第1話 詫び役の妻は、三行半を軽いと思った
「お前は詫び状を書くしか能がない。もう要らぬ」
差し出された紙は、思っていたよりずっと軽かった。
鶴は両手で受け取り、膝の上で開いた。三行と半分。決まりどおりの字数に、決まりどおりの文言が並んでいる。墨の乾きが甘い。今朝がた書いたものだ。
一 此度我等勝手ヲ以テ離縁致候
最初の一行がそれだった。勝手を以て。二十年のあいだ、この家で誰かが自分の都合を認めた一文を、鶴は初めて見た。
庭の椿が散りきったのは半月も前になる。それでも畳の縁には、掃き残しの花弁が一枚、乾いてこびりついていた。
「……そう」
上座で八朔志乃が湯呑みを置いた。音を立てずに置く。この家に来て最初に覚えたのがそれだった。志乃は鶴のほうを見ていない。庭を見ている。庭には何もない。
「支度は今日中になさい。夕方に車を回します」
「かしこまりました」
言葉が短いと、志乃は続きを喋る。二十年でそれも分かっていた。
「あなたがいると、うちが古いままだと言われるのよ」
湯呑みの縁を、指がひとまわり撫でた。
「井戸に塩を盛るだの、裏で膝をつくだの。……ええ、わたくしは止めなかったわ。止めなかったけれど、それとこれとは別の話でしょう。数馬の店にも、外の目というものがあるの」
「はい」
「はい、ではなくて。あなた、何か言うことはないの」
鶴は膝の上の紙を畳んだ。折り目のとおりに折ると、三つに戻る。
「井戸の塩は、明日から誰かにお願いしてくださいませ。三日に一度で足ります」
志乃の指が、湯呑みの縁で止まった。
「話にならん」
宗一郎が言った。膝の横に朝刊が畳んで置いてあって、その角を指が撫でている。話は終わったという合図だ。二十年、この人がそうするのを見てきた。
鶴は紙を袂に納め、両手をついた。
「二十年、お世話になりました」
「ああ」
顔は上げられなかった。宗一郎の返事が、朝刊をめくる音と重なったからだ。
座敷を出るとき、鶴は襖の脇の塩壺を持ち上げた。
素焼きの小さな壺で、蓋の縁が二か所欠けている。中身は半分ほど。三日に一度、井戸と、裏の木戸と、台所の三か所に盛る。二十年、鶴が続けてきた。
「これを、どなたかに」
志乃は受け取らなかった。手を出しかけて、袂に戻した。
「そういうものは、女中にやらせます」
「とめさんは、腰が」
「なら数馬の嫁に」
「佐和さまは、太一さまがまだお小さいので」
志乃の目が、初めて鶴のほうを向いた。ほんの短いあいだだった。
「置いていきなさい」
鶴は塩壺を襖の脇に戻した。蓋の欠けた側が壁を向くように置いた。二十年、そうしてきたからだ。
与えられていた部屋は北向きの四畳半で、夏でも畳が湿っている。
鶴は風呂敷を広げ、着物を三枚、櫛を一つ、それから帳面を置いた。それで終わった。二十年で、これだけになる。
帳面は表紙が擦り切れて、糸で綴じ直した跡が二か所ある。二冊目だった。一冊目は、八つの春の日付から始まって、開化の元号に変わる年で終わっている。
開くと、日付と、名前と、出来事しか書いていない。
開化元年 神無月 大旦那様 裏の欅 三本 根ごと
開化三年 五月八日 奥様 辻の石 踏み越え 三度
開化七年 正月二日 旦那様 社の縄 焼き捨て
開化九年 九月 旦那様 椿 三本
開化十一年 八月十四日 数馬様 供物 井戸へ
読み返す必要はなかった。全部覚えている。
書くのは恨むためではないと、母に言われた。返すためだ。返すには、何を借りたか分からなければ話にならない。
最後の行のあとに、まだ二行ぶんの余白がある。鶴は筆を出さずに帳面を閉じ、着物のあいだに挟んだ。
廊下を歩くと、板が三枚目で鳴る。鳴らない歩き方も、この家で覚えた。
台所の前を通ったとき、帳場の帳面が開いたまま置いてあるのが目に入った。八朔家の内向きの控えだ。表書きに、家の者の名が並んでいる。宗一郎。志乃。数馬。数馬の妻の佐和。使用人が七人。
そこに鶴の名はない。二十年、一度も書かれたことがない。「八朔宗一郎 内」とだけある。
鶴は帳面を閉じずに通り過ぎた。閉じるのは、この家の者の仕事だ。
部屋に戻ると、上がり框に湯呑みが置いてあった。
湯気が立っている。置き方が決まっていて、縁の欠けた側がいつも壁のほうを向いている。二十年、そうだった。
誰が置いたかは知っている。廊下の突き当たりで、とめが雑巾を絞っていた。こちらを見ない。鶴も声をかけない。四十年この家にいる女中と、二十年いた嫁は、ほとんど口をきかずに済んできた。
