第29話 山犬は、六十年ぶんの道を覚えていた
白の歩き方が違った。
いつもは二十歩進んでは止まり、鶴が追いつくのを待つ。今夜は止まらない。振り返りもしない。
迷っていない歩き方だった。
六道ヶ辻を出て、東へ。市電の線路を越えて、椿町の坂を上がる。上がりきらずに、八朔邸の塀の手前で北へ折れた。
塀に沿って、五間。それから、草の中へ入った。
道はない。地図にも載っていない。だが白は迷わなかった。
鶴は草を分けて追った。九月の草は乾いていて、腕に細かい傷がつく。傷は痛む。痛みだけは、まだ分かる。
高台の斜面を下りると、崩れかけた石垣があった。
積み方が古い。今の職人の積み方ではない。石と石のあいだが、拳ひとつぶん空いている。
その隙間の一つが、人の通れる大きさになっていた。
水の匂いがした。
中は暗渠だった。
膝を折らないと入れない。入ると、天井が急に高くなる。石で組んだ穹窿が、頭の上三尺ほどのところにあった。
六十年、誰も通っていない。壁に手をつくと、苔が指について、その苔が乾いていた。
奥へ十歩ほど進むと、床が下がった。
泥だった。深さ一尺ほど。踏むと、足首まで沈む。
沈んだところで、鶴は足の裏に硬いものを感じた。
しゃがんで、泥を掻いた。
石だった。平らで、丸い。
掻き続けると、輪郭が出てきた。直径三尺ほどの円形の石。中央がわずかに窪んでいる。
水盤だった。
鶴は袂から手拭いを出して、縁を拭いた。
六十年ぶんの泥は、拭くだけでは落ちない。手で削り、爪で掻いた。爪の下は白いままだが、削る力はまだ残っている。
縁の一か所に、彫りがあった。
文字だ。
鶴は指でなぞった。
輪郭は分かる。何画あるかも分かる。ここが横棒で、ここが払いで、ここが点だと分かる。
読めない。
読もうとすると、目が滑る。字の形は見えているのに、それが音に結ばない。二つの字が、二つの石ころのように並んでいるだけだった。
鶴は声に出してみた。
形のとおりに、口を動かした。音は出た。出た音は、出た端から抜けた。
もう一度やった。同じだった。
三度目で、鶴は手を止めた。
泥に膝をついたまま、しばらく動かなかった。
ここまで来た。六十年前の道を歩いて、埋められた湧き水の底まで来て、名の彫ってある石を見つけた。
それでも、読めない。
母は二十日通って、これを読ませようとした。読めなかったから、名を払った。娘の名を払い、自分の名を払い、それでも読めずに死んだ。
同じ場所に、同じように座っている。
鶴は帳面を出そうとして、持ってきていないことに気づいた。
白が、水盤のふちを鼻で押した。
一度。それから、少し離れたところをもう一度。
鶴は顔を上げた。
白は同じことを三度やった。三度目で、鶴は泥を掻いた。
窪みがあった。
水盤の外側、石の縁に沿って、小さな窪みが並んでいる。掌ほどの大きさで、深さは一寸ほど。
器を置いた跡だった。毎朝、同じ場所に同じ器を置き続けると、石が減る。
鶴は数えた。
泥を掻きながら、一つずつ数えた。
六つ。七つ。八つ。
石の縁を半周して、九つ。十。
最後の一つが、いちばん浅かった。いちばん新しい者か、いちばん背の低い者が置いた跡だ。
「……十一」
鶴の手が止まった。
昨日、社の前に立っていた老人の数と、同じだった。
全員、七十を越えている。六十年前なら、十かそこらだ。母親に手を引かれて、毎朝ここへ水を汲みに来て、器を置いて、名を呼んで帰った。
名を呼んでいた。
鶴は水盤の縁の文字を見た。
読めない。一人では読めない。
だが、この字は、読むものではないのかもしれない。
呼ぶものだ。
呼んでいた者たちが、いま生きている。十一人。全員が、あったことは覚えている。どこにあったかは、誰も言えない。何と呼んでいたかは、一人ずつでは出てこない。
長屋の寄合を、三人が半刻かけて組み直した。春だったか秋だったか、二十三人だったか二十四人だったか。一人では出なかった。二人でも足りなかった。三人でようやく形になった。
母は、一人でやった。
間違っていたのは覚悟ではない。人数だった。
鶴は泥の中で膝を立てた。
帰り道、鶴は走らなかった。
走れなかった。足首まで泥に浸かった着物が重い。それでも、坂の途中で一度も止まらなかった。
六道ヶ辻の手前、半里のところに、人が立っていた。
素足だった。
主様が、社の外にいた。
輪郭が滲んでいる。夜目にも分かるほど薄い。半里の限りを越えて、そこで止まっているらしい。立っているというより、立ち続けているという形だった。
「……戻ってこんかと思った」
鶴は足を止めた。
「水盤がございました」
息が上がっている。息を整えずに、続けた。
「六十年前の、湧き水の底でございます。縁に、字が彫ってございました。読めません。ですが、器を置いた跡が十一ございました」
「十一」
「昨日、社の前におられた方の数でございます」
主様が黙った。
「明日、皆様に呼んでいただきます」
鶴は言った。
「一人では読めません。母は一人でやりました。ですから足りませんでした。足りなかったのは、覚悟ではございません」
主様が何か言おうとした。
鶴が先に動いた。
三歩進んで、主様の手を取った。
両手で、掌を包むように取った。
主様の身体が動いた。引こうとした。鶴は離さなかった。
触れれば体温を奪われる。この人はそれを知っていて、五月のあいだ一度も触れなかった。三寸手前でいつも止めていた。
「離せ」
「いいえ」
「奪う」
「存じております」
鶴は手に力を入れた。入れているつもりだが、入っているかは分からない。
「冷とうございません」
「嘘をつくな」
「はい。嘘でございます」
言ってから、鶴は続けた。
「離したくありません」
自分の声が、いつもと違った。
二十年、こういう言い方をしたことがない。何かを欲しいと口に出したことが、たぶん一度もない。二十八年ぶんの帳面のどこにも、そういう行はなかった。
主様が、それきり引かなかった。
二人とも動かなかった。九月の夜の風が、六つの道のどれかから来て、通り過ぎた。
やがて、主様が言った。
「行くな」
「どこへも参りません。明日、ここにおります」
「そうではない」
鶴は顔を上げた。
「わたしの名は、使いません」
「そうではない」
主様は同じことを二度言った。二度言って、それきり黙った。
鶴には、この人が何を言おうとしているのか分からなかった。
分からないまま、手を離さなかった。
社に着くと、皆が起きていた。
誰も帰っていなかった。とめが火を焚いて、老人たちが石段に座り、久瀬が階の下で綴りを膝に載せたまま眠りかけている。数馬は柱にもたれていた。
「へえ」
とめが立ち上がった。
「皆さん、帰らんとおっしゃって」
鶴は全員の前に膝をついた。泥だらけの着物のまま、そうした。
「明日、皆様のお声を、お貸しくださいませ」
老女が訊いた。
「なんて呼べばいいんだい。名前、忘れちまったよ」
「思い出していただきます」
鶴は言った。
「順に、まいりましょう」
東の空が、白みはじめていた。




