第5話 詫び役の妻は、その木の下に何があったかを訊く
鳥居の外で、巡査が帽子を取ったり被ったりしていた。
三度目に被ったところで、外して、また被った。そのあいだに白が近づいていって、匂いを嗅ぎ、離れた。巡査は動かなかった。動けなかったのかもしれない。
鶴は桶を置いて、草の中を歩いていった。
「何かご用でしょうか」
巡査が飛び上がった。飛び上がってから、帽子を取って、深く頭を下げた。
「その、柊さんでいらっしゃいますか。自分は、帝都警邏局の久瀬と申します」
腰が四十五度ほど折れている。長い。
鶴は返し方が分からなかった。
二十年、こちらから頭を下げる相手しかいなかった。先に下げられたときにどうするか、母は教えなかった。教わる前にいなくなった。
「柊でございます。……お顔を、上げてくださいませ」
「はっ」
上げた顔は、若かった。二十歳をいくつか過ぎたくらいだろう。日に焼けて、襟が汗で湿っている。ここまで歩いてきたらしい。市電は六道ヶ辻に来ない。
「井戸の話を、聞きました。三軒とも水が戻ったと」
この三日で、鶴は同じような一件を二つ片づけていた。物干し場の下から出てきた石と、埋め戻された小さな溝。米が一合と、古い蚊帳が一張り。それで食いつないでいる。
「戻ったそうでございますね」
「戻ったそうで、って」
久瀬が目をしばたたいた。「あの、ご自分でなさったのでは」
「わたしは、石を運んでおりません」
久瀬が黙った。黙ってから、懐から綴りを出した。
厚い。紐で括ってある。表に「原因不明」と書いてあった。
「これ、局にある分です」
「何のでございますか」
「事故です。原因が分からんやつです。橋が落ちる、蔵が焼ける、井戸が涸れる、人が同じ場所で転ぶ。……調べても出てこないんです。増水の記録もない、火の元もない、地盤も問題ない」
久瀬は綴りの紐を握ったまま、うつむいた。
「上は、たまたまだと言います。局長は、報告書に『不注意』と書けと」
「そうお書きになれば、綴りは薄くなります」
「薄くなります」
久瀬は顔を上げた。
「でも、次の月にまた増えるんです」
白が久瀬の脚に寄っていった。久瀬が短く声を上げて、桶にぶつかった。水がこぼれる。
「あっ、す、すみません」
「かまいません」
鶴は倒れた桶を起こした。
「一件、伺います」
「え」
「いちばん古いものから、お願いいたします」
その橋は、三月前に落ちていた。
朧川の細い支流に架かった仮橋で、材木を運ぶために組まれたものだ。落ちたとき、人は死んでいない。荷馬が二頭死んだ。
今は板が外され、橋脚だけが川の中に残っている。
「増水だと」
久瀬が綴りを開いた。「その日の記録が、これです。降ってません。上流も」
「橋を渡らせていたのは、どちらの方でしょう」
「請けは丸木組です。棟梁の名は、丸木徳次郎」
鶴は土手を降りた。
久瀬が慌ててついてくる。革靴が滑って、二度尻をついた。
川の水は膝までしかない。鶴は裾をからげて中へ入った。冷たいはずだが、分からない。足の裏に、丸い石の感触だけがある。
橋脚の根元まで行って、しゃがんだ。
水の中で、木が二本、川底に食い込んでいる。それとは別に、少し離れたところに、平らな面があった。
手で泥を払う。
切り株だった。水の中で黒くなっているが、年輪は残っている。太い。両手を広げてやっと囲めるほどある。
「久瀬様」
「はい」
「これを、ご覧くださいませ」
久瀬が水に入ってきた。入ってから、革靴のまま入ったことに気づいて、片足を上げて、また下ろした。
「木ですか」
「橋を架けるときに、伐られたものではございません」
「なぜ分かるんです」
「切り口が、古うございます。橋は三年前に架かりました。この切り口は、それより七年ばかり古いかと」
鶴は年輪の外側を指でなぞった。
「それと、位置でございます。橋脚は流れに沿って打ちますが、この株は流れに直角に近いところにございます。もとは、川がここまで来ていなかったのだと存じます」
「川の外に生えてた木、ということですか」
「はい。木を伐って、川を広げて、橋を架けたのだと」
久瀬が綴りをめくった。めくって、途中で手が止まる。
「……ここに、川幅を広げた記録があります。開化二年です」
「十年前でございますね」
鶴は立ち上がった。裾から水が落ちる。
「木を伐ったから橋が落ちた、と。そういうことになりますか」
久瀬の声が、少し早くなっていた。
「順に、まいりましょう」
鶴は土手のほうを見た。
「伐ったこと自体は、まだ何とも申せません。木は伐るものでございます。家を建てるにも、橋を架けるにも」
「では、何を」
「その木の下に、何が置かれていたかでございます」
丸木組の作業場は、川から三町ほど下ったところにあった。
鉋屑の匂いがする。若い衆が四人、材を挽いていた。鋸の音が高い。
棟梁は帳場に座っていた。五十がらみで、右手の指が二本短い。
「警邏局か」
久瀬を見て、それだけ言った。鶴のほうは見なかった。
「三月前の、上の仮橋の件で」
「終わった話だ。増水だと届けは出てる」
「その届けの話ではございません」
鶴が言うと、棟梁がはじめてこちらを向いた。
「あんた、誰だ」
「柊と申します」
「柊さん。何の用だ」
「開化二年に、川幅をお広げになりましたね。そのときに、太い木を一本、伐っておいでです」
棟梁が煙草盆を引き寄せた。引き寄せてから、火をつけなかった。
「伐ったよ。邪魔だったからな。あんな木、勝手に生えてただけだ」
「三抱えほどございました」
「だから何だ。役所の許しも取ってる」
「はい。許しはお取りでしょう」
鶴は膝をついた。帳場の板の間に、そのまま膝をついた。
久瀬が息を呑む音がした。棟梁の手が止まった。
「伺いたいのは、そこではございません」
鶴は顔を上げた。
「その木の下に、何か置かれていませんでしたか」
鋸の音が、一つ止まった。
もう一つ止まって、三つ目も止まった。若い衆が四人とも、こちらを見ている。
棟梁は動かなかった。動かないまま、煙草盆の縁を指で押さえた。押さえた指の関節が白い。
顔の色が引いていくのが、鶴には見えた。
覚えている。この人は、何が置かれていたかを覚えている。覚えていて、十年、誰にも言っていない。
「知らんね」
声が少し掠れた。「置かれてたって、何がだ」
「明日、伺います」
鶴は立ち上がった。
「橋のたもとで、お待ちしております。皆さまの前で、伺いますので」
棟梁が顔を上げた。今度は、鶴の目をまっすぐ見た。
「なんで、みんなの前なんだ」
鶴は答えず、頭を下げて、出た。
外に出ると、日が落ちかけていた。鉋屑の匂いが、まだ着物についている。
「柊さん」
久瀬が追いついてきた。「明日、人を集めるんですか」
「集めていただけますでしょうか。近所の方と、川を使う方と」
「集められますけど、その、なんでです」
鶴は坂の下を見た。ガス灯の点灯夫が、こちらへ上がってくる。
「二人では、足りませんので」




