逃げたが、逃げた先がちょうど、車体の倒れてくる場所だった。
「嘘だろ」
音はあとから来た。
気がつくと、錠は自転車と一緒に、横倒しになった車体の縁の下にいた。右腕が見たことのない方向に曲がっていて、腹のあたりから温かいものが服の中へ広がっていく。起きようとすると鉄の縁が胸を押さえつけて、息が半分しか入らない。
「……おい」
声は出た。
「おい。誰か。これ、どけて」
交差点のあちこちで人が起き上がっている。割れたガラスで額を切ったサラリーマンが、ハンカチを当てた指のあいだで血が止まっていくのを退屈そうに眺め、自転車ごと転んだ女の人は、ひねった足首を二、三度回してもう立っていた。みんな自分の体を確かめるのに忙しくて、縁の下までは誰も見ない。錠の腹の血だけが止まらずに、アスファルトの溝を伝ってどこかへ流れていく。
「……配達、まだ一件目なんだけど」
言ってみても、誰も返事をしなかった。笑えよ、と錠は思った。
車体の後ろで金属が軋んで、後ろの扉が片方だけ、壁に突っかかるように開いた。その隙間から、手のひらほどの脚の多い機械が這い出してきて、割れた容器の破片を踏み越え、起き上がった人たちのそばを素通りして、まっすぐ錠のほうへ来る。
「何。お前、何。来んな」
胸に這い上がった冷たい脚が、服の上から場所を探った。
〈救命処置の同意を確認できません〉
平らな声だった。
「してねえよ。同意。してねえって」
〈緊急時規定により実行します〉
勝手に、と言おうとした。
声が出なかった。
首の横に、針が入った。
暗くなった。
目を開けると、白いものが胸を押していた。壁が倒れてきたのだと思って左手で押し返すと、手のひらが熱い。壁にしては熱すぎるし、粉を吹いたようにざらついていて、押した所が内側からひびの入るような音を立てる。押し返したぶんだけ、向こうも押してきた。
「重っ……何だよ、これ」
錠はまだ同じ場所にいる。背中のすぐ後ろに交差点の明るさがあって、目の前は、開いた扉と車体のあいだにできた三角の狭い隙間で、白いものはそこをいっぱいにふさぎながら、奥の荷台の暗がりからこっちへ出てこようとしていた。厚い板を何枚も重ねたような形をしている。車の内張りか何かが剥がれて倒れてきたのなら、こんなふうに息はかからない。板の途切れた所から、湿った息が錠の顔に当たっていた。
口だった。
乾いて割れた唇のあいだに歯が見え、その少し上の、板と板の隙間の奥で、濡れた目が動いている。
「……人かよ。おい、嘘だろ、あんた、人——」
言い終わる前に板の肩が胸に来て、残りは息と一緒に押し出された。板の脇から腕が一本伸び、錠の頭の横で扉の縁をつかむ。手首に、ちぎれた灰色の帯が巻きついたまま垂れている。腕が縁を引くたびに白い体が前へ出て、錠の胸がまた詰まった。鼻の先まで来た板の端に、薄い布の切れ端が引っかかっている。内側から破れた布だった。いちばん端の一枚の根元は、赤く腫れた皮膚にそのままつながっている。
「それ、着てんじゃ……生えてんのか、それ」
男は答えない。出口に錠が座り込んでいるので、膨らんだ板の肩は横を抜けられず、男は扉の縁を引いては、その肩で錠の胸を押した。頭の中で、さっきの平らな声がした。
〈宿主の意識回復を確認〉
〈右腕の損傷、重度。腹部の出血は停止。体温の上昇を確認〉
「……宿主って誰だよ」
答えの代わりに板の肩がもう一度胸に来て、息が詰まった。
「待て、待てって。どくから。押すな、どけねえんだよ、挟まって——」
男は聞いていない。錠は右の拳を握ろうとして、指は動くのに、肘から先がありえない方向へ動くのを見た。それでも殴ろうとした。
〈推奨しません〉
「うるせえ」
〈推奨しません。右腕の損傷、重度〉
「重度なのは知ってんだよ、見えてんだから」
男の、板に覆われた口のあたりが動いて息が漏れたが、言葉にはなっていない。男の体から熱が伝わってきて、胸の上で板がまた一枚、軋みながら厚くなり、視界の端が暗くなりかける。
