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第26話 詫びの女は、はじめて名前で呼ばれる

 足音が二つ、坂を駆け上がってきた。

 一つは革靴。もう一つは、草履が片方脱げかけている音だった。

 鶴が鳥居のところへ出ると、数馬が先に着いた。息が上がりきって、しばらく声にならない。

 その後ろから、八朔志乃が来た。

 日傘を持っていない。髪が半分ほどけて、額に貼りついている。九月の朝の坂を、この人が走ったところを、鶴は二十年で一度も見たことがなかった。

「太一が」

 数馬が言った。

「四日、目を覚まさない」

 鶴は石段を降りた。

「熱は」

「ある。三日目から下がらない。医者は三人来た。三人とも、原因が分からんって」

「お食事は」

「水だけ。それも、飲ませると半分こぼす」

 鶴は数馬の顔を見た。目の下が黒い。四日寝ていない顔だった。

「枕元に、何か置いておいでですか」

 数馬が止まった。

「え」

「お子さまの枕元に、ここひと月で新しく置かれたものはございませんか」

 数馬の口が半分開いた。

 開いたまま、しばらく動かなかった。それから、上着の内側に手を入れた。

 出てきたのは、灰色の石の欠片だった。掌に載るほどの大きさで、片側だけ削ったような平らな面がある。

「これ」

「どちらから」

「……二月前の、潰した社の。記念に、って」

 鶴は石を受け取らなかった。受け取らずに、数馬の掌の上のそれを見た。

「太一が欲しがったんだ。石が好きで、集めてて。僕が持って帰って、あの子の枕元に」

 数馬の声が細くなった。

「捨てなかったんだ。捨ててないだろ。取っておいたんだ」

「はい」

「取っておいたのに、なんで」

「取っておくのと、勘定に入れるのは、別のことでございます」

 鶴は言った。

「その石は、四百八十のうちの一件でございました。産業廃材として出され、砕かれて、道に混ぜられました。あなた様は、そのうちの一つを持ち帰られました」

「だから、なんで」

「砕かれた石は、あと何百かございます。持ち帰られた一つだけが、名を呼ばれずに枕元にございました」


 作法は組める、と鶴は言った。

 石を元の辻に戻し、数馬が人前で、社を潰したこと、石を持ち帰ったことを言う。それで、石の分は解ける。

「言うよ」

 数馬は即答した。

「何回でも言う。人前でも、新聞でもいい。今からでも」

「それでは、まだ足りません」

 数馬の顔が歪んだ。

「なんで!」

 鶴は数馬の前に膝をついた。石段の下の草の上に。

「祟りは、人を選びません」

「選ばないって」

「無かったことにした当人ではなく、その家のいちばん弱いところへ出ます。子ども、年寄り、病人。あなた様のお子さまは、三つでいらっしゃいます」

 数馬が息を呑んだ。

「八朔の家には、六十年ぶんが溜まっております。二十年ぶんは、わたしが押さえておりました。それが外れて、いま順に帰っております」

「じゃあ、太一に来てるのは」

「石の分だけではございません」

 鶴は志乃のほうを見た。

 志乃は鳥居の柱に手をついて立っていた。聞いている。聞いていて、動かない。

「六十年ぶんが、いちばん弱いところへ出ております」

「……六十年」

「はい」

「じゃあ、誰が謝れば」

 鶴は答えなかった。

 答えなくても、数馬はもう知っている。三日前に、この石段で聞いた。


 志乃が鳥居から離れた。

 草を踏んで、鶴の前まで来た。着物の裾が朝露で重くなっている。坂を走ってきたときのままだ。

「鶴さん」

 鶴の背が、わずかに動いた。

 二十年、この人は「あなた」としか言わなかった。八つのときからずっとだ。名を呼ばれたことが一度もない。

 鶴は顔を上げた。

「はい」

「あの子を、助けてちょうだい」

 志乃の声が掠れていた。

「わたくしが何をすればいいの。言って。土でも掘るし、石でも運ぶわ。人前で頭を下げろというなら、下げます。何度でも下げます」

「あなた様が、なさることはございません」

「なぜ」

「あなた様は、八朔の家に嫁いでこられた方でございます。家の名を継いでおられません」

 志乃の口が動いた。

「では、誰が」

「当主様でございます」

 志乃がその場に座り込んだ。

 草の上に、崩れるように座った。数馬が支えようとして、間に合わなかった。

 鶴は動かなかった。

 この人には、息子を人前に立たせることができない。四十年、そうしないために家を回してきた。うちは迷信の家ではない、と外に見せることが、この人の仕事だった。

 その仕事が、いま逆向きに効いている。


 その日の夜、鶴は椿町の門前に立った。

 門の中には入らなかった。塀の外から、呼び鈴を鳴らした。

 出てきたのは、宗一郎だった。

 二十年連れ添った男が、鶴の顔をまともに見た。たぶん、初めてだった。

「なんだ」

 鶴は風呂敷を解いて、写しを差し出した。六十年前の届出と、譲渡の記録と、水道敷設の許可。数馬が蔵から出してきたものを、鶴が書き写した。

 宗一郎は門灯の下でそれを読んだ。

 最後まで読んで、二度目を読んだ。

 それから、紙を折った。

「……そんなことがあったか」

「ございました」

「祖父の代の話だ」

「はい」

「私が生まれる前だ」

「はい。ですから、詫びられるのは、家の名を継がれた方だけでございます」

 宗一郎は紙を持ったまま、しばらく門柱を見ていた。

 鶴は待った。二十年、この人を待つのは慣れている。

「太一が寝込んでいる」

「はい」

「母が、お前のところへ行ったそうだな」

「はい」

「お前、いまどこにいる」

 鶴は少し間を置いた。

「六道ヶ辻でございます」

「六道ヶ辻」

「はい」

「そんなところに、住むところがあるのか」

「ございます」

 宗一郎は、それ以上訊かなかった。

 二十年、この人が鶴の居場所を訊いたことは一度もない。訊かなかったのは、いつも同じ屋根の下にいたからだ。いなくなって五月経って、初めて訊いた。訊いて、答えを聞いて、それで終わった。

 どんなところに住んでいるのかも、何を食べているのかも、続きは来なかった。

 宗一郎が紙を鶴のほうへ返した。

「——それで、いくらだ」

 鶴は紙を受け取った。

 受け取って、風呂敷に包み直した。包み方を、いつもより丁寧にした。

「値はつきません」

 宗一郎の顔が、少しだけ動いた。

 それきりだった。門が閉まった。

 閉まる音を、鶴は最後まで聞いた。

 塀の内側で、志乃が何か叫んでいる。息子の名を呼んでいる。二十年で一度も聞いたことのない出し方だった。

 四月にも一度、同じ声を聞いた。あの晩は、鶴は振り返らなかった。

 今日も、振り返らなかった。

 大祀まで、あと十日。


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