↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/30

第16話 名のない神は、二度とするなと言った

 器が割れた。

 鶴は水を汲んで戻り、台に置こうとして、置けなかった。指が動いていない。動いていないことに気づいたのは、器が手から離れたあとだった。

 落ちる音が、二度した。台に当たって、それから板に落ちた。

 破片を拾おうとして、膝から先に落ちた。

 板に頬がついた。板は乾いている。乾いているのは分かる。冷たいかどうかは分からない。

 起きなければ、と思った。

 朝のうちに屋根の草を足して、それから南の長屋へ行く約束がある。井戸端の石が一つ、まだ戻っていない。順番の三番目だ。二番目は昨日終わった。四番目は明日で、五番目は明後日で、六番目は。

 数えているうちに、板の木目が近くなった。

 外で、犬が吠えた。

 白の声を聞いたのは、初めてだった。低い。犬というより、風が洞を抜けるのに近い音だった。

 草を踏む音がして、階が鳴った。

 一段。二段。三段。

 この社に来て三月、あの人が石段を降りたことは一度もない。

 視界の端に、素足が入った。土のついていない足だ。それが板の上で止まって、それから、こちらへ二歩、近づいた。

 しゃがむ気配がした。手が伸びてくるのが、床の振動で分かった。

 伸びて、止まった。

 止まったまま、動かない。指の影が、鶴の頬の横の板に落ちている。三寸ほど離れたところに。

 その影が引いた。

 代わりに、毛の匂いがした。白が鶴の背中に身体をつけて、そのまま伏せた。骨が当たる。当たるところだけ、少し温い気がした。


 目が覚めたとき、天井の隙間から日が入っていた。

 位置が違う。朝ではない。

「柊さん」

 久瀬が枕元にいた。上着を脱いで、袖をまくっている。横に、白髪の男が座っていた。鞄を開けている。

「動かんでください」

 医者は鶴の手を取って、爪を押した。押して、離して、色が戻るのを見ていた。

 戻るまでに、ずいぶんかかった。

「凍傷のようですな」

 医者が言った。「六月に、これは」

「持病でございます」

「持病」

「昔から、こうでございます」

 医者は鶴の顔を見た。それから、鞄を閉じた。

「心当たりは」

「ございません」

 嘘をついた。二十年、こういう嘘だけは上手になった。

 医者が帰ったあと、久瀬が動かなかった。膝の上で帽子を握って、そのままでいる。

「柊さん」

「はい」

「代わりに払ってましたよね」

 鶴は答えなかった。

「あの、下宿のときも。手が、白くなってました。自分、見てました。見てて、白に止められて、それで」

 久瀬は言葉を切った。

「いくつです」

「数えて、おりません」

「帳面に、書いてありますよね」

 鶴は起き上がろうとした。腕が言うことをきかない。肘をついて、それも滑った。

 久瀬が帳面を取った。鶴の枕元に置いてあったのを、断りもせずに開いた。

「久瀬様」

「すみません」

 久瀬は謝りながら、めくった。

 めくる音が、拝殿に響いた。

「四月に、六件。五月に、九件。六月は、今日までで八件」

 声が平らになっていく。数を読むときの声だ。

「二十三件です。このうち、日付の下に丸がついてるのが十七」

「久瀬様」

「丸は何ですか」

 鶴は答えなかった。

「柊さん」

「こちらで持った分でございます」

「二十三件のうち十七件、あなたが払ってるってことですか」

「残りは、時でございます。時のほうは、寝れば戻ります」

「戻らないほうが十七あるんですね」

 久瀬が帳面を閉じた。閉じてから、また開いた。開いて、最初の頁まで戻した。

「柊さん、これ、四月からのぶんですよね」

「はい」

「その前のは」

「別の帳面でございます」

「二十年ぶん、ありますよね」

 鶴は天井を見た。隙間から光が入っている。日が傾いてきた。

「二十年ぶんの帳面には、丸が、いくつついてるんです」

「……存じません」

「数えてないんですか」

「相手の欄しか、書いておりません」

 久瀬は帳面を膝に置いて、しばらく動かなかった。

 それから、両手で顔を擦った。擦って、立ち上がって、外へ出ていった。

 戻ってきたのは、日が落ちかけてからだった。手に湯呑みを持っていた。


 日が落ちてから、主様が来た。

 久瀬は帰っている。帰り際、湯呑みを枕元に置いていった。縁の欠けた側が、壁を向いていた。

 鶴はそれをしばらく見ていた。二十年、同じ置き方をされてきた。久瀬がなぜその向きにしたのかは、たぶん本人も知らない。

 板が軋んだ。

 主様が入ってきて、帳面のところで足を止めた。久瀬が開いたまま置いていったらしい。

 しばらく、そこに立っていた。

「二十三だ」

 主様が言った。

「四月からの、代わりに詫びた数だ。二十三ある」

「はい」

「そのうち、体温で払ったのが十七」

「はい」

「時を払ったのが四つ。残る二つは、書いていない」

 鶴は天井を見た。隙間から星が見える。屋根を直すつもりで草を刈ったが、まだ足りていない。

「書き忘れました」

「そうか」

 主様が帳面を閉じた。閉じる音がした。

「では訊く」

 近づいてくる。素足が板を踏む音が、いつもより硬い。

「お前は、二十年でいくつ払った」

 鶴は答えを探した。

 探したが、無かった。八つの春から二十八の春まで。八朔の家で押さえた分を、いちいち数えていない。数えたのは相手の無礼だけだ。自分が何を払ったかは、書く欄がなかった。

「……数えて、おりません」

 主様が黙った。

 長い。この人の沈黙はいつも長い。今日のは、いつもより短かった。

「二度とするな」

 声が低くなっていた。怒鳴ってはいない。この人は怒鳴らない。

「それでは、解けません」

 鶴は言った。

「解かんでいい」

「解かなければ、子が」

「解かんでいいと言っている」

 鶴は身を起こそうとした。今度は肘がついた。

「主様。わたしのことは、勘定に」

「その言い方を、二度とするな」

 言葉が、途中で切れた。

 拝殿の中が静かになった。草の中で虫が鳴いている。梅雨が明けかけているので、鳴き方が変わりはじめていた。

 鶴には、この人が何を咎めたのか分からなかった。

 勘定に入らないのは事実だ。事実を言って止められたのは、二十八年で初めてだった。

 主様が背を向けた。

 拝殿の奥へ二歩、歩いて、そこで止まった。振り返らずに言った。

「……腹が減った」

「はい」

「お前が倒れると、私も減る」

 それだけ言って、行った。

 鶴は横になったまま、その言葉を並べ直してみた。

 腹が減る。お前が倒れると。私も。

 二十年、鶴が倒れて困る者はいなかった。倒れれば仕事が止まる。止まれば誰かが代わりにやる。代わりがいないと分かってからも、誰も倒れるなとは言わなかった。

 言葉の意味は分かる。分かるのに、置き場所が見つからない。


 久瀬が置いていった荷の中に、封書が一通あった。

 紙が上等だ。表に、細い字で「柊 鶴 様」とある。

 差出人を見て、鶴は手を止めた。

 八朔 志乃。

 二十年、この人から手紙をもらったことがない。同じ屋根の下にいたのだから、当たり前だった。

 鶴は封を見た。切っていない。

 開けるべきだと思った。思ったが、指が動かなかった。指が動かないのは、今日は本当に動かないからだ。

 枕元に置き直して、湯呑みの隣に並べた。

 湯呑みの縁の欠けた側は、壁を向いている。

 星が動いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。