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第15話 詫び役の妻は、間に合わなかった

「その子は、うちの子じゃありません」


 米問屋の内儀は、離れのほうを見もせずにそう言った。

 梅雨の底で、廊下の板が湿っている。踏むと、足の裏が吸いつくような音を立てた。

「では、どちらのお子でございましょう」

「知りません。うちの人が、どこかから」

 内儀は帳場のほうへ戻っていった。話は終わりということらしい。

 久瀬が廊下で帽子を握っている。

「柊さん」

「参りましょう」


 離れの座敷に、七つばかりの女の子が寝ていた。

 髪が長い。梳かしていないので、枕のまわりで固まっている。頬がこけて、唇が乾いていた。

 鶴は膝をついて、手の甲を額に当てた。

 熱はない。熱がないのに、目を覚まさない。十日だと、女中が言った。

「お名前は」

 女中が口ごもった。

「……お呼びしていいのか、あたしには分かりません」

「といいますと」

「二年前に、旦那さまが、名簿からお名前を消されました」

 鶴の手が止まった。

「名簿と申しますと」

「うちの家の、控えでございます。家の者の名を書いてあるもので。旦那さまに、お坊ちゃまがお生まれになった年に」

 女中は座敷の隅を見た。

「それからは、みんな『あの子』と呼んでおります」

 鶴は子の顔を見た。

 二年前まで名前があった。いまは誰も呼ばない。二年で、この子は薄くなった。

 薄くなった、という言い方を、鶴は口に出さなかった。


 当主は帳場にいた。

 榊原という。四十くらいで、算盤の玉を弾きながら鶴の話を聞いた。玉を弾く手は止まらなかった。

「抜いた」

 榊原は言った。

「それが何だ」

「名簿にお書き戻しください」

「書けん」

「なぜでございましょう」

「書けば、跡目の話が蒸し返される」

 算盤が止まった。

「うちには、跡取りがいる。三つになる。あの子を書き戻せば、女房の実家が黙っておらん。分家が動く。分かるだろう」

「分かりません」

 鶴は膝をついたまま、顔を上げた。

「お子さまは、十日目でございます」

「医者は診せている」

「医者では治りません」

「では、あんたが治せ」

「治せません」

 鶴は言った。

「治せるのは、あなた様だけでございます。名簿に書き戻して、皆さまの前で、お名前をお呼びいただければ」

「呼べんと言っている」

「一度で結構でございます」

「一度が問題なんだ」

 榊原が算盤を脇へ寄せた。

「一度呼べば、うちの者が全員それを聞く。聞いた者は覚える。覚えられたら、消せん」

 筋が通っていた。

 この人は理屈で動いている。理屈で動く人間は、理屈で覆せることもある。だが今日は、理屈のほうが向こうにあった。

「では、こうしてはいかがでしょう」

 鶴は膝を前へ出した。

「名簿には、お戻しにならなくて結構です。奥の座敷で、ご家族だけの前で、一度お呼びくださいませ」

「聞いた者が覚えると言った」

「では、お一人で」

「一人で呼んで、効くのか」

「効きません」

「話にならん」

「では、書き付けだけでも。名簿ではなく、別の紙に、お手でお名前を」

「同じことだ」

「同じではございません」

 鶴の声が、少しだけ速くなった。

「書いた紙を、お子さまの枕元に置いていただければ。人の目には触れません。分家の方も、ご存じにはなりません」

 榊原が算盤から手を離した。

 離して、はじめて鶴の顔を見た。

「あんた、必死だな」

「はい」

「なんでだ。よその子だろう」

 鶴は答えられなかった。

 答えられないまま、膝の上で手を重ねた。爪の下が白い。梅雨の湿気の中で、そこだけ乾いて見えた。

「金なら出す」

「金では代われません」

「では、帰れ」

 鶴は帰らなかった。帰らずに、そのまま座っていた。

 榊原は算盤を引き寄せて、また玉を弾きはじめた。半刻ほど弾いてから、立ち上がって、奥へ行った。

 鶴はまだ座っていた。

 畳の目を数えた。三百二十まで数えて、やめた。数えても、何も返らない。

 夕方、女中が来て、離れへ戻ってくださいと言った。


 できることは、なかった。

 代わりに詫びることもできない。榊原は生きている。家の名を継いでいるのも、榊原自身だ。代われる者がいない。

 鶴は座敷に座って、子の手を握った。

 感覚のない指で握るので、握っている強さが分からない。強すぎないか、弱すぎないか、確かめる方法がなかった。

「柊さん」

 久瀬が縁側に座っていた。膝の上で帽子を潰している。

「名前を、呼びましょう」

「わたしどもが呼んでも」

「呼びましょう」

 久瀬は女中に名前を訊いた。女中が小さい声で答えた。

 二人で呼んだ。

 久瀬が呼び、鶴が呼び、女中が呼んだ。三人で、何度か呼んだ。

 子は目を覚まさない。

 当たり前だった。無かったことにしたのは、この三人ではない。

 雨が屋根を打っている。梅雨の雨は音が細い。長く続くぶん、途中で聞こえなくなる。

 久瀬が座敷を出て、帳場のほうへ行った。声が聞こえた。低い声と、高い声が交互になって、途中で高いほうだけになった。

 しばらくして、久瀬が戻ってきた。膝の帽子の形が変わっていた。

「駄目でした」

「はい」

「自分は、その、こういうときに、何を言えばいいのか」

「何も」

 鶴は子の手を握り直した。

「何も、ございません」

 久瀬は縁側に座り直した。座って、それきり黙った。

 女中が湯を持ってきた。二つ置いて、離れの外で立っていた。中に入ってこないのは、この子の名を呼べないからだと、鶴には分かった。呼べない者は、そばにいられない。

 夜半、息が変わった。

 浅くなって、間が空いて、それから止まった。

 女中が座敷を出ていった。誰かを呼びに行ったのか、逃げたのかは分からない。

 鶴は子の手を離さなかった。しばらく離さずにいた。


 塀の外で、二人は座った。

 雨が上がっていた。上がったばかりの道は、まだ水が引いていない。着物の裾が濡れるが、立つ気にならなかった。

 久瀬が何か言おうとして、口を閉じた。二度そうしてから、三度目に言った。

「柊さんのせいじゃないです」

「はい」

「……本当です」

「はい」

 鶴は袂から帳面を出した。

 開いて、日付を書く。六月十八日。

 それから、名前の欄に、女中から聞いた名を書いた。無礼をした者の欄ではない。返した者の欄でもない。

 行の端に、そのまま書いた。

 久瀬が覗き込んだ。

「それ、なんです」

「数えております」

「誰のために」

 鶴は筆を止めた。

 止めて、そのまま止まっていた。

 答えは出てこなかった。二十年、書いてきた。恨むためではない。返すためだ。返せない分は、押さえるためだ。

 押さえることもできなかった行は、何のために書くのか。

「……存じません」

 久瀬が横を向いた。

 道の水たまりに、ガス灯が映っている。点いたばかりで、明るさが安定していない。

 鶴は帳面を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、その行を見た。

 この二か月で、閉じられなかった行が四つになっていた。


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