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第27話 参事官は、下の名前を言えなかった

 砂利を踏む音が、いつもと違った。

 草履でも下駄でもない。革が鳴っている。

 鶴が拝殿から出ると、鳥居の下に洋装の男が立っていた。上着を着たまま、革の鞄を提げている。九月の朝の日が、その靴の先で光っていた。

「柊さん」

 綾瀬圭一郎だった。

「開化九年の綴りを、お持ちしました」

 鶴は階を降りた。

 白が縁の下から出てきて、綾瀬の前に立った。

 綾瀬が足を止めた。しばらく、その犬を見ていた。

「……これは、犬ですか」

「白と申します」

「野犬でしょう。局に言えば、捕らせますが」

「六十年、ここにおります」

 綾瀬は白を見た。見て、それから鶴を見た。

「六十年」

「はい」

 綾瀬は何も言わなかった。言わずに、白を避けて通った。避けたことに、たぶん自分で気づいていない。


 拝殿の板間に、綾瀬は座った。

 上着を脱がない。膝を揃えて、鞄を横に置いた。朽ちた社の板の上で、その姿勢だけが直角だった。

 座ってから、綾瀬は奥のほうへ目をやった。

 暗がりに、主様が膝を立てて座っている。

「そちらの方は」

 鶴は動きを止めた。

 見えている。この人には見えている。

「こちらの、主でございます」

「主。管理者ということですか」

「はい」

「お名前は」

 主様は答えなかった。答えないので、鶴が答えた。

「ございません」

 綾瀬は、そこで少し黙った。

「無籍の方ですか。それでしたら、局のほうで手続きを」

「結構でございます」

 綾瀬は綴りを開いて、そこに何か書きつけた。書きつけて、それきり奥を見なかった。

 目には映っている。映っているものを、この人は「無籍の男」という欄に入れて、片づけた。

 鶴は、それが六十年のあいだ帝都で起き続けたことなのだと思った。

「四百八十件を、私は自分の足で見て回っています」

 綾瀬が言った。

「二月で百十件見ました。残りは来年になります。見て回ると、分かることがあります」

「どのようなことでございましょう」

「祀り手なし、と査定した社の九割に、供物が置いてある」

 鶴は主様のほうを見なかった。見ないようにした。

「古い皿です。塩と、干した魚か、豆。置いているのは老人です。訊くと、皆こう言う。うちの婆さんが置いていたから、と」

 綾瀬は鞄を開けた。

「祀り手はいます。ただ、名簿に載らない」

 出てきたのは、革表紙の綴りだった。背に年号が入っている。

 開化九年。

「製本には出していません」

 綾瀬が言った。

「三年、私の机の引き出しに入れていました」

 鶴は綴りを見た。手は出さなかった。

「開化九年の八月、京橋の足場が落ちました。死者一名。名は岡といいます。私の部下でした」

 綾瀬の声は変わらない。数字を読むときと同じだった。

「工期を三月短縮する決裁を、私が通しました。人手が足りず、足場の組み方が省かれました。岡はそこから落ちました」

「報告書は」

「不注意として処理しました」

 綾瀬は綴りの表紙に手を置いた。

「事故として処理すれば、組に責任が及びます。組が潰れれば、四十人が職を失う。不注意にすれば、責任は本人で止まります。私は残り、局は残り、四十人も残る」

「岡様のご家族は」

「妻と、子が二人」

「弔慰金は」

「不注意ですので、出ません」

 鶴は膝の上で手を重ねた。

「三年、この綴りだけを外に出しませんでした」

 綾瀬が言った。

「柊さん。私はあなたに、証明を求めました。求めながら、自分は一件、数から外していた。それが、あなたに言われた一拍の意味です」

 拝殿の外で、風が草を鳴らした。

 鶴は一つだけ訊いた。

「その方の、お名前は」

「岡です」

「下のお名前は」

 綾瀬の口が開いた。

 開いて、止まった。

 止まったまま、しばらく動かなかった。膝の上の手が、上着の布を一度だけ握った。

「……調べます」

「はい」

「知らないのです。三年、報告書に苗字しか書かなかったので」

 綾瀬は綴りを閉じた。

「三年、数えていませんでした。数えていないと、名前は落ちるのですね」

「はい」


 その日の昼、老人が一人、小皿を持って上がってきた。

 いつもの人だった。杖をついて、坂を半刻かけて上がってくる。鶴が手を貸そうとすると、毎回断る。

「今日は、お客さんかい」

「はい」

 老人は綾瀬を見て、それから皿を石段の庇の下に置いた。置いて、手を合わせた。

「じいさん」

 鶴が声をかけた。

「はい」

「先だって、辻の石を動かされたと仰っていましたね」

 老人が振り返った。

「ああ。もう五十年も前だ。子どもの時分に、悪さして転がした」

「戻されましたか」

「戻さんかった。忘れとった」

「では、いま戻していただけますか」

 老人が杖をついて笑った。

「わしの足じゃ、あんな石は」

「転がすだけで結構でございます。二尺ほどでございますから」


 石は、鳥居の外の草の中にあった。

 子どもが五十年前に転がした石だ。大人の頭ほどの大きさで、片側が丸い。

 老人は膝をついて、両手をついて、石を押した。

 動かない。もう一度押した。少し動いた。

 三度目で押しきれずに、老人は肩で息をした。杖を脇に置いて、地面に額を近づける姿勢になった。

 綾瀬が板間から降りた。

 砂利の上を三歩歩いて、そこで止まった。上着の袖に手をかけて、止めた。

「参事官様」

 鶴が言った。

「お手をお貸しになりますか」

「……いけませんか」

「いけません」

 綾瀬は手を下ろした。下ろして、そのまま立って見ていた。上着を着たまま、日向で、最後まで見ていた。

 四度目で、石は元の窪みに落ちた。

「開化に改まる前だ。わしが六つか七つのとき」

 老人が言った。息が上がっている。

「この石を蹴って転がした。面白がって、坂の下まで転がした。婆さんに叱られて、それきり忘れとった」

 老人は綾瀬のほうを向いた。呼びかけたのではない。ただ、そこに人がいたからだった。

「悪うございました」

 頭を下げた。

 石の周りの草が、少しだけ動いた。風ではなかった。風なら、他の草も動く。

 綾瀬が、その一点を見ていた。


「これは、証明にはなりません」

 綾瀬が言った。帰り際、鳥居の下で。

「はい」

「草が動いた。それだけです。私はこれを報告書に書けない」

「はい。証明ではございません」

 鶴は言った。

「手順でございます」

 綾瀬は鳥居の笠木を見上げた。傾いた柱と、地面に触れている端を、しばらく見ていた。

「柊さん」

「はい」

「六道ヶ辻の社の整理は、大祀のあとに回します」

 鶴は頭を下げた。

「十日でございますね」

「十日です」

 綾瀬は歩き出して、三歩で止まった。

「岡の下の名前を、明日、調べます」

「はい」

「調べて、どうすればいいですか」

 鶴は答えた。

「呼んでくださいませ。人前で」


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