↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/30

第8話 詫び役の妻は、自分の名を答えられない

 久瀬が綴りを開いて、途中で手を止めた。

 紙をめくる指が、一枚のところで止まったまま動かない。

「その、柊さん。次の一件なんですが」

「はい」

「土地の名義が、八朔さんです」

 警邏局の裏手だった。物置と塀のあいだの、日の当たらない狭い場所で、二人はいつもここで話す。鶴は局の建物には入れない。民間の者だからだ。

 石の上に置いた綴りに、朝の光が斜めに入っていた。

「どちらの土地でしょうか」

「南の埋立地です。去年の暮れから、人が転ぶんです」

「転ぶ」

「はい。ただ転ぶんです。荷車が横倒しになったり、馬が脚を折ったり。四か月で十一件。怪我人は出てますが、死人はまだです」

 久瀬は綴りを閉じて、脇に抱えた。

「別の者に回します」

「いいえ」

 鶴は立ち上がった。着物の裾についた埃を払う。

「伺います」

「でも、その」

 久瀬が綴りを抱え直した。

「柊さんが、二十年おられたお宅でしょう」

「はい」

「じゃあ、なんで」

 鶴は塀の上のほうを見た。物置の屋根に、雀が三羽並んでいる。

「祟りは、名義で選びません」

「いや、そうじゃなくて」

「久瀬様」

 鶴は久瀬のほうへ向き直った。

「わたしが行かなければ、どなたが行かれますか」

 久瀬が黙った。答えは二人とも知っている。誰も行かない。綴りが一枚厚くなって、次の月にまた増える。

「参りましょう」


 埋立地は、帝都の南のはずれにあった。

 四年前まで水路が通っていたところだと、久瀬の綴りに書いてある。埋めて、地ならしをして、宅地として売り出した。長屋が十二棟建っている。まだ新しい。板塀の木が白い。

 鶴は、まず端から端まで歩いた。

 歩幅を数える。三十七歩で、道が一度だけわずかに沈む。沈んだところを右へ折れて、また数える。二十二歩でまた沈む。

「柊さん、何を」

「水路の跡でございます」

「見えるんですか」

「見えません」

 鶴は足を止めた。

「地面が、覚えております。埋めても、締まり方が違いますので」

 沈む線をたどっていくと、長屋のあいだを縫って、突き当たりの井戸のところで終わった。井戸の脇に、荷車の轍が深く残っている。

「久瀬様。転んだ場所を、書き出していただけますか」

 久瀬が綴りを開いて、読み上げた。番地と、日付。

 鶴は聞きながら、地面に指で印をつけていった。十一件のうち、九件が同じ線の上にある。残る二件は、線から二間ほど外れていた。

「二件だけ、離れております」

「そこは、四番と六番の裏です」

「後から建てられましたか」

 久瀬が綴りをめくる。「ええ、去年です。増築で、道を少し曲げたと」

「では、線のほうが正しゅうございます」

 鶴は線の終わりまで歩いた。突き当たりの井戸の縁に手を置く。

 新しい井戸だった。埋め立てのあとに掘ったものだ。滑車の縄がまだ毛羽立っていない。

 覗くと、水は出ていた。よく出ている。

「出ておりますね」

「それは、いいことなんじゃ」

「四年前まで、ここは水路の終わりでございました」

 鶴は縄を戻した。

「水は、行き先を無くしただけで、無くなってはおりません。行き場のないものが、地面の下を通っております。人が転ぶのは、その上でございます」

 人足が三人、材木を運んできて、鶴たちの脇を通った。

 そのうちの一人が、荷を下ろしながら言った。

「あんたら、また調べもんかい。無駄だよ。ここは地盤が悪いんだ」

「そう伺っております」

「八朔さんとこは、水を埋めるのが上手いって話だがね」

 鶴は顔を上げた。

「どういう意味でございましょう」

 人足が肩の手拭いで首を拭いた。

「知らねえよ。うちの親方が言ってたんだ。あすこは昔っから、水のあるところを買って、埋めて、売る。それで大きくなった家だって」

 男は笑って、また材木を担ぎに行った。

 鶴は動かなかった。

 二十年、あの家の帳面をつけてきた。伐った木も、踏んだ石も、捨てた供物も書いた。

 水を埋めたという行は、一つもない。


