第21話 数えておきなさい、澪
濡れた木と、線香と、鉄の匂いがした。
八つの春に、その三つが一緒になっている場所を、鶴は一度だけ知っている。
鳥居は、まだ真っ直ぐに立っていた。
柱の根がしっかりしていて、笠木も地面に触れていない。屋根の瓦も揃っている。草は生えているが、膝までは伸びていない。
母が階の下で膝をついていた。
背中が細い。着物の背中に、汗が丸く滲んでいる。四月なのに汗をかくほど、長く同じ姿勢でいたということだ。
澪は鳥居のところに立たされていた。
「そこから動かないで」
母がそう言った。それきり振り返らない。
拝殿の上がり口に、男が座っていた。素足で、着物の袖口が擦り切れている。今より色が濃い。輪郭が、いまよりずっとはっきりしていた。
「もういい」
男が言った。
「二十日も来た。もういい」
「まだ足りません」
母は台に器を据えた。米を研ぎ、水を汲み、置いた。全部、自分の手でやった。澪が手伝おうとすると、母は手を振って止めた。
「わたしの分でございます」
「お前の分ではない。お前が埋めたのではないだろう」
「はい」
母は膝をついた。
「ですが、この辻で詫びていたのは、柊の家でございました。家が絶えれば、詫びる者がいなくなります。絶える前に、返しておきます」
男が黙った。
草の中で虫が鳴いていた。四月の虫は、鳴き方が短い。
「私の名は」
「まだ出てまいりません」
「出るのか」
「出ます」
母は言い切った。言い切ってから、両手を地面についた。
息を吐く。吐ききって、また吐く。
澪はそれを見ていた。母の背中から色が抜けていくのを、鳥居のところから見ていた。
最初に手の先が白くなった。次に肘まで来て、それから肩まで来た。
母が一度、身体を折った。折って、また起こした。
「柊」
男が立ち上がった。
「やめろ。お前では足りん」
「足ります」
「足りん。二十日やって出んものは、出ん」
「あと一つ、ございます」
母が振り返った。
澪のほうを見た。目が合った。
その目を、鶴は二十年覚えていた。覚えていたが、そのときの母が何を言ったかは、覚えていない。
いま、聞こえた。
「この子の名を、お納めください」
男が階を降りてきた。
降りて、母の前に立った。
「やめろ」
「娘は、まだ八つでございます。名の重みが軽うございます。軽いものから先に出したほうが、届きます」
「そういう話ではない」
「そういう話でございます」
母が地面に額をつけた。
「わたしは、この子に家業を継がせません。詫び代はもう終わりでございます。名だけ残しても、この子には要りません」
澪は動けなかった。
動いてはいけないと言われていた。言われていたから、動かなかった。
母の口が動いた。何かを唱えている。短い。三度繰り返した。
三度目のあとで、澪の中から何かが抜けた。
痛くはなかった。ただ、いま自分が誰なのかを言おうとして、言えなくなった。口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。
男が舌打ちに似た音を立てた。
「出たか」
「まだでございます」
母の声が掠れていた。
「あと一つ」
「やめろ」
「わたしの分も、お納めください」
どれくらい経ったかは、覚えていない。
気がつくと、母が倒れていた。
澪は駆け寄った。動くなと言われていたが、駆け寄った。
母の顔は白かった。爪の下も、耳の先も、全部白かった。冬に霜が降りたときの、あの色だった。
母が手を伸ばして、澪の頬に触れた。
「……ごめんね」
声が小さい。
「ひとつ、あなたのものを使ったの」
澪は何か言おうとした。言おうとして、自分を指す言葉が出てこなかった。
母が空を見た。首を動かすだけで、ずいぶん時間がかかった。
その日の空に、雲が出ていた。細長くて、端が跳ねている雲だった。
「……鶴」
母が言った。
「そう呼ぶことにする」
澪は頷いた。頷くほかに、できることがなかった。
「数えておきなさい、鶴」
母の手が、頬から滑った。
「誰が、いつ、何を。恨むためじゃない。返すためよ」
男が背を向けた。
階を上がって、拝殿の暗がりへ入っていった。振り返らなかった。
山犬が来て、母のそばに伏せた。毛は、いまよりまだ厚かった。
目が覚めたとき、手が震えていた。
拝殿の板に、朝の日が差している。八月の日だ。強い。蝉が鳴いている。
鶴は起き上がって、上がり口を見た。
主様が座っていた。いつもの場所に、いつものように。
「主様」
「なんだ」
「二十年前に、こちらへ女が来ませんでしたか」
主様の指が、板の上で止まった。
「来た」
「お名前は」
「覚えていない」
顔を上げない。
「あれは、名を払った。払ったものは、こちらにも残らん」
鶴は膝の上で手を重ねた。
「柊 千代と申します」
主様が動いた。首をこちらへ向けた。
「わたしの、母でございます」
板の軋む音がして、それきり止まった。
蝉が鳴いている。この社の蝉は、六つの道から一斉に鳴くので、方角が分からない。
「そうか」
主様が言った。
「お前は、あの女の」
「はい」
鶴は膝を進めた。
「一つだけ、伺います。母は、なぜ足りなかったのでしょう」
「知らん」
「二つ払っております。娘の名と、自分の名を」
「知らんと言っている」
主様は外の草を見た。
「ただ、一人でやった。それだけは言える」
水を汲みに行ったあと、鶴は社の裏に回った。
桶を下ろして、水面を覗いた。
揺れが止まるまで待った。止まると、痩せた女が映った。
鶴は口の中で言ってみた。
「……澪」
何も起きなかった。
水面は動かない。指を入れても、抵抗があるだけだ。
もう一度言おうとして、言えなかった。
いま言ったばかりの音が、口から出た端から抜けていく。指のあいだから砂が落ちるのに似ていた。握っているつもりで、握れていない。
鶴は袂の帳面を出して、いちばん新しい頁の隅を見た。何も書いていない。
書いてから言えばいいのだと、そこで気づいた。
筆を出して、頁の隅に二文字書いた。書いた字を見ながら、もう一度言った。
言えた。言えたが、目を離すと、また抜けた。
二十年、鶴は帳面に書いて覚えてきた。書かなければ返せないからだ。
自分の名も、書かなければ持っていられない。
鶴は膝をついた。膝をついて、桶の縁に手をかけた。
数えておきなさい、とあなたは言った。
誰が、いつ、何を。恨むためじゃない、返すため。
二十年、そのとおりにした。全部書いた。人の分は一件残らず書いた。
わたしの分は、書く欄がなかった。
鶴は帳面を出した。
開いて、いちばん新しい頁の、いちばん下に一行書いた。
二十年前 四月 母 わたしの名
書いてから、無礼をした者の欄を見た。
書けなかった。




