第23話 詫びの女は、縄の外から読む
縄が張ってあった。
路地の入口に、杭を二本打って、麻縄を渡してある。その内側に巡査が二人立っていた。
一人は、久瀬だった。
「柊さん」
久瀬が帽子の庇に手をやった。やってから、下ろした。
「その、通達が出まして」
「はい」
「民間人の、現場立入を禁ずると」
「承知しました」
鶴は縄の前で足を止めた。それ以上、進まなかった。
もう一人の巡査が、こちらを見ている。年上だ。久瀬より階級が上らしい。
路地の奥から、子どもの泣き声がした。
一人ではない。二人か、三人か。声が重なっていて数えられない。
案件は、古井戸だった。
三月前に埋め戻された井戸のそばで、長屋の子どもが四人、同じ日に高い熱を出した。四人とも五つ以下。うち一人が、昨夜から痙攣を起こしている。
久瀬が縄の内側から、綴りを読み上げた。
「井戸は、去年の暮れに埋めました。埋めたのは地主です。名前は」
「久瀬様」
「はい」
「その方は、いまどちらに」
「奥の家にいます。縄の、内側です」
鶴は縄を見た。
麻縄が一本、腰の高さに渡してあるだけだ。跨げば入れる。跨げば、久瀬が職を失う。
鶴は縄の前にしゃがんだ。
地面に手を当てる。乾き方を見る。締まり方を見る。井戸のあった場所は、路地の三分の一のところで、そこから水の抜けた線が長屋の下を通っていた。
「久瀬様。埋めるとき、何を落としましたか」
「え」
「井戸を埋めるときは、埋める前に中のものを上げます。釣瓶か、桶か、石の縁か。上げずに埋めたものがあるはずでございます」
「訊いてきます」
久瀬が奥へ走った。
戻ってきて、縄の内側から言った。
「釣瓶を、そのまま落として埋めたそうです。古くて使えないので、上げるのが面倒だったと」
「他には」
「他には、と言いますと」
「井戸の縁に、名が彫ってございませんでしたか」
久瀬がまた走った。今度は長かった。
戻ってきたときには、日が傾いていた。
「彫ってありました。掘った人の名だそうです。四十年前に、村の者が三人がかりで掘って、縁石に三人の名を彫ったと。地主のお祖父さんが、その一人だと」
鶴は目を閉じた。
開けて、久瀬を見た。
「その石は」
「一緒に埋めたそうです」
返す形は組める。石を掘り出し、名を読み、三人の名を人前で呼び直し、地主が言う。それだけだ。
できない。
鶴は縄の外にいる。
「久瀬様。地主様を、こちらへお呼びいただけますか」
「呼びました。……来ないそうです」
「なぜでございましょう」
「掘り返すと、井戸の埋め立てが違法だったことが分かるからです。届出を出していません」
鶴は縄を握った。
握ってから、離した。
夕方、痙攣が二度目に来た。
母親が路地を走った。走って、縄のところで止まって、鶴を見た。
「あんたが、詫びの女かい」
「はい」
「入ってくれよ」
「入れません」
「なんでだよ」
母親が縄を掴んだ。掴んで、揺すった。杭が抜けかけた。
年上の巡査が制止した。母親は振り払って、また揺すった。
鶴は縄の外で膝をついた。
「奥様」
「なんだよ」
「井戸を埋めた地主様に、こう伝えてくださいませ。石を掘り出すのに、届出の話は要りません。掘り出して、彫ってある三つのお名前を、皆さまの前で読み上げていただくだけでございます」
「それで治るのか」
「治りません」
母親の顔が歪んだ。
「治すのは、地主様でございます。読み上げたあとで、地主様が、いつ、何をなさったかをおっしゃれば」
母親が走って戻った。
半刻して、戻ってきた。
「来ないってさ」
母親は縄の前に座り込んだ。
「うちらのことなんか、どうでもいいんだ」
鶴は動かなかった。
二十年、こういう場所に立ってきた。加害者が拒めば、それで終わる。押しても引いても、当人が口を開かなければ何も起きない。
鶴には権限がない。制度もない。持っているのは、順番のつけ方だけだ。
久瀬が縄を外したのは、日が落ちてからだった。
杭ごと抜いて、脇へ置いた。年上の巡査が声を上げた。
「久瀬、何をしている」
「通します」
「通達が出ている」
「通します」
巡査が久瀬の腕を掴んだ。久瀬が振り払った。
その声が、路地じゅうに響いた。
「子どもが四人いるんだぞ!」
鶴が久瀬の声を聞いたのは、それが初めてだった。
いつも「その、」と言い淀む男が、路地の端から端まで届く声を出していた。
石は、半刻で掘り出せた。
地主は最後まで出てこなかった。代わりに出てきたのは、地主の弟だった。四十過ぎで、井戸を掘った三人のうちの一人の孫にあたる。
石の名を読み上げたのは、その弟だった。
三つの名を読んで、地主が届出を出さずに埋めたことを、路地の全員の前で言った。
「兄の代わりに言います。これで足りるかは、知りません」
鶴は答えなかった。答えられなかった。
家の名を継いでいるのは兄だ。弟では、条件を満たさない。
それでも、掘り出した石は地面に据えられた。名は読み上げられた。人は見ていた。
痙攣は、その晩のうちに止まった。三人は熱が下がった。
一人だけ、下がらなかった。
夜半、その子が息を引き取った。
いちばん小さい子だった。三つになったばかりで、痙攣が始まったのがいちばん遅く、下がるのがいちばん遅かった。
鶴は路地の端に立っていた。母親の泣く声を、最後まで聞いた。
久瀬が横に立って、動かなかった。処分の話も、辞める話も、まだ出ていない時刻だった。
「柊さん」
「はい」
「半刻、早ければ」
「はい」
「半刻早く、自分が縄を外していれば」
鶴は答えなかった。
答えられることが、一つもなかった。
半刻早ければ助かったのか、半刻では足りなかったのか、それを判じられるのは受け取る側だけだ。受け取る側は、路地にはいない。
久瀬が両手で顔を擦った。二度擦って、三度目の途中で止めて、そのまま手を下ろした。
「自分、明日、上に何て言えばいいんですか」
「本当のことを」
「怒られます」
「はい」
帳面を出して、日付を書き、名前を四つ書いた。
三つは、返った者の欄に。
一つは、行の端に。
これで、閉じられなかった行が五つになった。
警邏局の裏手で、久瀬が処分を言い渡された。
減俸三月と、担当替え。書類は明日出るという。
久瀬は物置の壁にもたれて、帽子を両手で持っていた。持って、それを鶴のほうへ差し出すように動かした。
「自分は、辞めます」
「なりません」
「命令を破りました」
「なりません」
鶴は久瀬の前に立った。
「久瀬様が中においでにならなければ、わたしは何も知れません」
「でも」
「破られたことは、破られたことでございます」
鶴は言った。
「ですから、順に、まいりましょう。いつ、どなたが、何をなさったのか。皆さまの前で」
久瀬が顔を上げた。
笑いかけて、口の端が引きつった。
「……それ、自分にも使うんですか」
「使います」
鶴は頭を下げた。
「誰にでも、同じでございます」




