第8話 詫び役の妻は、自分の名を答えられない
久瀬が綴りを開いて、途中で手を止めた。
紙をめくる指が、一枚のところで止まったまま動かない。
「その、柊さん。次の一件なんですが」
「はい」
「土地の名義が、八朔さんです」
警邏局の裏手だった。物置と塀のあいだの、日の当たらない狭い場所で、二人はいつもここで話す。鶴は局の建物には入れない。民間の者だからだ。
石の上に置いた綴りに、朝の光が斜めに入っていた。
「どちらの土地でしょうか」
「南の埋立地です。去年の暮れから、人が転ぶんです」
「転ぶ」
「はい。ただ転ぶんです。荷車が横倒しになったり、馬が脚を折ったり。四か月で十一件。怪我人は出てますが、死人はまだです」
久瀬は綴りを閉じて、脇に抱えた。
「別の者に回します」
「いいえ」
鶴は立ち上がった。着物の裾についた埃を払う。
「伺います」
「でも、その」
久瀬が綴りを抱え直した。
「柊さんが、二十年おられたお宅でしょう」
「はい」
「じゃあ、なんで」
鶴は塀の上のほうを見た。物置の屋根に、雀が三羽並んでいる。
「祟りは、名義で選びません」
「いや、そうじゃなくて」
「久瀬様」
鶴は久瀬のほうへ向き直った。
「わたしが行かなければ、どなたが行かれますか」
久瀬が黙った。答えは二人とも知っている。誰も行かない。綴りが一枚厚くなって、次の月にまた増える。
「参りましょう」
埋立地は、帝都の南のはずれにあった。
四年前まで水路が通っていたところだと、久瀬の綴りに書いてある。埋めて、地ならしをして、宅地として売り出した。長屋が十二棟建っている。まだ新しい。板塀の木が白い。
鶴は、まず端から端まで歩いた。
歩幅を数える。三十七歩で、道が一度だけわずかに沈む。沈んだところを右へ折れて、また数える。二十二歩でまた沈む。
「柊さん、何を」
「水路の跡でございます」
「見えるんですか」
「見えません」
鶴は足を止めた。
「地面が、覚えております。埋めても、締まり方が違いますので」
沈む線をたどっていくと、長屋のあいだを縫って、突き当たりの井戸のところで終わった。井戸の脇に、荷車の轍が深く残っている。
「久瀬様。転んだ場所を、書き出していただけますか」
久瀬が綴りを開いて、読み上げた。番地と、日付。
鶴は聞きながら、地面に指で印をつけていった。十一件のうち、九件が同じ線の上にある。残る二件は、線から二間ほど外れていた。
「二件だけ、離れております」
「そこは、四番と六番の裏です」
「後から建てられましたか」
久瀬が綴りをめくる。「ええ、去年です。増築で、道を少し曲げたと」
「では、線のほうが正しゅうございます」
鶴は線の終わりまで歩いた。突き当たりの井戸の縁に手を置く。
新しい井戸だった。埋め立てのあとに掘ったものだ。滑車の縄がまだ毛羽立っていない。
覗くと、水は出ていた。よく出ている。
「出ておりますね」
「それは、いいことなんじゃ」
「四年前まで、ここは水路の終わりでございました」
鶴は縄を戻した。
「水は、行き先を無くしただけで、無くなってはおりません。行き場のないものが、地面の下を通っております。人が転ぶのは、その上でございます」
人足が三人、材木を運んできて、鶴たちの脇を通った。
そのうちの一人が、荷を下ろしながら言った。
「あんたら、また調べもんかい。無駄だよ。ここは地盤が悪いんだ」
「そう伺っております」
「八朔さんとこは、水を埋めるのが上手いって話だがね」
鶴は顔を上げた。
「どういう意味でございましょう」
人足が肩の手拭いで首を拭いた。
「知らねえよ。うちの親方が言ってたんだ。あすこは昔っから、水のあるところを買って、埋めて、売る。それで大きくなった家だって」
男は笑って、また材木を担ぎに行った。
鶴は動かなかった。
二十年、あの家の帳面をつけてきた。伐った木も、踏んだ石も、捨てた供物も書いた。
水を埋めたという行は、一つもない。
帰り道は、日が長くなっていた。
