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第25話 詫びの女は、六十年前の証文を読む

 九月に入って、風が変わった。

 朝の草に露が乗る。日中はまだ暑いが、日が落ちるのが早くなった。とめが社の掃除を手伝うようになってから、拝殿の板が黒く光るようになっている。

 鳥居の下に、数馬が立っていた。

 太一を連れていない。鞄も持っていない。代わりに、風呂敷包みを抱えていた。

「義姉さん」

 声が明るくない。

 包みを解くと、紙の束が出てきた。虫が食っている。触ると縁が粉になった。

「蔵の奥にあった。祖父さんの代のやつ」

 数馬は石段に置いた。

「兄さんが持ってると、うちの土地が全部止まる。南の三件、契約が飛んだ。だから、僕が」

 言い訳の形をしていた。鶴は聞き流した。

 紙をめくる。

 年号が古い。開化に改まる前の元号だった。


  六道ヶ辻一帯 地所譲受一件

  湧水埋立ニ関スル届


 鶴の手が止まった。

「主様」

 拝殿の奥から返事はない。だが、板が軋んだ。

 鶴は紙を持って、階を上がった。


 拝殿の板間で、鶴は読み上げた。

 とめが横で聞いている。数馬は上がり口に座って、膝を抱えていた。白は縁の下から出てきて、板の下で伏せている。

「開化に改まる二年前の九月」

 紙は薄い。持つと透ける。

「六道ヶ辻の湧水を埋め立て、その上に居宅を建て、水道敷設の権を得たり」

 鶴は次の行を読んだ。

「施主、八朔 宗右衛門」

 誰も何も言わなかった。

 主様は板間の奥にいた。膝を立てて、そこに顎を載せている。姿勢が変わらない。

「主様」

「なんだ」

「この名に、覚えはございますか」

 間があった。長い。

「ない」

 鶴は紙を膝に置いた。

「一度も、聞かれたことがございませんか」

「ない」

「六十年前に、あなた様を埋めた方でございます」

「そうか」

 主様が首を動かした。屋根の落ちた隙間を見上げる。

「覚えていない」

 鶴は、しばらく言葉が出なかった。

 無かったことにされた側は、無かったことにした相手すら覚えていない。当たり前だった。名が消えるときに、そこに繋がっていたものも一緒に落ちる。

 六十年、この人は誰に飢えているかも知らずに飢えていた。


 鶴は紙を繰った。

 譲渡の記録が三枚。届出の写しが二枚。それから、水道敷設の許可が一枚。

 順に並べると、線が一本通った。

「湧き水を埋めた。祀りが絶えた。呼ぶ者がいなくなった。名が消えた」

 鶴は声に出して確かめた。

「名が消えましたので、何の神様であったかも落ちました。落ちたので、誰も戻せなくなりました」

「義姉さん」

 数馬が膝を抱えたまま言った。

「うち、その水で商売してるってこと?」

「はい」

「水道の権利で、大きくなったんだよね。うちの店も、兄さんの会社も、全部そこから」

「はい」

 数馬が両手で顔を擦った。

「じゃあ、うちが謝れば済むの? 兄さんが。人前で。全部言って」

「済みます」

 鶴は言った。

「六十年ぶんが解けます。八朔の家に帰っている分も、止まります」

「じゃあ」

「ただし」

 鶴は紙をもう一枚めくった。

「宗右衛門様は、十年前にお亡くなりでございます」

 数馬の動きが止まった。

「当人がおられません。ですから、代わりに詫びられるのは、家の名を継がれた方だけでございます」

「……兄さん」

「はい」

 数馬が石段に頭をつけた。座ったまま、膝に額を押しつけた。

「無理だよ」

 声がくぐもった。

「あの人は、人前で頭下げるくらいなら死ぬよ。子どもの頃からそうだ。親父にも祖父さんにも、一度も謝ったことがない。謝るってことを、たぶん習ってない」

 鶴は答えなかった。

 答えられることが、一つもなかった。

 道は一本しかない。一本しかない道の先に、絶対に動かない人がいる。

「義姉さん、他に手はないの」

「ございません」

「たとえば、僕が言うのは」

「効きません。数馬様は、家の名を継いでおられません」

「じゃあ、母さんは」

「同じでございます」

「金は」

「金では代われません」

 数馬が顔を上げた。目が赤い。

「じゃあ、義姉さんが払うのは」

 鶴の手が止まった。

 止まったのを、数馬が見ていた。

「……できるんだ」

「六十年ぶんでございます」

「できるの、できないの」

「二十年ぶんで、この手になりました」

 鶴は自分の指を見せた。爪の下が白い。九月の光の下で、そこだけ色が抜けている。

 数馬が目をそらした。そらして、二度目にはもう見なかった。

「訊かなきゃよかった」

「はい」

「僕、ほんとに、そういうとこある」

 とめが黙って湯を運んできた。数馬の前と、鶴の前に置いた。

 置き方が決まっている。縁の欠けた側が、壁を向いていた。


 夕方、鶴は椿町へ行った。

 門の中には入らなかった。塀の外を、東から西へゆっくり歩いた。

 とめが横についた。四十年この家にいた女は、外から見る歩き方を知らなかったらしく、何度も塀の上を見上げた。

「鶴さま。何をお探しで」

「傾きでございます」

 鶴は地面に手をついた。

 塀に沿って、土がわずかに下がっている。屋敷の敷地のほうへ向かって、水が抜けていく形だった。抜けた先は、屋敷の下だ。

「とめさん。台所の下は、いかがでしたか」

「へえ。台所の下は、昔から妙に冷とうございました。夏でも」

「床下に、湿気は」

「ございません。妙なことに、乾いておりました。冷たいのに、乾いております」

 鶴は手を土から離した。

 冷たくて乾いている。水が下にあって、上がってこない。埋められて、押さえつけられて、六十年、そこにある。

 白が塀に沿って歩き出した。

 東へ、五間ほど。それから立ち止まって、こちらを振り返った。

 いつもの歩き方ではなかった。導くときの歩き方だ。

「白」

 鶴が呼ぶと、白はもう二歩進んだ。進んで、また振り返る。

 その先は、高台の斜面だ。道はない。草と、崩れかけた石垣がある。

 鶴は立ち上がりかけて、やめた。

 日が落ちている。とめが横にいる。今日は帳面を持ってきていない。

「白。今日は、帰ります」

 白は動かなかった。しばらく動かずに、それから戻ってきた。


 社に帰って、鶴は帳面を開いた。

 二十年ぶんの後ろに、六十年ぶんを書き足した。

 湧き水。祀りの絶えた日。祀りが絶えてから、名が消えるまでの年数。名が消えてから、この社が朽ちるまでの年数。埋め立ての届出の日付。土地の譲渡の日付。水道敷設の許可の日付。

 書き足していくと、頁が足りなくなった。

 二冊目の帳面が、二十年でようやく半分だった。それが、一晩で終わった。

 鶴は最後の頁の余白を見た。

 あと二行しかない。

 拝殿の奥で、主様が身じろぎした。

「柊」

「はい」

「その紙は、燃やせ」

「なぜでございましょう」

「私の名が、そこには書いていない」

 鶴は紙の束を見た。

 六十年前の届出に、埋められた水の名は一行も出てこない。地所と、権利と、施主の名前しかない。埋めた側の記録には、埋められた側の名が要らないからだ。

「燃やしません」

 鶴は紙を揃えて、風呂敷に包んだ。

「これは、あの方に読んでいただくものでございます」

 主様は何も言わなかった。

 鶴は帳面の最後の一行に、日付だけを書いた。名前の欄は、二つとも空けたままにした。


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