第3話 詫び役の妻は、腹を空かせた神に会う
「その道の先には、何もないよ」
すれ違った女はそう言って、鶴の顔も見ずに行ってしまった。
何もない、という言い方に、鶴は少し引っかかった。何もないのではない。何かがあったものが、無くなっているのだ。二つは似ているが、別のことだった。
山犬は待っていた。
二町ほど歩いては立ち止まり、鶴が追いつくと、また歩き出す。急かさない。犬が人の歩幅に合わせるのを、鶴は初めて見た。
市電の音がしなくなったのは、四つ目の角を曲がったあたりからだった。ガス灯も、途中で終わっている。灯の切れ目から先は、道の白さだけを頼りに歩くことになった。
背中で梅の匂いがする。袂に入れた握り飯だ。半分は昼に食べた。残りの半分を、まだ食べられずにいる。
六つの道が、一か所で交わっていた。
どの道も細い。そのうち二本は草に埋もれて、もう道の形をしていない。交わったところが少し盛り上がっていて、そこに鳥居が立っていた。
立っている、という言い方は正しくない。傾いている。左の柱の根が腐って、右へ寄りかかるようにして止まっている。笠木の端が地面に触れていた。
その奥に、社があった。
屋根が半分落ちている。落ちた瓦がそのまま拝殿の縁に積もって、そこから草が生えていた。生えている草の丈が、鶴の膝ほどある。何年ぶんの草か、数えようとしてやめた。
山犬が鳥居のそばで止まり、腰を下ろした。
鶴は近づいて、しゃがんだ。
「あなた、痩せていますね」
毛が薄い。背中の中ほどから腰にかけて、地肌が透けている。撫でると、指が沈む前に骨に当たった。皮膚の温度は分からなかったが、乾いているのは分かる。
「ここにお住まいですか」
山犬は答えない。答えるはずもない。ただ、鶴の手のほうへ首を傾けた。
草を分けて、階のところまで行った。石段が三段。二段目が割れている。
拝殿の中は暗い。何かが腐った匂いと、埃と、それから、ずいぶん昔に線香を焚いたきりの匂いがした。
「――どなたか、いらっしゃいますか」
声が、思ったより奥まで届いた。
暗がりが動いた。
「人の子か」
低い声だった。若い。
拝殿の板間に、男が座っていた。膝を立てて、そこに片腕を載せている。
着物は古い型で、袖口が擦り切れて糸が出ていた。裾から出た足に、履物がない。土の上を歩いた足ではなかった。汚れていない。
色が薄い。髪も、目も、洗いすぎた布のような色をしている。
鶴は階の下で膝をついた。
「夜分に、失礼をいたします」
「何しに来た」
「犬に、連れてこられました」
男の視線が、鳥居のほうへ動いた。
「あれは犬ではない」
「さようでございますか」
鶴は言い直さなかった。犬でないのなら何なのか、訊くべきかどうかも分からなかった。訊くべきときは、向こうが言う。二十年、そうしてきた。
「名を、伺ってもよろしいでしょうか」
男が黙った。
長い。息を継ぐ間が、人のそれではなかった。鶴は待った。待つのは得意だった。
「思い出せん」
「思い出せない、と申しますと」
「そのままの意味だ」
男は膝の上の腕を持ち上げて、額のあたりを押さえた。押さえてから、面倒になったように下ろした。
「六十年、誰も呼ばん。呼ばれんものは、こちらも忘れる」
鶴は膝の上で手を組み直した。
「では、なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「主様、とでも呼べ。ここの主だ。それしか残っておらん」
「かしこまりました」
言ってから、鶴は自分の名を名乗っていないことに気づいた。
「柊 鶴と申します」
主様の目が、初めて鶴のほうへ動いた。動いて、止まった。
「柊」
「はい」
「……聞いた気がするな」
「どちらで」
「知らん」
主様は興味を失ったように顔を戻した。膝を立て直して、板間の暗がりに沈む。
鶴は拝殿の中を見た。
鏡はない。あるべき場所に、埃の輪だけが残っている。台があって、その上に器が二つ。どちらも空だった。空というより、ずっと空だった。器の底に、乾いた輪が焼きついている。
供物が一つもない。
二十年、鶴はいろいろな場所で膝をついてきた。荒れた社も見た。潰された祠も、川へ流された石も見た。だが、器まで乾ききった社は初めてだった。
荒れているだけなら、まだいい。荒れた社には、荒らした者がいる。誰が、いつ、何を。三つが揃えば、返す道はある。
ここには、それがない。
誰も壊していない。ただ、誰も来なくなった。来なくなったことを、誰も自分のしたことだと思っていない。
鶴は柱に手を触れた。木肌が、指の腹で粉になった。六十年ぶんの乾きだった。
これがいちばん重い。二十年やってきて、鶴が知っている中でいちばん重い型だった。壊した相手には返せる。忘れた相手には、返させるところから始めなければならない。
「腹が減った」
主様が言った。
鶴は顔を上げた。冗談を言った顔をしていない。空腹を訴える人間の言い方でもない。もっと平らな、たとえば「雨が降っている」と言うときの声だった。
「六十年、誰も詫びに来ん。だから腹が減っている」
鶴は袂から包みを出した。
竹の皮を開くと、梅の匂いが暗がりに広がった。半分残った握り飯を、鶴は指で二つに割った。片方を、台の上の乾いた器に置く。
「そんなものは要らん」
「はい」
鶴は器の位置を直した。傾いていたので、埃を払って据え直した。
「置いてまいります」
主様は器を見ていた。見ていることを見られたくないらしく、すぐに目をそらした。そらしたが、また戻ってきた。
外に出ると、風が変わっていた。
鶴は階に腰を下ろした。腰を下ろしてから、そういえば今夜も寝る場所がないと思い出した。石段は硬い。硬いのは、河原と同じだった。
山犬が階の下に来て、伏せた。
背中で、板の軋む音がした。主様が出てきたらしい。出てきたが、外へは降りない。
「お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あなた様を、無かったことになさった方がいるはずです」
軋みが止まった。
「その方が、いらしていないのですね。六十年」
「来ん」
「どなたか、お分かりになりますか」
「分からん」
主様の声が、少し低くなった。
「それも消えた。誰が私を埋めたのか、思い出せん。腹が減っているということだけが残っている」
鶴は膝の上の帳面に手を置いた。開かなかった。
書けることが、一つもない。誰が、いつ、何を。三つとも空欄では、帳面の意味がない。二十年で初めてだった。
「明日、探してまいります」
「無駄だ」
「かもしれません」
「二十年前にも、そう言った女がいた」
鶴の手が止まった。
「どちらの」
主様は答えなかった。
草の中で、虫が鳴いている。夏にはまだ早い。鳴き方が細く、途切れがちだった。
やがて、背中で草の擦れる音がした。近い。降りてきている。
鶴が振り向くより先に、主様が言った。
「――お前は。私に、正しく頭を下げられるのか」
石段の二段目に、素足があった。
割れた石を踏んでいるのに、音がしなかった。
鶴は答えを持っていなかった。二十年、頭を下げてきた。数え切れないほど下げてきた。それでも、この問いにだけは、すぐに口が動かない。
「明日までに考えろ」
主様は板間へ戻っていった。今度は軋む音がした。
山犬が立ち上がって、鶴の足元に来た。そのまま身体を寄せて、また伏せる。
背中のあたりの毛が、月の光で白く見えた。透けているから白いのだと、鶴は気づいた。
「白」
呼んでみると、耳が一度だけ動いた。




