第14話 詫び役の妻は、四十人を集める
雨が降っていた。
それなのに、掘割の跡には四十人が立っている。傘が四十本。並んで見ると、色が思ったより多い。
「柊さん」
久瀬が横に来た。番傘の柄を両手で持っている。
「その、多すぎませんか」
「増えるほど、効きます」
「なんでです」
「存じません」
鶴は答えて、それから言い直した。
「たぶん、覚える人が増えるからでございます」
久瀬が傘を傾けて、鶴のほうへ寄せた。鶴は自分の傘を持っている。持っているのに寄せてくるので、そのままにした。
四年前まで、ここには掘割が通っていた。
幅二間の水路で、両側に石が積んであった。埋めて、地ならしをして、道にした。
その道の上でだけ、荷車が壊れる。馬が脚を折る。去年一年で十七件。
久瀬の綴りには、そう書いてある。
鶴は道を端から端まで歩いた。
雨の日は読みやすい。水の引き方が違うからだ。埋めた土は締まりが甘いので、雨が浅く広がって、時間をかけて引いていく。二間幅の帯が、道の真ん中を南へ抜けているのが、水の残り方で見えた。
帯の上を歩きながら、鶴は二度足を止めた。
一度目は道の三分の一のあたり。二度目は、突き当たりの手前。どちらも、水の引き方が周りと違う。周りより速い。
「久瀬様。壊れた場所を、読み上げていただけますか」
久瀬が綴りを開いた。番地と日付が並ぶ。
十七件のうち十四件が、帯の上だった。残る三件は、二度足を止めたうちの一か所に集まっている。
「ここだけ、多うございますね」
「そこ、何かあるんですか」
「水が、速く引きます」
鶴はしゃがんで、指で土を押した。
「埋めたのではなく、何かの上に土をかけております。下に、締まったものがございます」
「石ですか」
「もっと大きいものかと」
「施主は」
「帝都水利組合です。頭取が、辻村さんという方で」
その辻村が、番傘を差して立っていた。五十前後。羽織が上等で、袖口が濡れていない。傘の持ち方が上手い男だった。
「柊さんとやら」
辻村が近づいてきた。
「先に言っておくが、工事は届出どおりだ。図面もある。何一つ隠しておらん」
「はい」
「それでも私に頭を下げろと」
「いつ、何を、どうなさったかを伺いたいのです」
辻村が笑いかけて、やめた。やめて、居住まいを正した。
「よかろう」
傘を手代に渡す。雨に濡れるのを厭わない構えだった。
「開化八年の九月に、この掘割を埋めた。帝都の南北を繋ぐ道が要ったからだ。届出も出した。近隣の同意も取った。以上だ」
鶴は動かなかった。
雨が傘を打つ音が四十本ぶん重なって、川の音に似ていた。
「辻村様」
「なんだ」
「その掘割に、何が祀られておりましたか」
辻村の口が、開いたまま止まった。
人の輪が、少しだけ狭くなった。
誰も声を出さない。傘を持ち直す音が、あちこちでした。
「……祠があった」
辻村が言った。
「橋のたもとに、小さいのが。水神だと聞いていた」
「そちらは、どうなさいました」
「移した」
「どちらへ」
辻村が答えない。
鶴は帳面を出さなかった。出す必要がない。この人は自分で言う。ここまで来た人間は、必ず自分で言う。
「届けには、移設と書いてある」
辻村が言った。
「移設の費用も出ている。組合から、三百円だ」
四十人の中で、誰かが「三百」と言った。
「移していない」
辻村の声が低くなった。
「そのまま埋めた。石も、屋根も、御神体も。……上に土をかけて、道にした」
傘の下で、人が動いた。何人かが後ろを向いて、また戻った。
「三百円は」
辻村が首の後ろに手をやった。
「私が、受け取った」
雨の音だけになった。
鶴は一度も、横領という言葉を使っていない。使う必要がなかった。この人が届出と費用の話を自分で並べただけで、四十人が同じ結論に着いた。
「開化八年の九月に、私が、この掘割の祠を、移さずに埋めました」
辻村が言った。今度は、言い直さなかった。
「移設の費用は、私が受け取りました」
膝をついた。泥が跳ねて、上等な羽織の裾が茶色くなった。
頭を下げる。傘の外で、雨がその後頭部を打っていた。
輪の後ろで、年寄りの女が傘を落とした。
拾おうともせず、雨に打たれたまま立っている。隣の男が拾って渡したが、受け取らなかった。
「あすこの祠は」
声が震えていた。
「うちの婆さまが、毎朝、水を替えてたんだよ。婆さまが死んでから、あたしが替えてた。ある朝行ったら、無くなってた」
女は道の真ん中を指した。ちょうど、鶴が二度目に足を止めたところだった。
「移したって言われたから、そうかと思って。どこに移したかは、誰も教えてくれなくて」
辻村は顔を上げなかった。
鶴はその場所へ行って、しゃがんだ。指で土を押す。周りより硬い。
「ここでございます」
女が近づいてきた。近づいて、鶴の隣にしゃがんだ。手を土につけて、しばらくそうしていた。
道が沈んだのは、そのすぐあとだった。
沈んだ、というより、締まった。四十人が同じところを見て、同じところで「あ」と言った。荷車の轍が浅くなり、水たまりの形が変わった。
誰も説明できない。説明できないものを、四十人が同時に見た。
辻村は組合の者に連れられていった。行くとき、鶴のほうを振り返らなかった。振り返る余裕がなかったのかもしれない。
人が引けたあと、道の真ん中に泥のくぼみが残った。膝の跡だ。雨がすぐに埋めた。
傘を畳んでいると、洋装の若い男が近づいてきた。
手帳を持っている。鉛筆の芯が濡れて、書けなくなったのを舌で舐めていた。
「あの、お名前を、お聞かせ願えますか」
「新聞の方でいらっしゃいますか」
「はい。読売新報の者です」
鶴は傘の骨を揃えた。揃えてから、答えた。
「柊 鶴です」
言ってから、一拍、置いた。
置いたことに、自分で気づいた。名乗るときに間が空く。あの人が言ったとおりだった。
「柊さん。他にお名乗りは」
「ありません」
「たとえば、屋号とか、号とか」
「ありません」
記者は手帳に書きつけて、それから何度か礼をして、走っていった。走りながら鉛筆を舐めていた。
久瀬が横に来た。
「柊さん」
「はい」
「いま、なんで一拍置いたんですか」
鶴は傘を持ち直した。
「存じません」
久瀬は何も言わずに、自分の傘を鶴のほうへ傾けた。鶴は自分の傘を持っている。
雨が上がりかけていた。
道の上で、子どもが水たまりを踏んでいる。踏んでも、荷車は倒れなかった。
六道ヶ辻へ戻ると、社の石段が濡れていた。
小皿は雨に流されず、屋根の残った側の下に置いてあった。置いた者が、雨を考えて場所を変えたらしい。
鶴はしゃがんで、皿の位置を見た。
瓦の落ちていない、たった一尺ほどの庇の下。そこにきちんと収まっている。
この場所を知っているのは、六十年ここに通った者だけだ。
拝殿を振り返ると、主様が上がり口に座っていた。
「濡れたな」
「はい」
「拭け」
「はい」
鶴は袂から手拭いを出した。出してから、自分の髪より先に、器の縁を拭いた。
主様が何か言いかけて、やめた。
やめてから、拝殿の奥の乾いた板を、素足で二度、軽く叩いた。そこへ来い、という意味だった。
鶴は器を置いて、そちらへ行った。




