第19話 詫びの女は、約束をひとつ落とす
その晩、鶴は誰にも言わずに路地へ戻った。
七月十二日の夜だった。久瀬は人足の手配で局へ行き、戻るのは明日になると言っていた。
路地に人はいない。屋根の落ちた棟には、板が打ちつけてある。
鶴は物置の跡の真ん中に膝をついた。
体温では足りない。三日前に倒れたばかりで、残りが少ない。少ないものを出しても、届かない。
差し出せるものは四つある、と母は言った。時と、体温と、記憶と、名だ。
母はそのうち二つを一晩で払った。
鶴は両手を地面についた。
時では足りない。体温はもう出ない。
残りは二つ。
どちらを出すかを決めるのに、そう長くはかからなかった。
「……いちばん、要らないものを」
息を吐く。吐ききって、また吐く。
胸の底が空になって、そこへ何かが移っていく。今度は、いつもと違う場所から抜けていく感じがした。手ではない。もっと奥のほうだ。
抜けたものが何かは、分からなかった。
抜けたことも、分からなかった。
八日が過ぎた。
七月二十日。日が強い。社の階に座っていると、石が焼けて着物の裾が熱くなる。梅雨は明けて、蝉が鳴きはじめていた。
鶴は器を洗っていた。
「その手は」
主様が上がり口から言った。
「戻ります」
「戻らんだろう」
「はい」
鶴は砂で器の底をこすった。四月に取れなかった焼きつきは、いまだに取れない。
主様が階のほうへ来た。二段目に腰を下ろす。近ごろ、この人は社の外へ出るようになった。半里ほどなら歩けるらしい。
「あの晩、何を出した」
鶴の手が止まった。
「路地の分でございますか」
「そうだ」
「体温では足りませんでしたので、別のものを」
「何を出した」
「……存じません」
嘘ではなかった。
出したものが何かは、出した本人にも分からない。抜けた場所に穴が空いているのなら、穴の形で分かるのだろう。分からないということは、穴も一緒に無くなっているということだ。
主様が何か言おうとした。
言おうとして、口を閉じた。閉じてから、外の草を見た。
この人は分かっている、と鶴は思った。受け取る側だから、何が来たかが分かる。分かっていて、言わない。
言えば、鶴が「勘定に入りませんので」と返すからだ。
その言い方を二度とするなと言われて、鶴はまだ、代わりの言い方を見つけていない。
昼、鶴は南の長屋で一件片づけた。
物干し場の下に埋められていた石を、大家に掘り出させ、皆の前で日付を言わせた。半刻で終わった。
最近は、こういう小さいものが早くなった。読むのが早くなったのではない。相手の顔を見て、どこまで押せば折れるかが分かるようになった。
帰りに、水天宮下を通った。
団子屋がある。店先に緋毛氈の床几が出ていて、客が二人座っていた。焼いた醤油の匂いが、路地の三軒先まで届いている。
鶴は歩を緩めた。
緩めたが、なぜ緩めたのかは自分でも分からなかった。店に用はない。団子を買う銭はあるが、買う理由がない。
床几の端が空いている。
そこを二度、見た。
二度目に見たとき、何かが喉のあたりまで来て、そこで止まった。言葉ではない。名前でもない。ただ、来なければならないところに来ている、という形だけが残って、中身が入っていなかった。
鶴は空を見た。日が高い。約束のある人間は、こういう時刻に立ち止まらない。
素通りした。
三十歩ほど行ってから、一度だけ振り返った。床几の端は、まだ空いていた。
社に戻ると、久瀬が階に座っていた。
いつもと様子が違う。帽子を膝に置いて、両手をその上に重ねている。綴りを開いていない。
「お帰りなさいませ」
「柊さん」
「はい」
「今日、昼に」
久瀬が言葉を切った。
「水天宮下の団子屋の前で、待ってました。三時間」
鶴は桶を下ろした。
「何かのお約束でございましたか」
久瀬の顔が、そこで止まった。
止まったまま、動かない。目だけが鶴の顔を探している。
「先月です。榊原さんの、あの子の、墓に、二人で行こうって」
「墓」
「柊さんが、言ったんです。名前を書いた紙を持っていくって。名簿に書き戻してもらえなかったから、せめて紙に書いて、それを墓に置くって」
鶴は思い出そうとした。
榊原の家のことは覚えている。座敷。算盤。畳の目を三百二十まで数えたこと。子の手を握って、離さなかったこと。塀の外で久瀬と座って、帳面に名前を書いたこと。
紙に書いて墓に置く。
その話が、無い。
あるはずの場所に、無い。
「申し訳ございません」
鶴は頭を下げた。
「手帳に、書いておりませんでした」
久瀬が何も言わなかった。
蝉が鳴いている。夕方になっても、この時季は鳴きやまない。
久瀬は膝の帽子を握って、それから、ゆっくり広げた。皺が寄っている。ずいぶん長いあいだ握っていたらしい。
「柊さん」
「はい」
「あの晩、路地に戻りましたよね」
鶴は答えなかった。
「戻って、何か払いましたよね」
「……存じません」
久瀬が立ち上がった。
立ち上がって、階を降りて、それから振り返った。
「じゃあ、また今度、行きましょう」
「はい。ぜひ」
鶴は頭を下げた。
久瀬は帰っていった。鳥居のところで一度立ち止まって、懐から手帳を出した。
何か書きつけている。書きながら、手が止まって、また動いて、また止まった。
鶴はその背中を見ていた。
見ていたが、なぜ久瀬が手帳を出したのかは、分からなかった。
「柊」
拝殿の上がり口から声がした。
「あれは、何を書いている」
「存じません」
「訊かんのか」
「訊く筋のことでは、ございませんので」
主様が階を降りてきた。二段目に座って、鳥居のほうを見た。久瀬の姿はもう見えない。
「お前は、いま何を失った」
「何も」
「そうか」
主様はそれきり黙った。黙ったまま、しばらく鳥居を見ていた。
鶴には、この人が何を確かめたのか分からなかった。分からないので、器の水を換えに行った。
器の水を換えて、屋根の草を足して、それから帳面を開いた。
七月二十日。南の長屋。石一つ。半刻。
書いて、閉じた。
閉じてから、少しだけ手を止めた。
何か、書き忘れている気がした。
頁を戻してみる。六月の終わりから七月の頭まで、日付が並んでいる。倒れた三日ぶんは空いていて、そのあとにまた詰まりはじめる。
六月十八日の行に、名前が一つ書いてある。無礼をした者の欄でも、返した者の欄でもない、行の端に。
その名を、鶴はしばらく見た。
覚えている。米問屋の離れ。長い髪。乾いた唇。十日目の夜。手を離さなかったこと。
全部覚えている。覚えているのに、この名前の続きに、何か短い一行が付いていたはずだという感じだけが残っていた。
付いていない。
鶴は頁を閉じた。
分からないものは、書けない。
帳面を袂に入れて、器の位置を直した。今日は手が震えていないので、水面はすぐに止まった。




