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第12話 詫び役の妻は、足りない分を自分で払う

「今度のは、詫びる人が、もういないんです」


 久瀬は綴りを開かずに、そう言った。

 警邏局の裏手は、五月の終わりだというのに日が差さない。塀と物置のあいだに、去年の落ち葉がまだ溜まっている。

「亡くなっておられますか」

「去年です。心の臓だと」

 久瀬が綴りをめくった。

「南の下宿です。三階建てで、十四人住んでます。そのうち九人が、順に高い熱を出してる。医者は流行り病だと言うんですが、隣の下宿には一人も出てないんです」

「土地は」

「三年前まで、寺でした」

 鶴は塀の上を見た。雀はいない。今日は曇っている。

「壊されたのは、その亡くなった方でございますね」

「地主です。壊して、更地にして、下宿を建てて、去年死にました」

「ご家族は」

「息子が一人。商売は継いでません。……無理ですよね」

「いいえ」

 鶴は立ち上がった。

「家の名を継いだ方がいれば、道はございます」


 息子は下谷の裏長屋にいた。

 三十半ばで、着ているものは悪くないが、部屋は片づいていない。畳の上に紙が散らばっていて、そのほとんどが借用の証だった。

「親父が壊したんでしょう」

 息子は座りもせず、戸口に立ったまま言った。

「俺は関係ない。商売も継いでない。継いだのは名前だけだ」

「その名前でございます」

「は」

「壊された方は、もうおられません。ですから、この一件を返せるのは、家の名を継がれた方だけでございます」

 息子が鼻で笑った。

「金か」

「いいえ」

「じゃあ何だ」

「あなた様のお口で、皆さまの前で、いつ、どなたが、何をなさったかをおっしゃっていただきます」

 息子が黙った。黙って、部屋の紙の山を見た。

「……それだけでいいのか」

「それだけでは、足りません」

 鶴は膝をついた。

「当人が亡くなっておられますと、当人の中の分が戻りません。戻らない分は、別のもので埋めます」

「だから金だろう」

「金では代われません」

 息子の顔が歪んだ。

「意味が分からん」

「はい」

 鶴は顔を上げた。

「意味は、分からなくて結構でございます。あなた様には、口だけお貸しいただきます。足りない分は、こちらで持ちます」

「こちらって、誰が」

 鶴は答えなかった。


 寺の跡地に、下宿の住人が十人ほど降りてきた。

 熱の出ていない者だけだ。半纏を羽織った学生風の若い男が、鶴に椅子を持ってこようとして、断られていた。

 建物の脇に、三尺ばかりの空き地がある。そこだけ舗装されていない。三年前まで、そこに何かが立っていた。

 鶴は空き地の土を手で払った。石が三つ出てきた。角の丸い、古い石だった。

「息子さま」

 息子が空き地の前に立った。手を後ろで組んで、それから前で組み直した。

「開化九年に、俺の親父が、ここの寺を壊しました」

 早口だった。

「更地にして、下宿を建てました。……それだけです」

「石は」

「え」

「三つ出てまいりました。これは、どういたしましょう」

 息子が石を見た。見て、しばらく動かなかった。

「知らねえよ、そんなもん」

「では、置いてまいります」

 鶴は三つの石を、空き地の真ん中に並べた。並べてから、そこに膝をついた。

 着物の膝が土につく。曇っているので土が湿っている。

 両手を地面についた。

 息を吐く。吐ききって、また吐く。胸の底が空になって、そこへ何かが移っていく。

 手のひらから、色が抜けはじめた。

 指の先が白くなり、爪の下が白くなり、白いのが手首のほうへ上がってくる。二十年、何度も見た。見慣れているので、鶴はもう目で追わない。

「柊さん」

 久瀬の声がした。近づいてくる足音。

 白がそのあいだに入った。久瀬の前に立って、動かない。

「どいてくれ。あの人が」

 白は動かなかった。

 久瀬が回り込もうとすると、白も回った。声を出さない。牙も見せない。ただ、そこに立っている。

 下宿の住人たちは、少し離れて見ていた。学生風の若い男が「あれ、犬ですか」と誰かに訊いて、誰も答えなかった。

 空き地の土に、鶴の手の跡がついていく。押しつけているのではなく、沈んでいた。指の形のところだけ、土が締まっていく。

 息を吐く音がした。長い。吐ききってからまた吸うまでに、人の呼吸ではありえない間があった。

 どれくらい経ったか、鶴には分からない。半刻ほどだったと、あとで久瀬が言った。

 立ち上がろうとして、膝が言うことをきかなかった。石に手をついて、待った。

 石は三つとも、来たときより据わりがよくなっていた。動かしていない。動かしていないのに、地面に馴染んでいる。

 三階の窓が開く音がした。誰かが「下がった」と言っている。「熱が下がった」と、二度言った。

 息子は礼を言わずに帰った。振り返りもしなかった。

 鶴は気にしなかった。二十年、こういう帰り方をされてきた。


 六道ヶ辻までは、歩いて一時間かかる。

 市電は通っていない。日が落ちてからの道は、途中でガス灯が切れる。切れた先は、道の白さだけを頼りに歩く。

 白が横についた。

 歩幅が合わない。鶴のほうが遅いので、白は二十歩ほど進んでは止まり、待って、また歩いた。

 二度目に止まったとき、鶴はしゃがんだ。しゃがまないと、次の一歩が出なかった。

 草の上に手をつく。草が濡れている。濡れているのは分かるが、冷たさは分からない。

 白が横に座った。座って、鶴の肩に頭を寄せた。

 毛のあいだから、骨の硬さが伝わってくる。骨も、たぶん冷たいのだろう。分からない。

 しばらくそうしてから、鶴はまた立った。


 社に着いたのは、夜半を過ぎていた。

 拝殿の前で、鶴は自分の手を灯にかざした。

 灯といっても、月しかない。月の明るさに指をかざすと、指の輪郭の内側が薄く光った。

 透けている。

 二十年で、ここまで透けたのは三度目だった。

 背中で板が軋んだ。

 主様が拝殿から出てきていた。上がり口ではなく、階の一段目まで降りている。

 何も言わなかった。

 鶴も言わなかった。言うことがなかった。

 主様が身をかがめて、鶴の手のほうへ手を伸ばした。伸ばして、途中で止まった。指と指のあいだが、三寸ほど空いている。

 その手を、引いた。

 引いて、代わりに拝殿へ戻り、器を持って出てきた。器に水を汲んで、鶴の前の石段に置いた。

「飲め」

「はい」

 鶴は器を取った。取ろうとして、指が滑って、一度落としかけた。

 両手で持ち直した。水は零れなかった。

 飲むと、喉のあたりだけが温かった。それも、温かいと思っているだけかもしれない。

「主様」

「なんだ」

「これは、わたしが汲んだ水でございます」

「知っている」

「あなた様の分が」

「黙って飲め」

 鶴は黙って飲んだ。


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