湯を飲むと、指の先まで温くはならなかった。爪の下の白さは、この十年ほど戻っていない。
日が傾いてから、鶴は裏庭に出た。
裏庭は使用人の通り道で、木戸の脇に炭俵が積んである。その先、井戸の向こうに、切り株が三つ並んでいた。
開化九年の秋、宗一郎が伐らせた椿だ。日当たりが悪いという理由だった。切り口はもう黒ずんで、雨を吸って柔らかくなっている。年輪はまだ数えられた。八十をいくつか過ぎたあたりで、鶴はいつも数を見失う。
台所から白木の椀を借りてきて、井戸の水で米を研いだ。冷たさは分からない。ただ、指の腹に米の角が当たる感触だけがある。三度研いで、水を替えて、また研ぐ。研ぎ汁が濁って、澄んで、また濁った。
水は自分で汲む。米は自分で研ぐ。人に持たせたものは効かない。母がそう教えた。理屈は教わらなかった。教わる前に、母は死んだ。
切り株の前の土を、手で払って平らにした。石が二つ出てきたので、それも拾って脇へ置く。椀を据えると、傾いた。土を少し掻いて、据え直す。三度目でようやく水面が動かなくなった。
膝をついた。
着物の膝が濡れる。夕方の土は冷えている。それは分かる。冷たさが分からないのと、冷えているのが分かるのは、別のことだった。
「わたしが申し上げます」
誰もいない裏庭に、声だけが落ちた。
「この家の当主が、開化九年の九月に、この椿を三本、根ごと伐らせました。日当たりが悪いという理由でございました。ここに三代、置かれていたものだと、伐ってから聞きました」
言葉を切る。切り株の断面に、蟻が二匹上っていく。
「伐ったのは、当主でございます。わたしではありません。ですから、これでは足りません」
足りないと知っていて、鶴は続けた。
「足りない分は、わたしが持ちます。今日で最後になりますので、二十年ぶん、まとめてお納めください」
両手を土につけた。額を近づける。土と、腐った落ち葉と、どこかの家の夕餉の油の匂いがした。
息を吐く。吐ききってから、また吐く。そうすると胸の底が空になって、そこへ何かが移っていく感じがある。何が移っているのかは、母も言わなかった。ただ、移したぶんは戻らない。それだけは八つのときに分かった。
井戸の底で、水が一度だけ鳴った。
どれくらいそうしていたか分からない。立ち上がろうとしたとき、膝から下の感覚がなかった。木戸に手をついて、しばらく待った。指を一本ずつ折って、開いて、確かめる。薬指だけが、最後まで言うことをきかなかった。
待っているあいだ、母の声が耳の奥で鳴った。
――数えておきなさい、
そのあとに続く名前が、抜けている。
いつからか分からない。八つの春からずっと、そこだけが白い。誰かに呼ばれていたはずの音が、鶴の中では途切れている。恨むためじゃない、返すためよ。そう言った声の温度までは覚えているのに、自分が何と呼ばれていたかだけが、ない。
思い出そうとするのは、久しぶりだった。今日でこの家を出るからかもしれない。
椀は置いていくことにした。持って帰るものではない。
門を出たのは、日が落ちきる少し前だった。
車は結局回らなかった。志乃が忘れたのか、宗一郎が止めたのか、鶴は訊かなかった。訊いても、どちらかが「そんなことがあったか」と言うだけだ。
台所の窓が一つ、開いていた。
とめが立っている。手に何も持たず、こちらを見ていた。鶴が目を合わせると、とめは窓の桟に手をかけて、そのまま動かなかった。何か言おうとして、やめた顔だった。
鶴は頭を下げた。四十年ぶんの湯に。
窓が閉まる音は、坂を五歩下りたところで聞こえた。
石畳を三十歩ほど下ると、椿町の坂が始まる。坂の下からガス灯の点灯夫が上がってきて、鶴とすれ違った。長い棒を担いでいる。会釈をされたので、返した。
風呂敷はやはり軽い。
二十年、この門を出るときは必ず誰かの用事だった。薬をもらいに。詫びに。頭を下げに。今日は、そのどれでもない。
背中で、門が閉まった。
もう一歩。
そのとき、屋敷の奥で何かが割れた。
陶器の音ではない。もっと低くて、湿った音だった。井戸の底で石が落ちたときに似ている。
続いて、人の走る足音。誰かが誰かの名を呼んでいる。志乃の声だ。二十年で一度も聞いたことのない出し方をしていた。
鶴は足を止めた。
振り返らない。振り返らずに、袂の中で指を折った。一。
いちばん古いものからだ。あれは、二十年前の春の分。
坂の下でガス灯が一つ、点いた。
鶴はまた歩き出した。




