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第17話 詫びの女は、四百八十の名簿を見せられる

「柊さん、これ、名前が出てます」


 久瀬が新聞を広げていた。持つ手が震えている。紙の端が波打って、活字が読めなくなるほどだった。

 三面の下のほうに、四段組みの記事があった。


  詫びの女——帝都の怪事、次々と


 鶴は寝床の上で読んだ。三日寝込んで、四日目にようやく座れるようになった。手足は戻らない。

 掘割の一件が書いてある。四十人の前で頭取が横領を認めたことも、道が締まったことも。記事の終わりに、水利組合の頭取が職を解かれたとあった。

「勝手に書かれて」

「事実でございます」

「でも」

「久瀬様」

 鶴は新聞を畳んだ。

「祟りだとは、一行も書いてございません。この方は、上手に書かれました」

 記事のどこにも、祟りという語がない。無かったことにされた祠のことも、水神という言葉も出てこない。書いてあるのは、埋め立ての届出と、移設費用の行方と、四十人の証言だけだった。

 久瀬が新聞を受け取って、もう一度読んだ。

「……ほんとだ」

「あの方は、こちらを守っておいでです」

 外で、人の声がした。

 鶴が這うようにして戸口まで行くと、鳥居の下に七人立っていた。傘を持った女、風呂敷を抱えた男、子どもの手を引いた老婆。全員がこちらを見た。

「柊さんですか」

「うちの井戸が」

「うちは、蔵が」

 七人が一度に喋った。喋りながら、こちらへ近づいてくる。

 鶴は階に膝をついた。

「順に、まいりましょう」

 声が通ったので、七人が止まった。

「いちばん古いものから伺います。どなたの一件が、いちばん古うございますか」

 七人が互いの顔を見た。

 誰も名乗らない。名乗らないまま、いちばん後ろにいた老婆が手を挙げた。

「うちのは、十六年前だよ」

「では、そちらから」

 残る六人が、少し肩を落とした。落としたが、帰らなかった。

 鶴は久瀬を見た。

「久瀬様。紙と筆を、お借りできますか」

 順番を書いた。名前と、年と、場所。七人ぶん。書きながら、鶴は自分の手が思ったより早く疲れることに気づいた。

 七人が帰ったあと、久瀬が紙を覗き込んだ。

「これ、七件でしょう。柊さん、いま一日一件がやっとですよね」

「はい」

「一週間かかりますよ」

「二週間かかります」

 鶴は紙を畳んだ。

「そのあいだに、また増えます」


 昼過ぎに、開化局の使いが来た。

 黒い塗りの車で来て、乗れと言った。断る理由が思いつかなかったので、乗った。座席が柔らかすぎて、腰が沈んだ。


 参事官室は、天井が高かった。

 窓が大きく、机が広い。机の上に、革表紙の綴りが十いくつ並んでいた。背に年号が入っている。

「柊 鶴さんですね」

 立ち上がったのは、四十過ぎの男だった。洋装。髭がない。声が低くて、ゆっくり喋る。

「開化局参事官の綾瀬と申します。お呼び立てして申し訳ない」

 深く礼をされた。久瀬のときと同じで、返し方が分からない。

「新聞を読みました」

 綾瀬は椅子を勧めた。鶴は座った。

「あなたのなさっていることは、私には分からない。分からないので、数字で見ます」

 綾瀬は綴りを一冊、開いた。

「昨年、帝都で事故で死んだ者は二千七百十四人。うち、橋と足場と落盤が四百二十一人。あなたが関わった案件は、私の把握している限り十四件。うち死者はゼロです」

「一人、亡くなりました」

 綾瀬の指が止まった。

「先月、米問屋のお子さまが」

「……それは、私の綴りに入っていない」

「名簿から抜かれておりましたので」

 綾瀬は何か言おうとして、やめた。やめて、綴りに書きつけた。

「訂正します。十四件、死者一名」

 それから、顔を上げた。

「柊さん。私はあなたを止めに来たのではありません。ただ、一つだけ申し上げる」

「はい」

「因果と相関は違います」

 綾瀬は別の綴りを開いた。地図が挟んである。帝都の絵図に、赤い印が散らばっていた。

「社を潰した町で事故が増えた。あなたはそうお考えでしょう。私も同じ数字を見ています。ですが、潰していない町でも増えている。帝都全体で普請が増えたからです」

「はい」

「あなたが正しければ、私は止めます。私はそういう人間です。ですが、証明が要る」

 鶴は綴りの地図を見た。

 赤い印は、たしかに帝都中に散っている。潰した町にも、潰していない町にも。

「参事官様」

「はい」

「開化九年に、一度、社を整理なさいましたね」

 綾瀬の眉が動いた。

「よくご存じだ」

「あの年に取り壊された社の跡で、いま起きております。山の社と、寺と、それから」

「三十七件です」

 綾瀬が言った。「開化九年に、市区改正の名目で三十七件。当時は反対も出ませんでした。誰も参らなくなっていたので」

 鶴は膝の上で手を重ねた。

「今度は、いくつでございますか」

 綾瀬が机の引き出しを開けた。

 出してきたのは、綴じた名簿だった。厚い。表に「社寺祠堂整理対象」とある。

 開くと、番地と、名称と、査定が並んでいた。査定の欄には、ほとんどが同じ言葉で埋まっている。

 ——祀り手なし。

「四百八十件です」

 綾瀬が言った。

「三年で整理します」

 鶴は頁をめくった。

 めくる手が、途中で止まった。

 六道ヶ辻の名が、そこにあった。査定の欄には、他と同じ四文字が入っている。


 帰り道、鶴は下町の外れへ寄った。

 柊の家があったところだ。二十年ぶりだった。

 更地になっていた。材木が積んである。板を敷いて、地面から浮かせてあった。丁寧な仕事だ。誰がやったにせよ、木を大事にする者の積み方だった。

 角に石が一つ残っていた。門の礎石だと思う。文字が彫ってあった跡はあるが、もう読めない。風と雨で削れて、窪みだけになっている。

 鶴は膝をついた。

 膝をついてから、詫びる相手がいないことに気づいた。

 この家を無かったことにしたのは、誰だろう。開化令で職が消えた。仕事が無くなって、母が死んで、家が潰れた。誰かが壊したのではない。誰も来なくなっただけだ。

 六道ヶ辻と、同じ型だった。

「……わたしは、誰に詫びればよろしいのでしょう」

 返事はない。

 石の窪みに、雨水が溜まっていた。指を入れると、抵抗があった。冷たさは分からない。

 母の声が耳の奥で鳴った。数えておきなさい。そのあとの名前が、また抜けた。

 立ち上がるとき、開化局で見た机の上を思い出した。

 革表紙の綴りが十いくつ。背に年号が入っていた。開化元年から順に並んでいて、真ん中あたりが一冊、抜けていた。

 抜けていたのは、開化九年の巻だった。


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