 帰り道は、日が長くなっていた。

 六道ヶ辻までは徒歩で一時間かかる。市電がないので、南のはずれからだと、それより長い。白が途中の橋のところで待っていて、そこから並んで歩いた。

 坂を上がる途中に、葉桜の道がある。

 花はもう無い。緑が濃くなって、風が通ると葉が裏返って白く光った。

「二十年前の春も、こんな色でした」

 白は答えない。答えないので、鶴はそのまま歩いた。

 二十年前の春。母が死んだ年だ。あの日も葉が裏返っていた気がするが、順番が思い出せない。母が死んだのが先だったか、この家に来たのが先だったか。

 覚えているのは、匂いと、声だけだった。

 濡れた木と、線香と、鉄の匂い。それから、名前を呼ぶ声。

 呼ばれていたはずの名前だけが、ない。


 社に着いたのは、日が落ちてからだった。

 主様は拝殿の上がり口に座っていた。近ごろ、鶴が帰る時刻にはそこにいる。偶然だと言い張っているが、雨の日も座っている。

「遅い」

「申し訳ございません」

 鶴は桶を置いて、器の水を換えた。それから、その日のことを話した。

 水路の跡。転ぶ線。九件と、二件。人足の言ったこと。

 主様は黙って聞いていた。膝を立てて、そこに顎を載せて、瓦の落ちた屋根の隙間を見ている。

 話し終わっても、しばらく何も言わなかった。

 草の中で虫が鳴いている。今日は数が多い。

「柊」

「はい」

「ところで、お前の名は、本当に鶴か」

 器を置く手が、止まった。

 置ききらないまま止まったので、器の底が台に当たって、小さな音を立てた。

「……柊 鶴、でございます」

「そうか」

 主様が顎を上げた。こちらを見ている。

「お前が名乗るとき、いつも半拍遅い」

 鶴は器から手を離した。離した手を、膝の上に置いた。

「そのようなことは」

「一度目もそうだった。この社で名乗ったときだ。柊、と言ってから、鶴、と言うまでに間があった」

 主様は責めていない。責める声ではなかった。天気の話をするときと同じ、平らな声だった。

「人は自分の名を、間を置かずに言う。借り物の名でなければな」

 鶴は何か言おうとした。

 言おうとして、口が動かなかった。

 母が何と呼んでいたかを、思い出そうとした。二十年、思い出そうとしなかったものを、この四月に入ってから三度も探している。そのたびに、同じところで途切れる。

 数えておきなさい、と母は言った。そのあとに、名前が続いていたはずだった。

「主様」

「なんだ」

「……お名前を、思い出せないと仰いました」

「ああ」

「思い出せないのと、無いのとは、違うのでしょうか」

 主様が、はじめて姿勢を変えた。膝を下ろして、板間に足を投げ出す。素足の裏が、埃で灰色になっていた。

「違う」

「どのように」

「無いものは、探しても出ん。思い出せんものは、そこにある。誰かが持っている」

 鶴は膝の上の手を見た。爪の下が白い。夜は特に白く見える。

「まあ、いい」

 主様が立ち上がった。板が軋む。

「腹が減った」

 拝殿の奥へ入っていく。振り返らずに、それだけ言って行った。

 鶴は器の位置を直した。傾いていた。直しても、今夜は自分の手が震えているので、水面がなかなか止まらない。

 止まるまで見ていた。

 それから帳面を開いて、その日の分を書いた。四月十六日。南の埋立地。水路の跡。転倒十一件。

 書いてから、筆を止めた。

 名前の欄が二つある。無礼をした者と、返した者。丸木徳次郎のときに自分で作った欄だ。

 どちらにも、書ける名がない。この土地を埋めたのは八朔宗一郎ではない。名義がそうなっているだけで、埋めたのは四年前の誰かだ。あの家は、水のあるところを買って、埋めて、売る。

 鶴は空欄を見た。

 それから、頁の余白に、指で字をなぞってみた。筆はつけない。柊、と書いて、その次で止まる。

 二十年、無礼をした者の名を書いてきた。誰が、いつ、何を。三つが揃えば返せる。揃わなければ、返せない。

 自分の名の欄だけは、二十八年ぶん、ずっと空いている。

 誰かが持っていると、あの人は言った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。