第7話 詫び役の妻は、二十年ぶんありますと言う
「柊さん」
久瀬が坂を駆け上がってきた。帽子を手で押さえている。
三日ぶりだった。鶴は社の前で草を刈っていた。刈った草を束ねて、乾かして、屋根の穴を塞ぐつもりでいる。瓦は買えない。
「その、椿町の」
久瀬が息を継いだ。
「八朔さんの、お宅です」
鶴の手が止まった。鎌の刃が、草の途中で止まったままになる。
顔は動かさなかった。動かさないようにしたのではなく、動かなかった。
「何が、ございましたか」
「水回りが、一斉に」
久瀬が綴りを開いた。開いたが、読まずに喋った。
「台所の樋が抜けて、風呂の焚き口が詰まって、庭の池が三日で干上がったそうです。四日前からです。それと、使用人が二人、手足が腫れて寝込んでいると」
「井戸は」
「井戸は」
久瀬が綴りを見た。
「……井戸は、出てます。ふつうに出てるそうです」
鶴は鎌を置いた。
置いた場所を、少し直した。刃が上を向かないように。
「行かれますか」
「行きません」
久瀬が瞬きをした。
「いや、あの、柊さんの、前の」
「はい」
「行かない、んですか」
「呼ばれておりませんので」
草の匂いがした。刈ったばかりの、青くて少し甘い匂いだ。
久瀬は綴りを閉じて、また開いた。閉じるときに紐が絡んで、ほどくのに手間取っている。
「医者は、なんと」
「原因不明だと」
「さようでございますか」
鶴は束ねかけの草を持ち上げて、量を確かめた。屋根の穴には足りない。あと三日ぶんは要る。
「それと、これは近所の聞き込みなんですが」
久瀬が言いにくそうに、綴りの端を折った。
「一昨日の晩、あのお宅の奥様が、庭に立っておられたそうです。ひと晩じゅう」
草を束ねる手が、また止まった。
「井戸のそばか、池のそばでございますか」
「え。ええと、池のほうだと」
「そうでございますか」
鶴は縄を掛け直した。掛け直しながら、志乃が夜の庭で何を見ていたかを考えた。
あの人は、知っている。二十年、知っていた。裏で膝をつく嫁を、止めもしなければ礼も言わず、ただ知っていた。
だから今、庭に立っている。
「柊さん、あの」
「はい」
「奥様は、何をなさってたんでしょうね」
「数えておいでかと存じます」
「数える」
「二十年ぶん、ございますので」
拝殿の板間で、主様が膝を立てていた。
鶴が水を換えに入ると、顔も上げずに言った。
「行かんのか」
器を持ち上げる手が、一瞬止まった。この人には聞こえていたらしい。あるいは、聞かなくても分かるのかもしれない。
「はい」
「二十年、お前が押さえていたのだろう」
鶴は器の水を捨て、新しいのを注いだ。
注ぎながら、答えを探した。探すというより、どこまで言うかを決めていた。
「押さえておりました」
「では、お前が抜ければ、こうなる」
「はい」
主様が板間の上で身体を動かした。膝の上の腕を下ろして、こちらを見る。
「どれだけある」
鶴は器を台に据えた。傾きを直して、埃を払った。
それから、袂の帳面に手を触れた。開かなかった。開かなくても言える。
「二十年ぶん、ございます」
自分の声が、思ったより平らだった。
「いちばん古いのは、二十年前の春でございます。次が、その年の夏。それから秋に二つ。冬は無く、明くる年の春に三つ」
「よく覚えているな」
「日にちで覚えております」
言ってから、鶴は少し口の中で言葉を回した。
「恨んでいるのではございません。返すために書きました。返せなかったものが、そのまま残っているだけです」
主様が黙った。
草の中で、鳥が短く鳴いた。
「返せなかった、とは言わんのだな」
「はい」
「押さえていた、と言う」
「解けてはおりませんので」
主様が、板間の暗がりのほうへ首を戻した。戻してから、言った。
「その言い方は、正しい」
鶴は器の位置をもう一度だけ直して、外へ出た。
夕方、久瀬がまだ社にいた。
帰らずに、階の下で綴りを整理している。膝の上で紙を揃えて、日付順に並べ直していた。白がその足元で伸びている。犬が寄っても、久瀬はもう飛び上がらなくなっていた。
「久瀬様」
「はい」
「お帰りにならないのですか」
「並べ替えてから帰ります。柊さんが、古いものからと仰るので」
鶴は隣に腰を下ろした。石段の二段目は割れているので、三段目に座る。
久瀬が紙を一枚、脇へよけた。
「柊さんは、いくつのときにあのお宅へ」
「八つでございます」
久瀬の手が止まった。
「八つ」
「はい」
「……なぜ、そんなに小さいうちに」
鶴は膝の上で手を重ねた。
「家が潰れましたので。母が亡くなって、それきりでございました」
「お家は、何を」
「詫び代と申します。家々の無礼を詫びて回る家でございました。今はもう、そういう職はございません」
言ってから、鶴は付け足した。
「八朔の家が、情けをかけてくださったと伺っております」
「誰から伺ったんです」
答えようとして、言葉が出てこなかった。
誰から聞いたのか、思い出せない。志乃だったか、先の大旦那様だったか。それとも誰も言わず、いつのまにかそういうことになっていたのか。
情けをかけていただいた。二十年、鶴はそう言ってきた。言うたびに誰も否定しなかったので、そういうものだと思っていた。
「……存じません」
久瀬は綴りを見たまま、何も言わなかった。言わずに、紙を一枚、また脇へよけた。
それから、ぽつりと言った。
「うちの村でも、口減らしはありました。八つなら、奉公に出す年です」
「はい」
「でも、名家が、詫び代の家の子を引き取るってのは」
久瀬が言葉を探して、見つけられずにやめた。
鶴も、その先を訊かなかった。訊かなかったが、久瀬が言いかけてやめた形だけが、しばらく残った。
白が起き上がって、鳥居のほうを見た。
風が変わっている。夜になると、この辻には六つの方向から風が来る。どれか一つだけが、いつも少し冷たい。
夜、鶴は帳面を開いた。
灯りがないので、月の明るさで書く。字が曲がるが、読めればいい。
四月十二日。八朔家。水回り。使用人二名。
書いてから、鶴は筆を止めた。
無礼をした者の欄が、空いている。
この一件で無礼をしたのは誰か。二十年前の春に木を伐った者か。それとも、押さえるのをやめた自分か。
鶴は空欄のままにして、帳面を閉じた。
閉じてから、指を折った。
一。二十年前の春の分。あれは、もう帰った。
二。その年の夏の分。
まだ帰っていない。
背中で、板の軋む音がした。主様が拝殿の奥を歩いている。夜になると、あの人はときどき歩き回る。眠らないらしい。
鶴は月を見た。
椿町の坂を、いま誰かが上っているだろうか。医者か、水道の技師か。どちらにしても、あの家の誰も、祟りだとは口にしない。
二十年、一度も口にしなかった。




