第2話 詫び役の妻は、涸れた井戸の理由を知っている
「うちだけじゃないんだよ。三軒先も出ないんだ」
「昨日は少し出たろう」
「泥だよ、あんなの。赤ん坊に飲ませられるか」
声を頼りに角を曲がると、井戸端に女が四人いた。桶が伏せてある。
鶴は足を止めた。止めるつもりはなかったのだが、目が先に止まっていた。
昨夜は河原で明かした。木賃宿の代を持っていない。朝から仕事を探して二軒断られ、三軒目は戸も開かなかった。二十年、この町を歩くときはいつも駕籠か車で、地面の高さで見るのは初めてだった。
地面は、思っていたよりよく喋る。
井戸の縁に手をかけて、覗いた。
底が見える。乾いた土の匂いが上がってくる。水を汲んでいた井戸が涸れると、こういう匂いになる。かび臭さの手前の、埃と、少し甘い匂い。
「ちょいと、あんた」
女の一人が声を上げた。「勝手に覗かないでおくれよ」
「申し訳ございません」
鶴は下がった。下がりながら、地面を見た。
井戸から三間ほど東へ、地面がわずかに低い。低いところに沿って、去年の雨で削れた筋が残っている。その筋が、途中で唐突に途切れていた。
途切れた先に、材木が積んである。まだ新しい。
それから、長屋の軒先を順に見た。
三軒に一軒、小皿が出ている。塩が盛ってあるのは二軒だけで、あとは空だった。空の皿を出しっぱなしにしている家のほうが、鶴には気になった。置くのをやめた家は、皿ごと片づける。片づけないのは、いつか誰かが盛るつもりでいるからだ。
「あんた、水売りかい」
縁台に爺さんが座っていた。湯屋の隠居らしい。膝に猫が乗っている。
「いいえ」
「じゃあ何だい」
鶴は答えを探した。二十年、名乗ったことがない。
「……水を、見ておりました」
「見て出るなら苦労はねえや」
爺さんは煙管を叩いた。灰が地面に落ちる。
「昔はこのへんもよかったんだよ。どこ掘っても出た。今はどこも駄目だ」
「どこも、でございますか」
「どこもだ。ああ、椿町のほうは知らねえがね。あすこの八朔さんとこの井戸だけは、今でも出がいいって話だ。金持ちにゃ水も寄っていくんだろうよ」
猫が伸びをした。爺さんはもう別の話を始めている。
鶴は材木の山のほうへ歩いた。
積んであるのは杉の角材で、二十本ばかり。下に厚い板を三枚敷いて、地面から浮かせてある。丁寧な仕事だった。
板の端を持ち上げると、土が乾いている。ここだけ、周りより色が薄い。
「触るなよ」
背中から声がした。手拭いを首にかけた男が立っている。腕に鉋屑がついていた。
「源治さんかい」
女の一人が井戸端から言う。「あんた、ここに何か置いてなかったかい」
「置いてねえよ。何も」
男は鶴のほうを見た。「あんた、誰だ」
「柊と申します」
「柊さん。何を見てる」
「板の下でございます」
源治の眉が動いた。動いてから、動かないようにした。
鶴は板を戻した。戻してから、その場に膝をついて、地面に手を当てた。
乾いている。周りは湿っているのに、ここだけ乾いている。乾き方に、丸い形が残っていた。直径は二尺ほど。石が置かれていた跡だ。
「半年ほど前でございますね」
「何が」
「ここに置かれていたものを、どちらへ動かされましたか」
源治が黙った。
井戸端の女たちが、いつの間にか静かになっている。桶を伏せる音もしない。
「……石だよ」
源治が吐き出すように言った。「そこに転がってた石だ。丸っこいのが。あんなもん、誰も拝んでねえ」
「どちらへ」
「川っぷちだ。捨ててねえ。ちゃんと運んだ」
鶴は立ち上がった。土のついた手を、袂で拭かずにそのままにした。
「辻の石でございます。道の分かれ目に置くものです。ここは、昔は道が二つに分かれておりましたでしょう」
