第28話 詫びの女は、勘定に入らなくていいと言う
とめが掃除のついでに、それを見た。
拝殿の隅に置いてあった帳面が、風で開いていた。最後の頁だ。日付が一行、書いてある。
その下に、もう一行あった。
九月十五日 わたしの名
とめは帳面を持って、外へ出た。
「鶴さま」
鶴は屋根に上がっていた。草を束ねて、瓦の落ちた隙間に差し込んでいる。九月の風は乾いていて、草がよく効く。
「これは、なんでございますか」
鶴は屋根から降りた。降りるのに、いつもより時間がかかった。
帳面を受け取って、その行を見た。
「大祀の日の、予定でございます」
「予定」
「はい」
「鶴さま。あたしは字が下手でございますが、読むのは読めます」
とめの手が震えていた。
鶴は帳面を閉じた。
「六十年ぶんを返すには、当主様に人前で言っていただくほかにございません。当主様は、動かれません」
「では」
「動かれないのでしたら、こちらで補うほかにございません」
「補うって、何を」
「差し出せるものは、四つございます」
鶴は指を折った。
「時と、体温と、記憶と、名でございます。時はもう出せません。体温も、この手ではあと幾らも残っておりません。記憶は、七月に一つ出しました」
三本目まで折って、四本目で止まった。
「残りは、一つでございます」
とめが両手で口を押さえた。
「鶴さまのお名前は」
「もともと、わたしのものではございません」
鶴は言った。
「母が付け直したものでございます。空の雲が鶴の形をしていたから、そう呼ぶことにする、と。それだけの名でございます。惜しむものではございません」
「勿体ないことでございます」
「勿体なくは、ございません」
鶴は帳面を袂に入れた。
「わたしのことは、勘定に入りませんので」
とめは何も言わなかった。
言わずに、雑巾を桶に放り込んで、坂を降りていった。走っていた。六十七の女が、あの坂を走った。
主様は、その日の昼に来た。
拝殿の奥からではない。外から来た。半里の限りまで出て、戻ってきたところらしい。輪郭が薄くなっていて、日を透かすと向こうの草の色が見えた。
「やめろ」
挨拶も、前置きもなかった。
鶴は器を洗っていた。手を止めずに答えた。
「あなた様は、六十年、飢えておいでです」
「やめろと言っている」
「大祀までに返さなければ、この社は整理されます。参事官様は、十日待つと仰いました。十日目が、大祀でございます」
「知っている」
「では」
「やめろ」
鶴は器を置いた。置いてから、向き直った。
「母は、失敗いたしました」
「そうだ」
「ですが、母は二十日で二つ出しました。わたしは五月かけて、数を知りました。八朔の家の分も、六十年前の届出も、埋めた者の名も、全部揃っております。母のときは、揃っておりませんでした。ですから」
「あの女もそう言った」
鶴の口が止まった。
主様が階の一段目に座った。座るとき、膝がいつもより深く曲がった。
しばらく、草を見ていた。
「私は六十年、腹が減っていた」
声が低い。
「あの女が来るまでは、それだけだった。減っているという形しか、こちらには残っていなかった」
主様は自分の手を見た。
「あの女が死んだ日から、腹が減っていることのほうが、まだましだと思っている」
鶴は動かなかった。
「お前が消えたら、私はまた待つ。六十年か、百年か、それは知らん」
主様が顔を上げた。
「その先に、お前がいない」
風が鳴った。六つの道から来る風のうち、いつも一つだけが冷たい。今日はそれが正面から来ていた。
鶴は膝をついた。
膝をついて、頭を下げた。それから、いつもと同じ調子で答えた。
「わたしは、勘定に入らなくていいので」
主様が言葉を失った。
この人が言葉を探しているのを、鶴は初めて見た。口が二度動いて、二度とも音にならなかった。
やがて、立ち上がった。立ち上がって、拝殿へ戻った。戻るとき、板が軋まなかった。踏む力が残っていなかったらしい。
夕方、鳥居の下に人が集まりはじめた。
最初に来たのは、いつもの老人だった。杖をついて、小皿を持っている。
次に、湯屋の隠居が来た。四月に猫を膝に乗せていた爺さんだ。それから、掘割で傘を落とした年寄りの女。長屋の寄合を覚えていた三人。名前を知らない者も、顔だけ知っている者もいた。
数えると、十一人いた。
全員、七十を越えている。
「とめさんが」
いちばん年嵩の老女が言った。
「あんたが倒れると、うちの井戸がまた駄目になるって」
「そういうことではございません」
「そういうことだよ」
老女は皿を庇の下に置いた。
「あたしらは、あんたが治したところに住んでる」
久瀬が来たのは、そのあとだった。
息を切らして坂を上がってきて、手帳を出した。手帳を開いて、鶴に見せた。
九月十五日の欄に、一行書いてある。
柊さんを止める
「書きました」
久瀬が言った。
「書いておけば、忘れません」
鶴は手帳を見た。
書いておけば、忘れない。二十年、鶴が言ってきたことだった。
数馬も来た。太一のそばを離れられないはずだが、来ていた。
「僕、毎日、兄さんとこ行ってる」
数馬は石段に座った。
「門も開けてくれないけどさ。玄関で、二時間くらい喋ってる。返事はない」
「はい」
「明日も行く」
鶴は十一人と、久瀬と、数馬を見た。
困った。
二十年、誰にも止められたことがない。止められ方を知らない。頭を下げるのは慣れているが、下げられたときに何を返せばいいかは、母が教えなかった。
「皆様」
鶴は言った。
「わたしのことは、勘定に」
「入ります」
とめだった。
いつのまにか坂を上がってきて、いちばん後ろに立っていた。
「入ります」
老女が言った。
「入るよ」
湯屋の隠居が言った。
十一人が、口々に言った。理屈はなかった。理屈のないものに、鶴は返し方を持っていない。
鶴は帳面を出した。出して、最後の頁を開いた。
九月十五日。わたしの名。
その一行を、しばらく見ていた。
消せば、六十年ぶんが残る。太一は目を覚まさない。社は整理される。主様は、また六十年待つ。
消さなければ、明日で終わる。
鶴は筆を持った。持ったまま、動かさなかった。
「柊さん」
久瀬が言った。
「消してください」
「消しますと」
「消してください」
久瀬は手帳を握っていた。九月十五日の欄が開いたままだった。
鶴は筆を置いた。置いて、帳面を閉じた。
「明日、考えます」
誰も、それ以上言わなかった。
夜、鶴は社の裏に回った。
桶の水を覗いた。揺れが止まるのを待って、口の中で言ってみた。
書いていない。だから、言えなかった。
白が来て、鶴の膝に頭を載せた。しばらくそうしていた。
それから、立ち上がった。
鳥居のほうへ二歩歩いて、振り返った。
九月一日に、椿町の塀の外で見たのと同じ歩き方だった。あのときは、日が落ちていたので止めた。
今夜は、止めなかった。




