第4話 詫び役の妻は、大祀までの妻になる
「いいえ」
朝いちばんに、鶴はそう答えた。
石段で夜を明かした。着物の背が露で重い。白は明け方に一度どこかへ行って、また戻ってきて、いまは階の下で伸びている。
主様は拝殿の上がり口に立っていた。素足のままだ。朝の光の中で見ると、輪郭がいっそう薄い。向こうの草の色が、肩のあたりで少し透けている。
「いいえ、とは」
「わたしには、あなた様に頭を下げる資格がございません」
鶴は膝の上で手を重ねた。
「あなた様を無かったことになさったのは、わたしではありませんので」
主様が、はじめて眉のあたりを動かした。
「昨日、詫びると言ったな」
「探すと申しました。詫びるとは申しておりません」
「同じことだろう」
「違います」
言い切ってから、鶴は言葉を足した。
「たとえば、わたしが今ここで額を地につけて、六十年ぶんお詫び申し上げたとして。埋められたぶんは、返りますでしょうか」
主様が黙った。
草の中で、鳥が二度鳴いた。
「……返らん」
「はい」
「なぜ分かる」
「昨日、器に置いたものが減っておりませんでした」
拝殿の中で、器はそのままだった。梅の握り飯の半分が、乾きはじめている。
二十年で、鶴はそれを何度も見てきた。当人でない者が供えたものは、手つかずで乾いていく。逆に、当人が自分の手で置いたものは、翌朝には無くなっている。
「わたしが置いたものでは、返りません。わたしは、あなた様に何もしておりませんので」
鶴は顔を上げた。
「返せるのは、埋めた方だけでございます」
主様は答えなかった。答えないまま、上がり口に腰を下ろした。降りてくるでも上がるでもない、その中間のところに座った。
「では、お前は何をしに来た」
「探しにまいりました」
「六十年、誰も来んと言った」
「探した方が、いらっしゃらないだけかと存じます」
主様の口の端が、わずかに動いた。笑ったのではない。何かを飲み込みかけて、やめた動きだった。
「探して、どうする」
「連れてまいります。連れてきて、あなた様の前で、その方の口から言っていただきます。いつ、何を、どうなさったのか」
「厭がるぞ」
「はい。皆さま、厭がられます」
鶴は膝の土を払った。
「順に、まいりましょう」
その日のうちに、話がついた。
といっても、契りらしいものを交わしたわけではない。主様が「好きにしろ」と言い、鶴が「ではお言葉に甘えます」と言った。それだけだった。
条件は一つだけ、主様のほうから出た。
「大祀までだ」
「おおまつり、と申しますと」
「秋の祀りだ。九月の十五日。この辻でやっていた」
主様は草の生えた地面を見た。
「六十年やっておらん。だが日付は動かん。それまでにできんかったら、もういい。お前は帰れ」
「かしこまりました。九月十五日まででございますね」
鶴は帳面を出して、日付を書いた。
四月五日。契約。九月十五日まで。
書いてから、書く場所を間違えたことに気づいた。無礼の欄に書いてしまっている。線を引いて消すのも妙なので、そのままにした。
「それと」
主様が、ついでのように言った。
「妻ということにしておけ」
鶴は筆を止めた。
「そのほうが、人の世で面倒がない。女が一人でこんなところに住んでいると、いろいろ言われるのだろう」
「言われます」
「では、そうしろ」
言い方が、屋根の修理の相談に近かった。
鶴は帳面を閉じた。閉じてから、少し考えた。
妻ということにしておけ、と言われて、はい、と答える。二十年前にも同じことがあった。あのときは志乃が言って、鶴が答えた。中身も同じだ。名前だけ借りて、寝所は別で、帳面に名は載らない。
変わったのは、貸してくれる相手が人ではないことくらいだった。
世間はこれを、拾われたと言う。
「かしこまりました」
鶴は頭を下げた。
「大祀まで、お世話になります」
午後は掃除をした。
拝殿の草を抜くのに半日かかった。根が板の隙間に入り込んでいて、引くと板ごと持ち上がる。持ち上がった板の下から、瓦の破片と、鳥の骨と、ずいぶん古い刷り物が一枚出てきた。文字はもう読めない。
落ちた瓦を縁の端に積み直し、埃を掃いた。掃くと埃が立って、しばらく前が見えなくなる。咳をしながら掃いた。
器を洗った。
二つとも、底の焼きつきが取れなかった。爪でこすっても駄目で、井戸まで行って砂を持ってきて、それでこすった。取れたのは片方だけだった。
水を汲んで、器に入れた。
昨日の握り飯は、乾いて硬くなっていた。鶴はそれを下げて、新しく置くものがないので、代わりに水だけを置いた。
主様は拝殿の隅にいた。見ていないふりをしている。ふりをしているのが分かる程度には、こちらを見ていた。
「お邪魔でしたら、おっしゃってください」
「邪魔だ」
「では、あと少しで終わりますので」
鶴は掃き続けた。
手を止めたのは、器に水を入れるときだった。
「主様は、何をなさる神様でいらっしゃいますか」
「知らん」
「ご自分のことでも、でございますか」
「名がないと、そういうものも一緒に落ちる」
言い方に苛立ちはなかった。天気の話をするのと同じ声だった。
鶴は器を台に据えた。桶からもう一杯汲んで、二つ目にも入れる。水面が揺れて、落ちてきた埃を一粒、端へ寄せた。
揺れが止まるまで、主様はそれを見ていた。
瓦を見るときとも、草を見るときとも、目の使い方が違った。鶴は帳面を出さずに、そのことだけを覚えておくことにした。
夕方近く、縁の下で音がした。白が出てきた。腹の下が土で汚れている。ずっとそこにいたらしい。出てきて、鶴の足元の掃いた場所に寝転がった。
掃き直した。
翌朝、鶴は妙な音で目が覚めた。
小さくて、硬い音だった。石段のあたりでする。
起き上がって外を見ると、誰もいなかった。鳥居の下から道が三方へ延びていて、どれにも人影はない。
石段の二段目に、小皿が置いてあった。
欠けた瀬戸物で、塩がひとつまみ。それと、干した魚が一切れ。魚は小指ほどの大きさで、頭がついている。
鶴はしゃがんで、皿の縁を見た。長く使われた皿だった。塩の湿った跡が幾重にも残っている。今日はじめて出したものではない。
拝殿を振り返る。
台の上の器が、空になっていた。
昨日入れた水がない。こぼれた跡もない。
「主様」
「知らん」
拝殿の奥から、すぐに返ってきた。早すぎる返事だった。
「昨夜、どなたか来られましたでしょうか」
「知らん」
鶴は皿をそのままにして、井戸へ水を汲みに行った。
六道ヶ辻に井戸はない。二町ほど戻ったところの共同井戸まで行って、汲んで、戻る。桶を担いで坂を上がると、朝の日が鳥居の笠木に当たっていた。
器に水を入れる。
入れながら、鶴は昨日の自分の言葉を思い返していた。
わたしが置いたものでは返らない。それは合っている。埋められたぶんは、一滴も返っていない。
それでも、水は無くなっていた。
返すことと、糊口をしのぐことは、別なのかもしれない。誰かが器を覗いて、そこに水があると思う。それだけで、この方はほんの少し、この世に留まれるのかもしれない。
だとしたら。
鶴は石段の小皿を振り返った。
皿の縁の塩の跡は、一年や二年でつくものではなかった。六十年、誰も来ないと主様は言う。言ったのに、誰かがここに何かを置き続けている。
置いている当人も、なぜ置いているのかを、たぶん覚えていない。