爺さんが縁台から声を上げた。「分かれてたよ。俺が子どものころは、そっちが井戸道だ」
「井戸へ行く道が、無くなりました。石も、無くなりました」
「だから水が出ねえってのか」
源治の声が荒くなった。「勘弁してくれよ。俺は仕事で置いただけだ。材木を濡らすわけにいかねえんだ。それのどこが悪い」
「悪いとは、申しておりません」
鶴は源治の顔を見た。見上げる形になる。
「石を、戻していただきたいのです。あなたのお手で」
「人足を頼めば済むだろう」
「済みません」
短く言った。源治が言葉に詰まる。
「それから、もうひとつ」
「まだあるのか」
「戻したあとで、ここにいらっしゃる皆さまの前で、おっしゃっていただきます。いつ、どなたが、何をなさったのかを」
源治の顔が赤くなった。
「なんで俺が、みんなの前で」
鶴は答えなかった。答える代わりに、井戸の縁に置いてあった桶を取って、伏せてあったのを起こした。それから材木の山の脇の草を、手で分けはじめた。
「何してるんだ」
「石を置いていた場所を、探しております」
「そこだって言ったろう」
「そこですと、道の向きが合いません。もう二尺、こちらのはずです」
源治が唸った。唸って、それから草を分けはじめた。二人で分けているうちに、女が一人来て、爺さんが猫を下ろして立ち上がって、しまいには八人が地面を這っていた。
窪みが出てきたのは、日が高くなったころだった。丸くて、浅くて、底に古い苔がこびりついている。
源治が窪みを見て、しばらく動かなかった。
石は川っぷちの藪の中にあった。
二人がかりでも動かないので、源治が縄と車を持ってきた。運ぶあいだ、誰も口をきかなかった。
窪みに据えると、石は一度で収まった。
源治が手を洗いに行こうとして、鶴が止めた。
「そのままで」
「泥だらけだ」
「はい」
人が集まっていた。井戸端の女たち、爺さん、猫、洗濯物を抱えたまま来た娘、赤ん坊を負ぶった母親。十五人ほどが石を囲んでいる。
源治が首の手拭いを外した。外して、握りしめた。
「……去年の、霜月だ」
声が掠れた。
「霜月に、俺が、この石をどけました。材木を置くのに邪魔だったんで。川っぷちの藪に運んで、そのままにしてました」
誰も何も言わない。
源治が膝をついた。泥のついた手を地面につけて、頭を下げた。
「すいませんでした」
石の苔が、日を受けて濡れて見えた。
水が戻ったのは、日が落ちてからだと聞いた。
鶴はその場にいなかった。井戸から水が上がる音は、聞かないほうがいい。聞くと、自分がやったような気になる。
角を曲がるとき、女の一人が追いかけてきて、鶴の手に何か押しつけた。
握り飯だった。竹の皮に包んである。梅が入っているらしく、皮の合わせ目から酸い匂いがした。
「うちのだけど」
「頂戴いたします」
鶴は両手で受け取った。
温かいのかどうかは分からなかった。ただ、重さは分かる。二十年、こういう重さのものを、自分の手で受け取ったことはなかった。この家の当主が、この家の奥様が、と言わずに済むものを、鶴は初めて手に持っていた。
女が戻っていく。鶴は袂の帳面を出して、日付を書いた。
いつもなら、名前の欄には無礼をした者の名を書く。今日もそう書いてから、鶴は少し考えて、その隣にもう一度「源治」と書いた。
返した者の欄は、母の書き方にはなかった。二十年、要らなかったからだ。
顔を上げる。
路地の突き当たりに、犬がいた。
山犬だった。大きい。毛が薄くなっていて、背中のあたりは地肌が透けている。夕日を背にしているのに、影が薄い。
こちらを見ている。かなり長いあいだ、見ていたらしい。
鶴が一歩踏み出すと、山犬は背を向けた。
二歩進んで、振り返った。




