第6話 詫び役の妻は、見ていただかないと効かないと言う
橋のたもとに、三十人ばかりが立っていた。
舟乗りが十人ほど。長屋の住人が十五、六人。丸木組の若い衆が四人。それに、朝の買い物籠を提げたまま足を止めた女が数人。
その真ん中に、丸木徳次郎が立たされている。
「柊さん」
久瀬が横に来て、声を落とした。「これは、その、見世物ですか」
「いいえ」
鶴は川を見ていた。水嵩は昨日と変わらない。
「見ていただかないと、効かないのです」
「効かない、というのは」
「順に、まいりましょう」
鶴はまず、川に入った。
昨日と同じところまで歩いて、切り株の泥を落とす。手で払い、袂で拭い、それから桶の水をかけた。年輪が出た。土手の上から見ている者たちが、少しずつ黙っていく。
水から上がって、切り株の脇に椀を据えた。米は明け方に自分で研いだ。水も自分で汲んだ。
「丸木様」
徳次郎は動かなかった。首の後ろに手をやって、そのまま下ろす。
「なんで、こんなに人を集めた」
「集めていただきました」
「同じことだ」
「違います」
鶴は土手を上がって、徳次郎の前に立った。背丈は徳次郎のほうが頭ひとつ高い。
「昨日、作業場では申しませんでした。あそこには、あなた様のお身内しかおられませんでしたので」
「身内の前じゃ駄目なのか」
「足りません」
徳次郎の顎が動いた。
「言え言えと言うが、何を言えばいいんだ」
「いつ、どなたが、何をなさったかでございます」
「そんなもん、伐ったって言えばいいんだろ」
「はい。それを、ご自分のお口で」
徳次郎が息を吸った。吸って、吐いた。
「あれは、開化のはじめごろだ。いや、二年か、三年の」
「それは、詫びになりません」
鶴の声が、初めて土手の上まで届いた。
徳次郎が言葉を切る。
「何を、いつ、どうなさったのか。あなた様のお口から。日にちが分からなければ、季節までで結構です。ですが、ぼやかされますと」
鶴は切り株を見た。
「これは、ぼやけません」
川の音がしていた。
三十人が黙っていると、水の音がずいぶん大きく聞こえる。橋脚に当たって割れる音と、浅瀬を撫でる音が、別々に聞こえた。
徳次郎の口が動いたのは、ずいぶん経ってからだった。
「……開化二年の春だ」
声が、思ったより低い。
「開化二年の春に、俺が、あの木を伐った」
土手の上で、誰かが「へえ」と言った。
「川幅を広げる話が来て、あの木が邪魔だった。三抱えあった。根方に台石があって、それも一緒にどけた。石は、そのへんの土手に埋めた」
舟乗りの一人が身を起こした。年配の男だった。
「台石って、あんた」
徳次郎が、その男のほうを見なかった。
「舟乗りが、銭を置いてた石だ」
男が立ち上がった。「あそこに置いてったんだ。俺の親父も置いてた。渡しが流れたときに、あの石だけ残ったって」
「知ってた」
徳次郎が言った。
「知ってて、どけた」
人の輪が、少し狭くなった。
鶴は動かない。動かずに、次の言葉を待った。待つのは得意だった。
徳次郎が首の手拭いを外した。握って、また広げて、握った。
「それから」
「はい」
「……役所には、腐ってると届けた」
鶴は目を伏せた。伏せたが、顔は上げたままにした。
「腐ってなかった。良い木だった。挽いて、売った。三年ぶん、組の食い扶持になった」
土手の上で、丸木組の若い衆が一人、後ずさりした。
久瀬が綴りを開きかけて、途中でやめた。
「うちが人を増やしたのは、その次の年だ」
徳次郎が言い切った。
誰も何も言わない。買い物籠の女が籠を持ち直す音だけがした。
徳次郎が膝をついた。石の多い土手に、そのまま膝をついて、両手を地面につけた。
「すいませんでした」
