第16話 名のない神は、二度とするなと言った
器が割れた。
鶴は水を汲んで戻り、台に置こうとして、置けなかった。指が動いていない。動いていないことに気づいたのは、器が手から離れたあとだった。
落ちる音が、二度した。台に当たって、それから板に落ちた。
破片を拾おうとして、膝から先に落ちた。
板に頬がついた。板は乾いている。乾いているのは分かる。冷たいかどうかは分からない。
起きなければ、と思った。
朝のうちに屋根の草を足して、それから南の長屋へ行く約束がある。井戸端の石が一つ、まだ戻っていない。順番の三番目だ。二番目は昨日終わった。四番目は明日で、五番目は明後日で、六番目は。
数えているうちに、板の木目が近くなった。
外で、犬が吠えた。
白の声を聞いたのは、初めてだった。低い。犬というより、風が洞を抜けるのに近い音だった。
草を踏む音がして、階が鳴った。
一段。二段。三段。
この社に来て三月、あの人が石段を降りたことは一度もない。
視界の端に、素足が入った。土のついていない足だ。それが板の上で止まって、それから、こちらへ二歩、近づいた。
しゃがむ気配がした。手が伸びてくるのが、床の振動で分かった。
伸びて、止まった。
止まったまま、動かない。指の影が、鶴の頬の横の板に落ちている。三寸ほど離れたところに。
その影が引いた。
代わりに、毛の匂いがした。白が鶴の背中に身体をつけて、そのまま伏せた。骨が当たる。当たるところだけ、少し温い気がした。
目が覚めたとき、天井の隙間から日が入っていた。
位置が違う。朝ではない。
「柊さん」
久瀬が枕元にいた。上着を脱いで、袖をまくっている。横に、白髪の男が座っていた。鞄を開けている。
「動かんでください」
医者は鶴の手を取って、爪を押した。押して、離して、色が戻るのを見ていた。
戻るまでに、ずいぶんかかった。
「凍傷のようですな」
医者が言った。「六月に、これは」
「持病でございます」
「持病」
「昔から、こうでございます」
医者は鶴の顔を見た。それから、鞄を閉じた。
「心当たりは」
「ございません」
嘘をついた。二十年、こういう嘘だけは上手になった。
医者が帰ったあと、久瀬が動かなかった。膝の上で帽子を握って、そのままでいる。
「柊さん」
「はい」
「代わりに払ってましたよね」
鶴は答えなかった。
「あの、下宿のときも。手が、白くなってました。自分、見てました。見てて、白に止められて、それで」
久瀬は言葉を切った。
「いくつです」
「数えて、おりません」
「帳面に、書いてありますよね」
鶴は起き上がろうとした。腕が言うことをきかない。肘をついて、それも滑った。
久瀬が帳面を取った。鶴の枕元に置いてあったのを、断りもせずに開いた。
「久瀬様」
「すみません」
久瀬は謝りながら、めくった。
めくる音が、拝殿に響いた。
「四月に、六件。五月に、九件。六月は、今日までで八件」
声が平らになっていく。数を読むときの声だ。
「二十三件です。このうち、日付の下に丸がついてるのが十七」
「久瀬様」
「丸は何ですか」
鶴は答えなかった。
「柊さん」
「こちらで持った分でございます」
「二十三件のうち十七件、あなたが払ってるってことですか」
「残りは、時でございます。時のほうは、寝れば戻ります」
「戻らないほうが十七あるんですね」
久瀬が帳面を閉じた。閉じてから、また開いた。開いて、最初の頁まで戻した。
「柊さん、これ、四月からのぶんですよね」
「はい」
「その前のは」
「別の帳面でございます」
「二十年ぶん、ありますよね」
鶴は天井を見た。隙間から光が入っている。日が傾いてきた。
「二十年ぶんの帳面には、丸が、いくつついてるんです」
「……存じません」
「数えてないんですか」
「相手の欄しか、書いておりません」
久瀬は帳面を膝に置いて、しばらく動かなかった。
それから、両手で顔を擦った。擦って、立ち上がって、外へ出ていった。
戻ってきたのは、日が落ちかけてからだった。手に湯呑みを持っていた。
日が落ちてから、主様が来た。
久瀬は帰っている。帰り際、湯呑みを枕元に置いていった。縁の欠けた側が、壁を向いていた。
鶴はそれをしばらく見ていた。二十年、同じ置き方をされてきた。久瀬がなぜその向きにしたのかは、たぶん本人も知らない。
板が軋んだ。
主様が入ってきて、帳面のところで足を止めた。久瀬が開いたまま置いていったらしい。
しばらく、そこに立っていた。
「二十三だ」
主様が言った。
「四月からの、代わりに詫びた数だ。二十三ある」
「はい」
「そのうち、体温で払ったのが十七」
「はい」
「時を払ったのが四つ。残る二つは、書いていない」
鶴は天井を見た。隙間から星が見える。屋根を直すつもりで草を刈ったが、まだ足りていない。
「書き忘れました」
「そうか」
主様が帳面を閉じた。閉じる音がした。
「では訊く」
近づいてくる。素足が板を踏む音が、いつもより硬い。
「お前は、二十年でいくつ払った」
鶴は答えを探した。
探したが、無かった。八つの春から二十八の春まで。八朔の家で押さえた分を、いちいち数えていない。数えたのは相手の無礼だけだ。自分が何を払ったかは、書く欄がなかった。
「……数えて、おりません」
主様が黙った。
長い。この人の沈黙はいつも長い。今日のは、いつもより短かった。
「二度とするな」
声が低くなっていた。怒鳴ってはいない。この人は怒鳴らない。
「それでは、解けません」
鶴は言った。
「解かんでいい」
「解かなければ、子が」
「解かんでいいと言っている」
鶴は身を起こそうとした。今度は肘がついた。
「主様。わたしのことは、勘定に」
「その言い方を、二度とするな」
言葉が、途中で切れた。
拝殿の中が静かになった。草の中で虫が鳴いている。梅雨が明けかけているので、鳴き方が変わりはじめていた。
鶴には、この人が何を咎めたのか分からなかった。
勘定に入らないのは事実だ。事実を言って止められたのは、二十八年で初めてだった。
主様が背を向けた。
拝殿の奥へ二歩、歩いて、そこで止まった。振り返らずに言った。
「……腹が減った」
「はい」
「お前が倒れると、私も減る」
それだけ言って、行った。
鶴は横になったまま、その言葉を並べ直してみた。
腹が減る。お前が倒れると。私も。
二十年、鶴が倒れて困る者はいなかった。倒れれば仕事が止まる。止まれば誰かが代わりにやる。代わりがいないと分かってからも、誰も倒れるなとは言わなかった。
言葉の意味は分かる。分かるのに、置き場所が見つからない。
久瀬が置いていった荷の中に、封書が一通あった。
紙が上等だ。表に、細い字で「柊 鶴 様」とある。
差出人を見て、鶴は手を止めた。
八朔 志乃。
二十年、この人から手紙をもらったことがない。同じ屋根の下にいたのだから、当たり前だった。
鶴は封を見た。切っていない。
開けるべきだと思った。思ったが、指が動かなかった。指が動かないのは、今日は本当に動かないからだ。
枕元に置き直して、湯呑みの隣に並べた。
湯呑みの縁の欠けた側は、壁を向いている。
星が動いていた。




