第24話 女中は、四十年ぶんの帳面を出した
日傘が二つ、坂を上がってきた。
一つは黒い絹で、新しい。もう一つは色が褪せて、骨が一本折れている。
鶴は社の前で草を刈っていた。手を止めて、鎌を置いた。
黒い傘を差しているのは、八朔志乃だった。
古い傘を差しているのは、とめだった。
「……そう」
志乃は鳥居の下で足を止めて、社を見た。
「ずいぶん、みすぼらしいところにいるのね」
「はい」
鶴は膝をついた。石段の下の草の上に、そのまま膝をついた。
「お暑うございます。日陰へお入りくださいませ」
志乃は動かなかった。
日傘の柄を握る手が、細かく震えている。八月の日を浴びているのに、顔に汗がない。汗をかくだけの水が、身体に残っていないように見えた。
「あなた、手紙を読まなかったのね」
「はい」
「なぜ」
「読みますと、順番が狂いますので」
志乃の眉が動いた。
「順番」
「いちばん古いものから、と決めております」
「うちは、二十年前からよ」
「はい。ですが、あの家の分は、詫びる方がお決まりでございます。決まっている方が決めるまで、こちらは動けません」
志乃が日傘を傾けた。
顔が、日陰に入った。
「戻ってきなさい」
志乃が言った。
鶴は答えなかった。
「聞こえた?」
「聞こえております」
「では」
「戻りません」
志乃の手が、日傘の柄で滑った。傘が肩に落ちかけて、とめが支えた。
しばらく、誰も何も言わなかった。蝉が鳴いている。六つの道から鳴いているので、方角が分からない。
志乃が息を吸った。長かった。
「……戻って、くれ」
言い終わってから、志乃は口を半分開けたまま止まった。自分の出した音を、自分で聞き返しているようだった。
それから、頭を下げた。
黒い日傘が地面に落ちた。とめが拾わなかった。
鶴は膝をついたまま、その頭を見た。
「それは、詫びになりません」
志乃の頭が上がった。
「わたくしが、何を詫びるというの」
「存じません」
「わたくしはあなたを養ったのよ。八つのときから。飢えさせたことも、着るものに困らせたこともないわ」
「はい」
「二十年、うちの飯を食べてきたでしょう」
「はい」
鶴は帳面を出した。
開かなかった。開かなくても言える。
「開化元年の神無月、大旦那様が裏の欅を三本、根ごと伐らせました」
「何の話」
「開化三年の五月八日、あなた様が辻の石を三度踏み越えられました。雨の日で、遠回りがお嫌だったと伺っております」
志乃の顔から色が引いた。
「開化五年の三月、大旦那様が池の水を抜かせました。開化六年の八月、旦那様が門前の地蔵をどけさせました。開化七年の正月二日、旦那様が社の縄を」
「やめて」
「開化九年の九月、旦那様が椿を三本」
「やめてと言っているでしょう!」
志乃の声が裏返った。
鶴は口を閉じた。
閉じて、帳面を袂に戻した。
「二十年ぶん、ございます。日付で覚えております」
「なぜ、そんなものを」
「返すためでございます」
鶴は言った。
「ですが、わたしが詫びたのではございません。わたしは、押さえていただけでございます」
志乃が鶴を見た。
「押さえる」
「解けてはおりませんでした。代わりに詫びても、無かったことになさった方の頭の中は、何も変わりませんので。わたしは、足りない分を自分で持っていただけでございます」
鶴は自分の手を見た。爪の下が白い。八月の日の下で、そこだけ乾いて見えた。
「押さえていた者が抜けましたので、古いものから順に外れております。あと十四ございます」
志乃が石段に座り込んだ。
座り込んで、両手で顔を覆った。覆ったまま、動かなかった。
この人は信じている、と鶴は思った。信じていない者は、こうはならない。二十年、この人だけが、鶴のしていることの意味を知っていた。知っていて、一度も礼を言わなかった。
とめが風呂敷を解いたのは、そのあとだった。
中から出てきたのは、帳面だった。
厚い。表紙が四枚重ねてあって、それぞれ違う布で継いである。四十年ぶんを、継ぎ足しながら使ったらしい。
「へえ」
とめが言った。
鶴が、この人の声を聞いたのは二十年で三度目だった。
「あたしは、字が下手でございますが」
とめは帳面を開いた。開いて、指で行を追った。
「開化三年、五月八日。奥様、裏で三刻。手が白うなっておいででした」
志乃が顔を上げた。
「開化七年、正月二日。奥様、雪の中で膝をついておいででした。誰にも申し上げず。旦那様は、お気づきになりません」
「とめ」
「開化十一年、八月十四日。奥様、井戸端で。数馬様がお捨てになったものを、奥様が拾って洗って、また置いておいででした」
「とめ、やめなさい」
とめは頁をめくった。
「開化十二年、四月三日。奥様、裏庭で。椿の切り株の前で。半刻」
めくる手が止まった。
「その日が、最後でございます」
志乃が立ち上がろうとして、立てなかった。
とめが志乃のほうを向いた。
「大奥様」
四十年、この家に仕えた女中が言った。
「あたしは、四十年、この目で見ておりました」
志乃が何か言おうとして、口が動かなかった。
「それと、もうひとつ」
とめは帳面を閉じずに持ったまま言った。
「鶴さまを、なぜお引き取りになったか。あたしは、大旦那様が仰るのを聞いております」
鶴は動かなかった。
「二十年前の春でございます。お玄関で、大旦那様が旦那様に仰いました」
とめは、そのときの声を真似なかった。真似ずに、そのまま言った。
「——詫び代の子だ。使える、と」
蝉が鳴いていた。
鶴は膝をついたまま、その言葉を並べ直してみた。
詫び代の子だ。使える。
二十年、情けをかけていただいたと言ってきた。言うたびに誰も否定しなかったので、そういうものだと思っていた。
否定しなかったのは、否定する必要がなかったからだ。
鶴の目の前に、蟻が二匹いた。草の茎を上っていく。
「……そうでございましたか」
自分の声が、平らだった。平らすぎた。
久瀬が息を呑む音がした。いつのまにか、鳥居の下に来ていた。
志乃が鶴を見ていた。何か言おうとして、言えずにいる。
鶴は立ち上がった。
「志乃さま」
「なに」
「戻りません」
「それは、さっき聞いたわ」
「はい。ですが、理由が変わりました」
鶴は頭を下げた。
「詫びるのは、あなた様方でございます。わたしではありません」
志乃はとめに支えられて立った。日傘は落ちたままだった。
坂を下りかけて、鶴が声をかけた。
「志乃さま」
「なに」
「では、六十年前のことも、あなた様はご存じないのですね」
志乃が止まった。
振り返らなかった。振り返らずに、そのまま立っていた。
答えなかった。
とめが、志乃に付き添わずにその場に残った。
「鶴さま」
「はい」
「あたしは、今日でお暇をいただきました」




