第13話 詫び役の妻は、百両では動かないと言う
駕籠が鳥居の前で止まった。
六道ヶ辻に駕籠が来たのは初めてだった。担ぎ手が四人。降りてきたのは、羽織の紋が大きい男で、後ろに手代が二人ついている。
男は草を踏み分けて、社の前まで来た。来て、開口一番に言った。
「いくらだ。言い値でいい」
鶴は箒を持ったまま立っていた。
「どちらさまでございましょう」
「堀田だ」
手代の一人が横から言った。「材木の堀田でございます」
名は聞いたことがある。帝都の材木で三本の指に入ると、久瀬の綴りに書いてあった。
「うちの離れが、三度傾いた」
堀田は言いながら、懐から紙包みを出した。厚い。畳の上に置けば音がする厚みだった。
「基礎を打ち直した。二度目も打ち直した。三度目で、大工が逃げた。神主も呼んだ。祓ってもらった。百両使った」
「はい」
「あんたなら直るという話だ。いくらだ」
「済みません」
堀田の眉が上がった。
「安くしろというのか」
「いいえ。金では、済みません」
堀田の手が止まった。紙包みを持ったまま、しばらく動かなかった。
「じゃあ、どうしろと」
「あなた様の手が、まだ動いておりません」
拝殿の暗がりで、主様が座っている。堀田はそちらを見なかった。目に入っていないのではない。人は普通、朽ちた社の暗がりを覗き込まない。
鶴は箒を置いた。
「拝見してもよろしいでしょうか」
堀田の屋敷は、坂を三つ越えた先にあった。
門を入ると、庭に人が入らない道が通っている。飛石が新しい。離れは奥の泉水の脇に建っていた。
傾いている。素人が見ても分かるほど、東へ傾いていた。
鶴は縁の下を覗いた。それから離れの周りを一周して、地面を手で押した。
「柔らこうございますね」
「地盤が悪いんだと大工は言った」
「悪くはございません。ここだけ、掘り返されております」
鶴は庭の端を指した。
「あちらから、こちらまで。半年ほど前でございましょうか」
堀田が答えない。代わりに、離れの陰から老人が出てきた。首に手拭いを巻いて、剪定鋏を持っている。
「一年半前でございます」
「宗吉」
堀田が言った。老人の名だ。呼んでから、堀田は少し口を閉じた。
「一年半前に、何がございましたか」
宗吉が堀田を見た。堀田が黙っている。
「苗床でございました」
宗吉が言った。
「楠を、育てておりました」
「何年」
「二十年でございます」
鶴は地面を見た。
二十年育てた楠を、抜いて、更地にして、離れを建てた。堀田の顔は動かない。動かないので、この人は覚えていないのだと分かった。
「宗吉さんは、こちらのお庭の」
「もう辞めております。今日は、若い者に頼まれて手を貸しに」
「辞められた」
「一年半前に」
鶴は堀田のほうを向いた。
「堀田様。この方のお名前を、いま初めてお呼びになりましたね」
堀田が息を吸った。吸って、吐かずにいた。
作法は簡単だった。簡単だが、堀田には難しかった。
「同じ場所に、同じ楠を、あなた様のお手で植えていただきます」
「植木屋を呼ぶ」
「いけません」
「なぜだ」
「人に持たせたものは、効きませんので」
「俺に、土いじりをしろというのか」
堀田の声が高くなった。手代が二人とも一歩下がる。
「うちの店は、明日も材木を出す。俺の手が土だらけで、番頭が客と話ができるか」
鶴は帳面を出した。出して、日付を書いた。
「では、また傾きます」
帳面を閉じて、袂に入れた。頭を下げて、庭の飛石を戻りはじめた。
三つ目の石を踏んだところで、後ろから声がした。
「待て」
鶴は止まった。
「……いつだ」
「日が高いうちがようございます。今日は、まだ降っておりませんので」
その日の夕方、堀田家の使用人が全員、庭に出された。
十七人いた。女中も、下働きも、門番も、それから宗吉も。
堀田は羽織を脱いだ。脱いで、地面に放った。手代が拾おうとして、堀田が「置いとけ」と言った。
鍬を持って、地面に打ち込む。
入らない。三度打って、ようやく歯が立った。四度目で刃が石に当たって、堀田の手が跳ねた。
誰も手を貸さない。宗吉が「そこは、根を切った跡でございます」とだけ言った。堀田は場所をずらして、また打った。
穴が肩ほどの深さになるまでに、日が傾いた。
掌の皮が破れて、鍬の柄が赤くなっている。堀田はそれを見て、手拭いを巻いて、また掘った。
苗は宗吉が用意していた。膝ほどの高さの、細い楠だった。
「これは」
「三年前に、こぼれ種から起こしたものでございます」
宗吉は苗を差し出した。
「いつか、お戻しになるかと思いまして」
堀田が苗を受け取った。両手で受け取って、そのまま少し動かなかった。
穴に据える。土を戻す。踏み固める。
水をやるとき、鶴が止めた。
「井戸から、あなた様がお汲みください」
堀田は言い返さなかった。桶を持って、井戸へ行った。
「一年半前の春に、俺が、この苗床を潰させた」
十七人の前で、堀田は言った。
「離れを建てるためだ。楠が邪魔だった。抜けと言った。抜いたのは、庭師の……」
名前が出てこない。
言葉が止まった。堀田の口が二度動いて、二度とも音にならなかった。
「宗吉でございます」
宗吉が言った。責める声ではなかった。
堀田が言い直した。
「宗吉が、二十年かけて育てた楠だった」
膝をついた。土だらけの手を、地面についた。
「すまなかった」
夕方の風が、植えたばかりの苗の葉を裏返した。
その晩、離れは傾かなかった。翌朝も、その次の朝も。
鶴が帰るとき、堀田は門まで送ってきた。
紙包みは出さなかった。出さずに、手を見せた。掌の皮が破れて、豆が四つできている。
「痛い」
「はい」
「これでいいのか」
「それが、証でございます」
堀田が手を握って、開いた。
「柊さん」
「はい」
「宗吉を、戻す」
鶴は頭を下げた。下げてから、坂を降りた。
社に戻ると、主様が上がり口にいた。
鶴が今日のことを話すと、黙って聞いていた。楠のことも、穴のことも、豆のことも。
話し終わってから、主様が言った。
「あれは、名を覚え直したな」
声が、いつもより静かだった。
鶴は器の水を換える手を止めた。
覚え直した。宗吉、と。二十年そこにいた男の名を、堀田は一年半忘れていて、人前で言い直した。
「主様は、名にこだわられますね」
「こだわる」
主様が屋根の落ちた隙間を見上げたまま言った。
「持っていないものは、目につく」
鶴は器を台に据えた。
この人の名は、まだ誰も呼んでいない。六十年、一度も。
堀田は一年半で思い出せた。思い出せたのは、宗吉が同じ庭にいて、名乗ってくれたからだ。
では、六十年前にこの方の名を呼んでいた者は、いまどこにいるのだろう。
鶴は石段のほうを見た。今朝も小皿が置いてあった。塩と、干した豆が三粒。
置いた者は、まだ生きている。