〈右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
戦闘使用。殴らせてくれるってことかよ、と錠は思った。どうせこの腕じゃ殴れない。
「……許可する」
右腕が熱くなった。肘から先の骨が中から押し広げられるように軋み、皮膚の下で赤黒いものが膨らんで、筋肉の束が何重にも巻きつき、指の骨が伸びて爪が黒く硬くなっていく。錠の腕だったものが錠の体よりも大きくなって、白い男の前に持ち上がった。
錠が狙ったのは肩だった。押しのけてくるのを止めたかっただけなのに、腕は迷わずに低いところへ入って、男の膝を砕いた。
板ごと膝が折れる。男の体が傾いて、胸を押していた板の肩が外れた。
息が入った。
胸の底まで空気が流れこんできて、錠は、助かった、と思いかけた。男の口から、今度ははっきりした声が出た。痛い、と言ったのかもしれない。男は崩れながら、隙間の奥ではなく、錠の肩の向こうの、交差点の明るいほうへ手を伸ばしていた。
腕は、それでもなお男の喉へ向かっていた。
「やめろ」
〈取り消しを受け付けました〉
「やめろって、止まれ、止まれよ!」
錠は肩ごと後ろへ倒れこむようにして腕を引いた。赤黒い指は動き出した勢いのまま白い板の隙間に食い込んでいき、腕の重さは錠の力よりずっと大きくて、何かが砕ける感触が腕の中を通って錠の肩まで上がってくる。外へ伸びていた男の手が、アスファルトに落ちた。白い板は、もうひびの入る音を立てない。
しばらくして、腕が縮みはじめた。赤黒い肉が中へ中へと引いていき、伸びていた指の骨が軋みながら元の長さへ戻っていく。最後に残ったのは、あちこちが腫れて熱を持った錠の右腕で、さっきまで逆に曲がっていた肘がまっすぐになっていた。
「……なあ」
錠は白い体に言った。返事はない。
「なあ、って」
体の芯が熱く、汗が噴き出してくる。それよりもひどく腹が減っていて、錠の左手が勝手に背中の袋を探り、握り飯を引っぱり出した。信号のたびにどっちから食うか考えていた二つのうちの、一つ目だった。どっちなのかは見なかった。ラップを歯で破って口に押し込み、目の前に倒れている白い体を見ながら噛んで、飲み込んで、止めようとしても手がもう二つ目を探している。ゆがんだ車体の塗装に、泣きそうな顔が映っていた。
灰色の車が三台、交差点に入ってきた。降りてきた男たちは同じ色の服を着ていて、何人かは銃を持ち、一人は書類挟みを抱えている。その男はまっすぐ錠のほうへ来て、途中で、アスファルトに落ちている白い手をまたいだ。錠の前にかがみこむと、腫れた肘の内側を指で押す。
「痛っ——痛えって。おい」
男は手を止めずに、書類に何か書きつけた。
「おい、聞けよ。その人。その人、俺が」
男はもう一度、肘を押した。
少し遅れて白い車が一台止まり、後ろの座席から降りてきた二人が、灰色の服の男たちのあいだを割って錠のほうへ来た。一人は手元の端末で錠の腕を何枚か撮っては何か打ち込み、もう一人は書類挟みの男と、錠をはさんで言い合いを始める。誰の管轄だとか、どこへ運ぶかとか、そういう言葉が錠の頭の上を行き来した。担架が運ばれてきて、置かれるときに脚が白い体の肩の板に当たって斜めに傾いたが、運んできた男は下を見ないまま、担架を少しずらして置き直す。
白い車の運転席からは、背の高い男が降りてきた。五十を過ぎたくらいに見える。動きはゆっくりなのに、交差点を渡りきるのは誰よりも早かった。男は言い合いの横を通り過ぎて白い体のそばへしゃがみ、板の隙間から、首に下げた識別票を探り出して読んだ。
「……佐野、一真」
声は低く、錠のところまでやっと届くくらいだった。男は自分の上着を脱いで、白い体の上にかけた。錠は、腫れて熱を持った自分の右腕を見下ろした。
「今のは、許可してない」
〈許可を確認しています〉




