第18話 詫びの女は、わたしが間違えましたと言う
「あんた、詫びの女だろう」
井戸端の女が、鶴を見て後ずさりした。桶を胸に抱えて、二歩下がる。
「帰っとくれ。あんたが来てから、ひどくなった」
路地の奥で、材木が積んである。三日前まで、そこには物置があった。鶴が撤去させたものだ。
その物置の跡が、いま掘り返されている。掘り返しているのではない。落ちたのだ。
長屋の一棟の屋根が、半分落ちていた。
夜のうちに落ちて、寝ていた者が二人、下敷きになった。命は取り留めたが、片方は腕が動かない。
鶴は路地の真ん中に立った。
立って、屋根を見た。それから、地面を見た。
三日前に読んだのと、同じ地面だった。同じなのに、答えが違う。
共同便所を潰して物置にしたのは、去年の秋だった。
鶴はそれを「場所への無礼」と読んだ。使われていた場所を、無かったことにした。だから物置を撤去させ、元の形に戻させた。
戻したのに、濃くなった。
濃くなるということは、返し方が違うということだ。作法を誤ると、相手には「まだ分かっていない」と伝わる。伝わると、いっそう出る。
鶴は膝をついて、地面に手を当てた。
乾き方が違う。三日前と違う。締まり方も違う。物置を撤去したことで、締まりが緩んでいた。
「柊さん」
久瀬が路地の入口にいる。
鶴は立ち上がった。立ち上がって、住人のほうを向いた。
二十人ほどが出ている。誰も口をきかない。抱えた桶が、いくつか下ろされた。
「皆さま」
鶴は言った。
「わたしが、間違えました」
路地が、静かになった。
「三日前に、わたしはこちらを場所の話だと読みました。違いました。物置を撤去させたのは、余計でございました。そのせいで、いっそう出ました。屋根が落ちたのは、わたしのせいでございます」
「柊さん」
久瀬が入ってこようとした。鶴が手で止めた。
「久瀬様。それは、詫びを軽くします」
鶴は住人のほうへ膝をついた。
路地の土は乾いていない。梅雨は明けたが、日陰は湿ったままだ。着物の膝が沈んだ。
「七月九日に、わたしが読み違えました。読み違えたまま、皆さまに物置を戻させました。二人、お怪我をなさいました」
頭を下げた。額が土につくまで下げた。
「申し訳ございません」
誰も何も言わない。
二十年、鶴は人に頭を下げさせてきた。下げさせるとき、いつも同じことを言った。いつ、何を、どうなさったのか。自分の口で。皆さまの前で。
言われる側が何を感じるかは、今日まで知らなかった。
土の匂いがする。三日前と同じ土だ。
顔を上げると、爺さんが一人、前に出てきていた。
七十を越している。腰が曲がって、杖をついていた。
「あんた、寄合のことは知らんのか」
「寄合」
「あそこを残すって、決めたんだよ。皆で」
爺さんは物置の跡を杖で指した。
「三十年前だ。あそこに便所を作るとき、大家と店子で寄合をやった。うちの棟だけじゃない。四棟ぶん、全員で決めた。ここは残す、道は塞がん、雨のとき困る者が出るから、って」
鶴の手が止まった。
「決めた者は」
「わしと、あと二人が生きとる。ほかは死んだ」
爺さんが杖を持ち直した。
「大家が代替わりして、去年、勝手に潰した。あのとき、わしは何も言わなんだ。三十年前の話だからな。今の大家は知らんし、言ったところで」
鶴は爺さんの顔を見た。
三十年前の取り決めを、この人は覚えている。覚えているのに、言わなかった。言わなかったから、無かったことになった。
場所ではない。約束だった。
物置を撤去させても、破られた約束は返らない。返らないところへ、こちらが余計に手を入れた。
やり直しは、その日の夕方に始まった。
三十年前の寄合を覚えている者は三人いた。爺さんと、隣の棟の女と、四棟目の耳の遠い老人。三人とも足が悪い。
鶴は椅子を借りてきて、路地の真ん中に並べた。
「取り決めを、読み上げていただきます」
「紙なんぞ無いよ」
「覚えておいでの分で結構です」
「三十年前だぞ。半分も覚えとらん」
「半分で結構でございます」
鶴は爺さんの前に膝をついた。
「お三方で、半分ずつお持ちかと存じます」
爺さんが喋りはじめた。
「まず、便所を作る話が出たのが、秋だ。稲刈りのあとだったから、秋だな」
「春だよ」
隣の棟の女が言った。「桜が終わってた。あたし、そのとき身重で、外に出るのがしんどくて」
「そうか。春か」
爺さんが言い直した。「春に話が出て、それで、道を塞ぐって話になった」
「塞がんって決めたんだ」
耳の遠い老人が、大きい声で言った。「雨のとき、上の棟から水が来る。あすこを塞ぐと、逃げ場がない。だから残すと決めた」
「そうだ。それだ」
爺さんが杖で地面を叩いた。
「大家が渋ってな。土地が惜しいと。それで、皆で頭を下げた。店子が二十三人、大家の家の前で」
「二十四人だよ」
女が言った。「うちの人が入ってない」
「ああ、そうか」
三人で三十年前を組み直すのに、半刻かかった。
春だったか秋だったか、二十三人だったか二十四人だったか、そういうところで何度も止まった。止まるたびに、三人のうち誰かが思い出した。
鶴はそれを、路地の端で聞いていた。
一人では出てこなかった。二人でも足りなかった。三人でようやく、三十年前がひとつの形になった。
組み上がったところで、大家を呼んだ。
三十代の男で、去年家督を継いだばかりだという。三十年前の寄合を知らない。知らないので、最初は不服そうにしていた。
だが、爺さんが読み上げるのを聞いているうちに、顔つきが変わった。
「……親父が、そんな」
「あんたの親父さんも、あの場にいた」
大家が路地の真ん中に立った。二十人の前で言った。
「去年の秋に、私が、この場所を潰しました。三十年前の取り決めを、知りませんでした。知らないまま、潰しました」
頭を下げた。
鶴は、その様子を路地の端から見ていた。
自分は前に出なかった。今日は、出る資格がない。
半分だけ薄まった。
屋根の落ちた棟は、それきり崩れなかった。だが、路地の乾き方はまだ戻っていない。
「足りませんね」
「はい」
久瀬が並んで立っていた。
「一度濃くなった分は、余計に要ります。わたしが」
「駄目です」
久瀬が遮った。
早かった。鶴が言い終わる前に、被せてきた。
「駄目です。柊さん、三日前に倒れたばかりでしょう」
「わたしのせいでございますので」
「駄目です」
鶴は口を閉じた。
閉じたが、閉じただけだった。
久瀬が横で何か言っている。人足を集めるとか、局に掛け合うとか、そういう話だった。半分しか聞いていなかった。
路地の乾き方を、鶴はまだ見ていた。