六道ヶ辻までは徒歩で一時間かかる。市電がないので、南のはずれからだと、それより長い。白が途中の橋のところで待っていて、そこから並んで歩いた。
坂を上がる途中に、葉桜の道がある。
花はもう無い。緑が濃くなって、風が通ると葉が裏返って白く光った。
「二十年前の春も、こんな色でした」
白は答えない。答えないので、鶴はそのまま歩いた。
二十年前の春。母が死んだ年だ。あの日も葉が裏返っていた気がするが、順番が思い出せない。母が死んだのが先だったか、この家に来たのが先だったか。
覚えているのは、匂いと、声だけだった。
濡れた木と、線香と、鉄の匂い。それから、名前を呼ぶ声。
呼ばれていたはずの名前だけが、ない。
社に着いたのは、日が落ちてからだった。
主様は拝殿の上がり口に座っていた。近ごろ、鶴が帰る時刻にはそこにいる。偶然だと言い張っているが、雨の日も座っている。
「遅い」
「申し訳ございません」
鶴は桶を置いて、器の水を換えた。それから、その日のことを話した。
水路の跡。転ぶ線。九件と、二件。人足の言ったこと。
主様は黙って聞いていた。膝を立てて、そこに顎を載せて、瓦の落ちた屋根の隙間を見ている。
話し終わっても、しばらく何も言わなかった。
草の中で虫が鳴いている。今日は数が多い。
「柊」
「はい」
「ところで、お前の名は、本当に鶴か」
器を置く手が、止まった。
置ききらないまま止まったので、器の底が台に当たって、小さな音を立てた。
「……柊 鶴、でございます」
「そうか」
主様が顎を上げた。こちらを見ている。
「お前が名乗るとき、いつも半拍遅い」
鶴は器から手を離した。離した手を、膝の上に置いた。
「そのようなことは」
「一度目もそうだった。この社で名乗ったときだ。柊、と言ってから、鶴、と言うまでに間があった」
主様は責めていない。責める声ではなかった。天気の話をするときと同じ、平らな声だった。
「人は自分の名を、間を置かずに言う。借り物の名でなければな」
鶴は何か言おうとした。
言おうとして、口が動かなかった。
母が何と呼んでいたかを、思い出そうとした。二十年、思い出そうとしなかったものを、この四月に入ってから三度も探している。そのたびに、同じところで途切れる。
数えておきなさい、と母は言った。そのあとに、名前が続いていたはずだった。
「主様」
「なんだ」
「……お名前を、思い出せないと仰いました」
「ああ」
「思い出せないのと、無いのとは、違うのでしょうか」
主様が、はじめて姿勢を変えた。膝を下ろして、板間に足を投げ出す。素足の裏が、埃で灰色になっていた。
「違う」
「どのように」
「無いものは、探しても出ん。思い出せんものは、そこにある。誰かが持っている」
鶴は膝の上の手を見た。爪の下が白い。夜は特に白く見える。
「まあ、いい」
主様が立ち上がった。板が軋む。
「腹が減った」
拝殿の奥へ入っていく。振り返らずに、それだけ言って行った。
鶴は器の位置を直した。傾いていた。直しても、今夜は自分の手が震えているので、水面がなかなか止まらない。
止まるまで見ていた。
それから帳面を開いて、その日の分を書いた。四月十六日。南の埋立地。水路の跡。転倒十一件。
書いてから、筆を止めた。
名前の欄が二つある。無礼をした者と、返した者。丸木徳次郎のときに自分で作った欄だ。
どちらにも、書ける名がない。この土地を埋めたのは八朔宗一郎ではない。名義がそうなっているだけで、埋めたのは四年前の誰かだ。あの家は、水のあるところを買って、埋めて、売る。
鶴は空欄を見た。
それから、頁の余白に、指で字をなぞってみた。筆はつけない。柊、と書いて、その次で止まる。
二十年、無礼をした者の名を書いてきた。誰が、いつ、何を。三つが揃えば返せる。揃わなければ、返せない。
自分の名の欄だけは、二十八年ぶん、ずっと空いている。
誰かが持っていると、あの人は言った。