頭が下がった。額が土につくまで下がった。
舟乗りの年配の男が、そっぽを向いて洟をすすった。
川の音が変わったのは、そのすぐあとだった。
鶴は聞かなかったふりをした。橋脚に当たって割れていた音が、いつのまにか一本になっている。浅瀬の撫でる音だけが残っていた。
台石が出てきたのは、日が高くなるころだった。
場所は年配の舟乗りが覚えていた。土手の三本目の柳の下、と言って、そこを指した。掘ると、二尺ほどでぶつかった。
若い衆が二人、縄を持って寄ってきた。
「いけません」
鶴が止めた。
「これは、丸木様のお手で」
「三十貫はありますよ」
「はい」
徳次郎が羽織を脱いだ。脱いで、地面に放った。
石は、一人では持ち上がらなかった。持ち上がらないので、徳次郎は転がした。土手の斜面を、下から上へ、少しずつ回しながら上げていく。手が滑って一度戻り、また上げた。
誰も手を貸さない。貸そうとした若い衆を、年配の舟乗りが目で止めた。
半刻かかった。
据えるとき、徳次郎の手が震えていた。掌の皮が剥けて、石の縁に血がついた。
「向きは」
「南でございます」
「なんで南だ」
「渡し場が、南にございましたので」
徳次郎が石を回した。回してから、しばらくその場に座り込んでいた。
年配の舟乗りが、懐から小銭を出して石の上に置いた。二人目が置いた。三人目が置いた。
徳次郎は置かなかった。置く資格がないと思ったのかもしれない。鶴も勧めなかった。
徳次郎は久瀬に連れていかれた。届出の件は、警邏局ではなく別の役所の話になるらしい。
行くとき、徳次郎が一度だけ振り返った。
「柊さん」
「はい」
「あんた、俺を助けたのか。潰したのか。どっちだ」
「存じません」
鶴は頭を下げた。
「ただ、お顔の色が、昨日よりよろしゅうございます」
徳次郎が口を開けて、閉じた。閉じて、行った。
土手に残ったのは、鶴と久瀬と、椀ひとつだった。
鶴は椀を下げて、中の米を川へ流した。流してから、椀を洗って、袂に入れた。借り物ではない。自分の椀を、昨日の謝礼で買った。
「柊さん」
久瀬が土手に座り込んでいた。革靴の底に泥が挟まっている。
「なんで、みんなの前じゃないと駄目なんですか」
鶴は川を見た。
答え方を、考えたことがなかった。母は理屈を教えなかった。教わる前に死んだ。二十年、鶴はただ手順を守ってきただけで、なぜそうなのかは知らない。
「一人が思い出しても、足りないのだと存じます」
言いながら、自分で確かめていた。
「無かったことにされる、というのは、誰の中にも無い、ということでございます。ですから、返すときも一人では届きません。何人かが、同じことを、同じ場所で覚えていないと」
「何人いれば足りるんです」
「存じません」
久瀬が黙った。
鶴は土手を降りて、川の水で手を洗った。冷たさは分からない。指の腹に、砂の粒だけが当たる。
「柊さん」
「はい」
「あなたは、何者ですか」
顔を上げると、久瀬がまっすぐこちらを見ていた。帽子を膝に置いている。
鶴は少し考えた。
二十年、名乗ったことがない。八朔の家の者ですと言えば済んだ。今はそれが言えない。
「……詫び役でございます」
言ってみて、口に馴染むのが分かった。
「二十年、それだけをしておりました」
「二十年」
「はい」
久瀬が何か言いかけて、やめた。やめてから、綴りを開いて、次の一件を探しはじめた。
鶴は袂の帳面を出して、日付と、名前を二つ書いた。無礼をした者の欄と、返した者の欄に、同じ名を書いた。
書きながら、指が止まった。
二十年、それだけをしていた。
では、その二十年ぶんは、いま誰が引き受けているのだろう。




