第20話 詫びの女は、値はつきませんと言う
石段に、三つばかりの子が座っていた。
草履を片方脱いで、素足のかかとで白の背中を叩いている。白は迷惑そうに首を伸ばしたが、動かなかった。
その後ろから、洋装の若い男が手を振ってきた。
「あ、義姉さん。おひさしぶり」
八朔数馬だった。麻の背広に、革の鞄。帽子を脱いで、それを胸に当てて礼をする。所作が新しい。
「太一さま、でございますね」
鶴はしゃがんで、子の草履を履き直させた。踵の緒が緩んでいる。結び直すと、子が足を振って確かめた。
「つめたい」
太一が鶴の手を握って、そう言った。
「はい。冷とうございます」
「なんで」
「そういうふうに、できておりますので」
太一は鶴の指を一本ずつ数えはじめた。五まで数えて、また一に戻った。
名前だけは知っていた。二十年、この家の帳面に載っている名を全部覚えている。太一。開化九年の生まれ。数馬と佐和の子。
顔を見るのは、初めてだった。八朔の家で、鶴が奥の座敷に呼ばれることはなかった。
「兄さんとこ、ひどいことになってるんだ」
数馬は石段に腰を下ろして、脚を組んだ。
「使用人が七人辞めた。もう新しいのが来ない。井戸だけは出るんだけど、風呂が使えないんで、母さんが毎日、外の湯屋に行ってる」
「さようでございますか」
「兄さんは水道の技師を呼んでる。三人目だ。三人とも、原因が分からんって帰った」
数馬は帽子を回した。
「で、僕、相談があって」
「はい」
「金を払うから、代わりに詫びてくれない?」
白が首を上げた。数馬のほうを見て、また下ろした。
「相場でいいよ。いや、相場より出す。義姉さん、二十年やってたんでしょ。合理的じゃないよ、この状態。うち、毎月いくら損してると思う」
「代われません」
「なんで。前はやってたじゃない」
「押さえていただけでございます」
鶴は太一の手を握ったまま言った。
「解けてはおりませんでした。押さえていた者が抜けましたので、古いものから順に外れております」
数馬が眉を寄せた。
「じゃあ、また押さえてよ。いくら?」
「値はつきません」
「……高いってこと?」
鶴は数馬の顔を見た。
この人は分かっていない。分かっていないのではなく、分かる筋道を持っていない。値がつかないものがあると教わらずに、二十六年生きてきた。
「数馬様」
「うん」
「二十年、わたしが払ったのは、金ではございません」
数馬が黙った。
黙って、帽子を膝に置いて、それから鞄の留金をいじりはじめた。都合が悪くなると、この人は黙る。子どものころからそうだったのだろう。
太一が鶴の指を数え直している。今度は逆から数えていた。
「そういえば」
数馬が思い出したように言った。
「母さん、手紙書いたって言ってたけど、読んだ?」
「まだでございます」
「まだ? もう一月半経つよ」
「はい」
「なんで読まないの」
鶴は膝の上の帳面に手を触れた。
「読んだら、順番が狂います」
「順番」
「いちばん古いものから、と決めております。いま手元に七件ございます。いちばん古いのが十六年前で、いちばん新しいのが去年。八朔の家の分は、二十年前からございますので」
「じゃあ、うちが先じゃない」
「いえ。あの家の分は、詫びる方がお決まりですので、待つ列に入りません」
鶴は数馬を見た。
「決まっている方が決めるまで、こちらは動けません。読んでも、動けるようにはなりません。ですから、順番が狂うだけでございます」
数馬が鞄の留金から手を離した。
「……兄さんが謝るまで、義姉さんは何もしないってこと?」
「はい」
「兄さんは、絶対に謝らないよ」
「はい」
「人前で頭下げるくらいなら死ぬ人だよ、あれ」
「存じております」
太一が立ち上がって、白の尻尾を掴もうとした。白がよけた。よけて、また元の位置に戻った。
「その犬、痩せてるね」
数馬が言った。
「はい」
「飼ってるの? 餌代、出そうか」
「白は、餌を食べません」
「え」
「六十年、ここにおります」
数馬が笑いかけて、笑いきらずに止まった。それから、太一のほうを見た。
「太一。もう行くぞ」
「やだ」
「行くぞ」
数馬が息子の脇を抱えて持ち上げた。太一が足をばたつかせて、鶴のほうへ手を伸ばした。
鶴はその手を握り返しかけて、途中で止めた。
握れば、この子の手から温かさが少し減る。長く握るほど減る。二十年、鶴は子どもの手を長く握らないようにしてきた。
「またね」
太一が言った。
「はい」
鶴は言って、それから付け足した。
「お草履が緩みましたら、また結びに参ります」
数馬が帰ったあと、鳥居のところに人影が三つあった。
老人ばかりだった。一人は杖をついている。手に、それぞれ小皿を持っていた。
「あの、こちらに置いていいのかね」
一人が言った。
「石段の、庇の下でございます」
鶴が案内すると、三人は順に皿を置いた。塩と、干した魚と、豆。置き方が、それぞれ違った。
「どなたから伺いましたか」
「いや、婆さんがね」
いちばん年嵩の男が言った。
「うちの婆さんが、ここは水がよかったって言うとった。子どものころに、毎朝ここへ水を汲みに来たと」
「水を」
「湧いとったんだと。六十年も前の話よ。今の若い衆は、誰も知らん」
鶴は鳥居の外を見た。
六つの道が交わっている。どの道も細い。二本は草に埋もれている。
「その水は、どちらにございましたか」
男が首を回した。
「さあ。このへんだったか、あっちだったか」
「うちのは、坂の下だと言うとった」
もう一人が言った。「井戸じゃなくて、湧いてたって。桶で汲むんじゃなくて、手で掬うんだと」
「そんな話は聞いとらん」
「あんたの婆さんは、こっちの生まれじゃないだろう」
三人が言い合いはじめた。
場所が合わない。三人とも、あったことは覚えている。どこにあったかは、誰も正確には言えない。
鶴は聞いていた。
三十年前の寄合を、三人の老人が半刻かけて組み直したのを、つい先日見たばかりだった。一人では出ない。二人でも足りない。三人でようやく形になった。
六十年前なら、何人要るのだろう。
拝殿を振り返る。
主様が暗がりに座っていた。老人たちはそちらを見ていない。三人とも、拝殿には目もくれず、皿の置き方の話をしている。
主様は動かない。
動かないが、鶴が見たとき、膝の上の手の指が一本だけ、板を叩いていた。
三人の声のほうを向いていた。




