第11話 詫び役の妻は、全部は言わせない
「すまなかった。この通りだ。もういいだろう」
沼田屋の主人は、鶴が座るより先に床へ手をついていた。
帳場の板は磨き込まれて、黒く光っている。その上に、五十がらみの男が額をつけていた。番頭が横で目を伏せている。
鶴は履物を脱いで上がり、主人の正面に膝をついた。
「それは、詫びになりません」
沼田の頭が上がった。
「なんだと」
「お顔を上げてくださいませ。そのままでは、お話が伺えません」
沼田が身を起こした。額に畳の跡がついている。
この人は分かっている、と鶴は思った。祟りだと信じていない者は、先回りして謝ったりしない。信じているから、こうする。
「二度、焼けましたね」
「蔵だ。去年の秋と、この三月」
「同じ蔵でございますか」
「同じだ。建て直したところがまた焼けた」
沼田は煙草盆を引き寄せて、また押し戻した。
「奉公人も、この半年で六人辞めた。誰も理由を言わん。いや、言わんのじゃない。言えんのだ。夜中に蔵のほうで音がするとか、そういう話だ」
「音は、どのような」
「紙をめくる音だと」
番頭の肩が動いた。
鶴はそちらを見た。番頭はすぐ目を伏せる。
蔵は店の裏にあった。
建て直したばかりの白壁が、途中から煤けている。焼けた高さがちょうど人の背丈ほどで、そこから上は綺麗だった。
鶴は焼け跡の前にしゃがんで、土を握った。
「同じところが、二度でございますね」
「二度だ」
沼田が横で腕を組んでいる。
「火の元は調べた。三度調べた。何も出ん」
「出ないと存じます」
鶴は立ち上がって、蔵の中へ入った。
湿った漆喰の匂いがする。中は空だった。焼けたあと、何も入れていないらしい。
奥の壁に、棚を外した跡があった。柱に釘穴が四つ。棚板の幅ぶん、壁の色が薄い。
「こちらに、棚がございましたね」
番頭が入口で立ち止まった。沼田は答えない。
「番頭さま」
「……はい」
「この棚には、何を置いておられましたか」
番頭が沼田の背中を見た。沼田は蔵の外を向いている。
鶴は待った。待つのは得意だった。
「証文でございます」
番頭が言った。
「お預かりものの、証文を」
「どなたの」
「隣の、駿河屋さんの」
沼田が振り返った。番頭が首を縮める。
「駿河屋さんは、六年前に潰れました。ご主人が、その年の暮れに。あとを、うちが引き取りまして」
「証文は」
番頭が黙った。
蔵の中は音が響く。外の通りを荷車が通る音が、ずいぶん近く聞こえた。
「焼きました」
番頭が言った。
「旦那さまが、ではございません。あたくしが焼きました。旦那さまは、燃やせとは仰いませんでした。ただ、あの棚を空けろと」
沼田が蔵に入ってきた。入ってきて、番頭の前に立った。
「お前が言うな」
「旦那さま」
「俺が言う。そういう決まりなんだろう」
沼田は鶴のほうを見た。
「本人が言わなきゃ効かないんだろう。だったら俺が言う」
夕方の店先には、二十人ばかりが出ていた。
近所の商家の者と、通りがかりの職人と、沼田屋の奉公人が全部。番頭が並べた床几に、年寄りが三人腰かけている。
沼田は店の暖簾の下に立った。
「言えば、うちは潰れる」
鶴に向かって、そう言った。
「証文を焼いたと言えば、駿河屋の縁者が出てくる。権利を返せという話になる。土地も、蔵も、この店もだ。奉公人が二十三人いる。その家族を入れれば七十人だ」
「はい」
「それでも言えというのか」
「はい」
沼田の顎が動いた。
鶴は膝をついた。店先の土の上に、そのまま膝をついた。
「ただし、順に、まいりましょう」
「順」
「いちばん古いものからでございます」
鶴は顔を上げた。
「証文を焼かれたのは、六年前の暮れでございますね」
「そうだ」
「その前に、もうひとつございます」
沼田の目が動いた。
「駿河屋のご主人が亡くなられたとき、弔いにいらっしゃいましたか」
沼田が答えない。
「お香典を、出されましたか」
「……出してない」
「はい」
鶴は蔵のほうを見た。
「紙をめくる音がするのは、証文の分でございます。ですが、いちばん古いのは、そちらではございません」
沼田が暖簾の柱に手をついた。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、二十人のほうへ向き直った。
「六年前の暮れに、駿河屋の徳兵衛さんが死んだ」
声が掠れている。
「俺は、弔いに行かなかった。香典も出さなかった。忙しかったからじゃない。行けば、店を引き取る話がしにくくなると思ったからだ」
床几の年寄りの一人が、口を開けた。
「あの人とは、三十年、同じ町内にいた」
沼田が膝をついた。土の上に。
「すまなかった」
頭を下げる。二十人の前で、額が土に触れるまで下げた。
誰も何も言わない。年寄りの一人が洟をすすった。
人の輪の後ろで、前掛けをした女が立ち止まっていた。二十歳そこそこで、手に豆腐の桶を提げている。近所の煮売屋で働いている娘だと、あとで番頭が言った。
沼田が顔を上げたとき、その娘と目が合った。
沼田の顔から、色が引いた。
「……お前」
娘は何も言わなかった。言わずに、桶を持ち直して、来た道を戻っていった。前掛けの裾が角で翻って、それきり見えなくなった。
番頭が鶴の袖を引いた。
「駿河屋さんの、下のお嬢さんでございます」
「こちらにお住まいですか」
「三年前から、そこの煮売屋に。旦那さまは、ご存じないはずでございました」
鶴は娘の消えた角を見た。
六年前に父を亡くし、店を失い、同じ町内で働いている。沼田は毎日その前を通っていて、気づいていなかった。
気づかないのと、無かったことにするのは、たぶん同じことだった。
その晩、蔵の音は止まった。
番頭が走ってきて、鶴に告げた。夜中の紙の音がしない、と。
鶴は聞いて、頭を下げた。
「ようございました」
「これで、済みますでしょうか」
「済みません」
番頭の顔が止まった。
「奉公人が辞めるのは、止まりません。証文の分が残っております」
「では、旦那さまに、そちらも」
「わたしは、申しません」
鶴は帳面を出した。日付を書き、無礼をした者の欄に沼田の名を書いて、返した者の欄にも同じ名を書いた。
書いてから、その下にもう一行、日付だけを書いた。名前の欄は空けた。
「残りは、あの方が決めることでございます」
「決めなければ」
「そのままでございます」
「柊さま。あの、証文の件を言えば、この店は」
「潰れます」
番頭が息を呑んだ。
「あたくしが焼いたのでございます。あたくしが言えば」
「効きません」
鶴は番頭を見た。
「あなた様は、旦那さまに言われて棚を空けました。焼くと決めたのはあなた様ですが、無かったことにすると決めたのは、あなた様ではございません」
「では、あたくしは」
「あなた様の分は、あなた様の分でございます。いずれ、別に伺います」
番頭が両手で顔を覆った。覆ってから、すぐ下ろした。手を下ろす早さで、この人が四十年こらえてきたことが分かった。
鶴は帳面を閉じた。
二十年、こういう帳面をつけてきた。片づいた行より、片づかない行のほうが多い。片づかない行は、消えない。
店先を離れるとき、沼田がまだ暖簾の下に座り込んでいるのが見えた。
立ち上がるかどうかは、この人が決める。




