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第9話 詫び役の妻は、自分の分を数えていない

 久瀬が差し出したのは、封筒だった。

 厚みがある。紙の合わせ目から、銭の角が見えていた。

「その、謝礼です。局の調査協力費ということで、自分が通しました」

 鶴は受け取らなかった。

 手を出しかけて、途中で止まった。止まったのが自分でも分かったので、そのまま膝の上に戻した。

「久瀬様」

「はい」

「わたしは、勘定に入りませんので」

「入ります」

 久瀬が封筒を突き出した。「入りますよ。……その、入るんです」

 語尾がだんだん小さくなって、最後は自分でも自信がなくなったらしい。それでも封筒は引っ込めなかった。

 鶴は両手で受け取った。

 二十年、金を手にしたことがない。買い物は帳面につけて、月末に払うのは帳場の仕事だった。米も味噌も、鶴の手を通らずに家に入ってきた。

 中を見ると、銭が十七枚あった。

「多うございます」

「十一件ぶんです。埋立地の」

「あれは、まだ解けておりません」

「調べたぶんは調べたぶんです」

 久瀬は綴りを開いて、日付を数えはじめた。指で追いながら、途中で顔を上げる。

「大祀まで、あと四月半ですね」

「はい」

 半月のあいだに、鶴は小さな一件を五つ片づけていた。井戸端の石が三つと、埋められた溝が一つと、切り倒された柿の木が一本。謝礼は米と味噌と、古い蚊帳と、今日の十七枚になった。

 埋立地の件だけが、動いていない。名義人が現れないからだ。


 昼過ぎ、鶴は拝殿の器を換えた。

 主様は板間にいた。近ごろは奥に引っ込まず、上がり口の近くまで出てきている。日の当たるところに座ると輪郭が薄れるので、いつも少し陰にいる。

「椿町の家は、どうなった」

「止まりません」

 鶴は水を注いだ。

「使用人が四人に増えました。二人が辞めて、二人が新しく寝込んでおります。庭の池は埋め戻すそうです」

「埋め戻す」

「はい」

 主様が、板間の埃を指で払った。

「愚かだな」

「はい」

 器を台に据える。傾きを直す。

「主様」

「なんだ」

「二十年、わたしは何をしていたのでしょう」

 言ってから、訊く相手を間違えたかと思った。この人は自分の名前すら知らない。

 それでも主様は答えた。間を置かずに答えた。

「押さえていた」

「解いていた、ではなく」

「解くのは当人だ。お前は当人ではない」

 主様は指の埃を吹いた。

「代わりに詫びると、無かったことにされた分が、お前の中へ移る。相手の腹は少しふくれる。だが、無かったことにした奴の頭の中は、何も変わらん」

 三つの文だった。それだけ言って、口を閉じた。

「では、あの家の二十年は」

「押さえられていただけだ。押さえていた者が抜ければ、古いものから順に外れる」

 鶴は器から手を離した。

 知っていた。理屈としてではなく、手のひらの感覚として知っていた。八つのときから、移したぶんは戻らないと分かっていた。移したぶんは、どこかで止まっているだけで、消えてはいない。

 それを二十年、続けた。

「存じておりました」

「知っていて、やっていたのか」

「はい」

「なぜだ」

 答えを探した。

 二十年、誰にも訊かれたことのない問いだった。母は理屈を教えずに死んだ。八朔の家は理由を訊かなかった。訊く必要がなかったからだ。やらせておけば済んだ。

「そこに、ございましたので」

 鶴は言った。

「誰も数えていなかったので、わたしが数えました。数えると、返さなければならなくなります。返せる者がいなければ、押さえるほかにございませんでした」

 主様が黙った。

 沈黙が長い。この人の沈黙はいつも長いが、今日のは種類が違った。

「では訊く」

 声が、少し低くなっていた。

「お前は自分の分を、誰に詫びさせるつもりだ」

 鶴は顔を上げた。

「自分の分、と申しますと」

「お前を無かったことにした奴がいるだろう。帳面に名が載らん。八つで奉公に出される。二十年、誰も礼を言わん。——数えていないのか、それとも、無いことにしているのか」

 草の中で、鳥が鳴いた。

 鶴は膝の上で手を重ねた。重ねてから、答えた。

「わたしのことは、勘定に入りませんので」

 主様が立ち上がった。

 板が軋む。素足が板を踏む音が、いつもより硬い。

 振り返らずに、拝殿の奥へ入っていった。何も言わなかった。何か言われるより、そのほうが分からなかった。

 鶴はその場に残って、器の水面を見た。

 揺れていない。揺らしていないのだから、当たり前だった。

 自分の言ったことを、順に並べ直してみる。押さえていた。数えていた。返せる者がいなかった。どれも本当のことだ。嘘は一つもない。

 最後の一つも、本当のことだ。

 勘定に入らない。二十年、帳面のどこにも自分の欄はなかった。作ろうと思ったこともない。作ったところで、書ける名がない。

 拝殿の奥で、板が一度鳴った。それきり静かになった。


 夕方、鶴は水を汲みに行った。

 共同井戸までは二町ある。行きは空の桶なので早いが、帰りは坂で、担ぐと肩に食い込む。桶の縄が古い。買い替える銭は、今日はある。

 汲んだ水を、いったん地面に下ろした。

 水面が揺れて、止まった。

 顔が映っている。二十年、まともに鏡を見たことがない。八朔の家には鏡があったが、鶴の部屋にはなかった。

 映っているのは、思っていたより痩せた女だった。

 鶴は指を水に入れた。

 冷たさは分からない。指が水に入ったことは、抵抗で分かる。それだけだ。

 入れたまま、しばらく置いた。

 あの人が何に足を鳴らしたのか、鶴には分からない。事実を言っただけだ。二十年、それで通ってきた。

 水面が指のまわりで揺れて、また止まった。

「……お名前が、あればよろしいのに」

 声に出してから、誰に言ったのか自分でも分からなくなった。

 あの人のことか、自分のことか。

 桶を担いで坂を上がると、鳥居の下に白が座っていた。夜になると、白はいつもそこにいる。六つの道のどれから何が来ても見えるのは、あの場所だけだ。

 六十年、そうしているのかもしれない。

 拝殿に入って、鶴は足を止めた。

 台の上の器が、二つとも空になっている。昼に注いだ水がない。こぼれた跡もない。

 奥は暗い。人の気配はするが、出てこない。

 鶴は桶を下ろして、器に水を注いだ。二つとも満たして、傾きを直した。

 それから、いつもは一杯しか汲まないところを、もう一度井戸まで往復した。

 二度目の桶を置いたとき、肩の縄の跡がひりついた。痛みは分かる。冷たさは分からないのに、痛みだけは残っている。

 器を満たし直して、鶴は外へ出た。

 朝になれば、また空になっているだろう。それが何なのかは、まだ考えないことにした。


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