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第10話 詫び役の妻は、まず子どもの手を洗う

 柱に、爪の跡が三十本ばかりついていた。

 新しいのと古いのが重なっている。高さは、床から二尺のあたり。子どもが座って、手を伸ばして掻いた高さだった。

 その柱の下に、三つばかりの男の子が寝かされている。

 左手の指が、四本とも皮が剥けていた。

「夜になると、掻くんです」

 母親が言った。目の下が黒い。何日も寝ていない顔だった。

「押さえても掻くんです。縛るのはかわいそうで」

「お湯を、いただけますか」

 鶴は膝をついて、風呂敷を解いた。

「え」

「ぬるいので結構です。それと、清い布を」

 母親が台所へ走った。

 鶴は子の左手を取った。指を一本ずつ広げる。爪のあいだに、木の粉が入っていた。柱の粉だ。

 久瀬が戸口で帽子を握っている。

「柊さん、原因は」

「順に、まいりましょう」

 湯が来た。鶴は子の手を湯につけて、粉を落とした。落としてから、指の股まで拭いて、晒を巻いた。巻き方は、二十年で覚えた。八朔の家では、使用人が怪我をしても医者は呼ばれなかった。

 子は目を覚まさない。息は浅いが、乱れてはいない。

「三日、湯につけてやってください。粉が入ったままだと、化膿します」

「はい」

「爪は切らないでください。切ると深く掻きます」

 母親が晒の端を握って、そこで初めて泣いた。


 柱を見た。

 鶴は立ち上がって、柱に手を当てた。手のひらで、上から下までなぞる。節が三つ。木目が細かい。

 いい木だった。長屋の柱にしては、良すぎる。

「どちらでお求めになりましたか」

「親父に訊いてくれ」

 戸口から声がした。父親が帰ってきた。腰に鉋を差している。指物師だ。

「巳之吉さんですね」

「あんたが、あの詫びの女か」

 巳之吉は上がり框に腰を下ろした。座り方に、隠す気配がない。

「柱のことを訊きに来たんだろう」

「はい」

「三年前だ。山の社が潰れたときに、木が出た。安かった」

 鶴は膝をついた。

「潰れた社の木だと、ご存じでしたか」

「知ってた」

 巳之吉は鉋を抜いて、床に置いた。

「知ってて、買った。ここに越すのに、いい柱が要った。あいつの腹に、これがいたからな」

 子のほうを、顎で示した。

 久瀬が何か言いかけて、鶴が手で止めた。

「その社の名は」

「知らねえ。潰したのは俺じゃない。役所だ」

「はい」

「役所が潰して、材木屋が挽いて、俺が買った。何が悪い」

 鶴は柱に目を戻した。

「悪いとは、申しておりません」

「じゃあ何だ」

「柱は、抜けません」

 巳之吉が黙った。

「抜けば、家が倒れます。お子さんの寝ている家でございます。抜きません」

「じゃあ、どうしろってんだ」

 鶴は柱の節を指でなぞった。

「元の場所へは、返せません。ですから、別の形でお返しいたします」

「別の形」

「同じ山に、同じ木を、あなた様のお手で植えていただきます」

 巳之吉の顔が歪んだ。

「山は四里ある」

「はい」

「往復で二日だ。仕事を三日休むことになる」

「はい」

「三日休んだら、来月の店賃が」

 鶴は言葉を挟まなかった。

 巳之吉が自分で数えるのを待った。数え終わるまで、けっこう長くかかった。

「……あんた、俺に、どっちを取れって言うんだ」

「わたしは、何も申しません」

 鶴は子のほうを見た。

「お子さんは、あと何晩、掻かれますか」

 巳之吉が立ち上がった。立ち上がって、柱を殴った。拳が節に当たって、皮が切れた。

 それから、鉋を拾って、腰に差した。

「明日の朝、出る」

「その前に、ひとつ」

「まだあるのか」

「今日のうちに、外で、皆さまの前でおっしゃっていただきます」

「なんで外なんだ」

「一人が覚えていても、届きませんので」


 長屋の路地に、二十人ほどが出てきた。

 夕方の井戸端は人が集まる。米を研ぐ女、風呂敷を抱えた行商、犬を連れた爺さん。それに、隣の棟から様子を見に来た者たち。

 巳之吉は路地の真ん中に立った。手拭いも巻かず、鉋も差したままで立った。

「開化九年の秋だ」

 声が、思ったより通った。

「山の社が潰れたときに、俺が、その木を買った。安かったからだ。社の木だと知ってて買った。この子の家を建てるのに、いい木だと思ったんだ」

 路地が静かになった。

 誰も咎めない。咎める者がいないと、言葉はかえって重くなる。

「知ってて買って、三年、黙ってた」

 巳之吉が膝をついた。土の上に、そのまま膝をついた。

「すいませんでした」

 頭が下がる。切れた拳の皮から、血が地面に落ちた。

 鶴は動かない。動かずに、路地の端に立っていた。

 母親が戸口で口を押さえている。誰かが、その背に手を置いた。

 顔を上げた巳之吉に、鶴は椀をひとつ渡した。空の椀だった。

「明日の朝、これに米と水を」

「用意しといてくれりゃよかったのに」

「いけません」

 鶴は首を横に振った。

「米はご自分でお研ぎください。水もご自分でお汲みください。人に持たせたものは、効きません」

「なんでだ」

「存じません。ただ、そうでございます」

 巳之吉が椀を両手で受け取った。指物師の手だ。爪が短く切ってあって、親指の腹が硬い。

 空の椀を、しばらく見ていた。

「軽いな」

「明日の朝は、重うなります」

 行商の男が、荷を下ろして近づいてきた。

「巳之吉さん。うちの荷車、明日は空いてる」

「いや、歩く」

「四里だぞ」

「歩く」

 巳之吉は椀を抱えたまま、立ち上がらずにそう言った。

 鶴は説明しなかった。説明しなくても、この人はもう分かっている。人に持たせたものは効かない。それだけの話だった。


 その晩、柱は鳴らなかった。

 鶴と久瀬は、路地を出たところで報せを聞いた。走ってきたのは、隣の家の娘だった。子どもが目を覚まして、水を飲んだという。

 久瀬が帽子を脱いで、また被った。

「柊さん」

「はい」

「あの人、明日から山へ行きますよね。三日、仕事を休んで」

「参ります」

「店賃、どうするんでしょう」

「どうにかなさるかと存じます」

 二人は坂を下りた。日が落ちて、ガス灯の点灯夫がこちらへ上がってくる。今日も会釈をされたので、返した。

「柊さん」

「はい」

「巳之吉さん、損しましたよね」

 鶴は歩きながら、少し考えた。

「あの子は、勘定に入っておりました」

「え」

「あの方が数えていたのは、ご自分の損得ではございません。柱と、お子さんと、店賃と、三つとも数えておいででした」

 鶴は坂の下を見た。

「順番が、違っただけです」

 久瀬が黙って歩いた。三歩ほど歩いてから、言った。

「柊さんは」

「はい」

「柊さんは、何を数えてるんですか」

 鶴は答えなかった。

 答えなかったので、久瀬もそれ以上は訊かなかった。訊かなかったが、鶴の手元を見ていた。

 五月なのに、鶴の指先は白かった。


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