第30話 澪
六道ヶ辻に、人がいた。
六つの道が交わる辻に、六十年ぶりに人が集まっている。
老人が十一人。巡査が一人。開化局の参事官が一人。実業家の弟が一人。四十年勤めた女中が一人。それから、坂の途中で息を切らしている、八朔志乃。
当主だけが、いない。
鶴は鳥居の下に立った。泥を落とした着物に着替えている。手の甲まで洗った。爪の下は白いままだった。
「順に、まいりましょう」
鶴は言った。
「いちばん古いものからでございます」
いちばん古いのは六十年前だ。つまり、最初に立つべき者がいない。
誰も動かなかった。動けなかった。
動いたのは、洋装の男だった。
「順が違うことは、承知しています」
綾瀬圭一郎が、辻の真ん中へ出た。上着を脱いで、久瀬に渡した。
「ですが私は、三年、数えていませんでした。先に済ませます」
綾瀬は懐から紙を出した。昨日調べてきたものだ。
「開化九年八月十四日。京橋の足場が落ちて、一人死にました。私が工期短縮を通したためです。足場の組み方が省かれていました。私はそれを本人の不注意として処理し、報告書を書き直させ、綴りを机の引き出しに入れました。三年です」
声は変わらない。数字を読むときの声だった。
「弔慰金は出ていません」
紙を畳んだ。
「岡 甚一。妻の名は、はつ。子は二人。上が七つ、下が四つ」
膝をついた。砂利の上に、洋袴のまま。
頭を下げた。
顔を上げて、立ち上がって、それから鶴のほうを向いた。
「社寺祠堂整理は、撤回します。四百八十件、全件を再査定します。私が現場を全部見ます」
誰も拍手をしなかった。しないのが正しかった。
とめが坂を下りていったのは、そのあとだった。
日傘も差さずに、六十七の女がまた坂を降りた。
戻ってきたのは、半刻後だった。
後ろに、八朔宗一郎がいた。
紋付ではない。ただの背広で、髪も整えていない。門から出たままの姿だった。
鶴は説明を求めなかった。とめも言わなかった。
言ったのは、とめが手に持っていた帳面だった。四十年ぶんの、四枚重ねの表紙の。
とめは辻の真ん中で、それを開いた。
「四十年前でございます」
頁は、いちばん最初のほうだった。
「若旦那さま、六つ。井戸の水が冷たいと仰って、毎朝ご自分で汲んでおいででした」
宗一郎が動かなかった。
「桶が重いので、半分こぼしておいででした。それでも、女中には持たせませんでした」
とめは帳面を閉じた。
それだけだった。それ以上は何も言わなかった。
宗一郎が辻の真ん中に立った。
十一人の老人と、弟と、母と、二十年連れ添った女の前に立った。
「私の祖父が、その」
言いかけた。
「それは、詫びになりません」
鶴が言った。
「何を、いつ、どうなさったのか。あなた様のお口から」
宗一郎の顎が動いた。二度動いて、三度目に声が出た。
「開化に改まる二年前の九月」
紙は持っていない。覚えてきたらしい。
「私の祖父、八朔宗右衛門が、この辻の湧き水を埋めました。その上に家を建て、水道を敷き、権利を得ました。その金で、父が育ち、私が育ちました」
声が、途中から低くなった。
「祀りを絶やしたのは、八朔の家です」
膝をついた。
背広のまま、砂利に手をついた。額が地面についた。
「すまなかった」
誰も何も言わなかった。
志乃が坂の途中に座り込んで、口を押さえている。
数馬が続いて出てきた。
「僕も。僕が、辻の石を砕かせました。一つ持って帰って、息子の枕元に置きました。合理的だと思ってました」
頭を下げた。
志乃が最後に出てきた。名指しできる分だけ、日付で言った。開化三年の五月八日から、順に。全部は言えなかった。言えたところまで言って、頭を下げた。
坂の下から、走ってくる者があった。
数馬の家の女中だった。息が切れて、三度言い直してから、ようやく言葉になった。
「太一坊ちゃんが、お目を覚まされました」
鶴は老人たちを、暗渠の口へ導いた。
石垣の隙間を通るのに、十一人は難儀した。久瀬と数馬が一人ずつ支えた。杖を持った老人は、途中で杖を捨てた。
水盤は、昨夜のままそこにあった。
鶴は皆を石の周りに立たせた。
「ここに器を置いていらしたのは、どなたでございますか」
誰も答えなかった。
答えないまま、一人が泥に手をついた。窪みを探している。
「これだ」
老女が言った。
「これが、うちのだ。ここに、こう置いてた」
「わしのはこっちだ。もっと端だ」
「あんた、そんな端まで届かんかったろう」
「届いた。父ちゃんに抱えられて」
十一人が、それぞれの窪みを見つけた。最後の一つが、いちばん浅かった。いちばん背の低かった者の分だった。
「では」
鶴は言った。
「そのときに、なんとお呼びしておりましたか」
沈黙が長かった。
誰も出てこない。皆、水盤の縁の文字を見ている。彫ってあるのは分かる。読めない。
最初に音を出したのは、いちばん年嵩の老女だった。
自分の窪みに手を置いて、そこへ額を近づけて、口が勝手に動いた。
「……水無瀬さま」
二人目が続いた。
「水無瀬さま」
三人目。四人目。
十一人が、暗渠の中で、声に出して呼んだ。
水盤の縁の二文字が、そこで結んだ。
鶴の目に、初めてそれが読めた。
外へ出ると、主様が立っていた。
輪郭が滲んでいない。
素足が砂利を踏んで、音がした。五月のあいだ、この人が歩くのに音がしたことは一度もなかった。
「……水無瀬」
彼が言った。自分の口で、自分の名を言った。
「そうだ。私は、水無瀬という」
十一人が、その姿を見た。見えていた。全員に見えていた。
とめが帳面を開いたのは、そのときだった。
「鶴さま」
「はい」
「あたしは、二十年前の四月も書いております」
とめが指で行を追った。
「柊の奥さまが、お嬢さまを連れておいででした。玄関で、お嬢さまのことを、こうお呼びでした」
とめが読んだ。
「——澪さま、と」
鶴の手が、袂の帳面のところで止まった。
老人たちが、こちらを向いた。誰に言われるでもなく、一人が口にした。
「澪」
「澪さん」
十一の声が、辻の上で重なった。
だが、最後に鶴の前に立ったのは、素足の男だった。
彼が手を伸ばした。今度は止まらなかった。掌が鶴の手に触れて、そこから何も抜けていかなかった。
「澪」
鶴は答えられなかった。
答える代わりに、その手を握った。
日が傾くころ、人が引けていった。
老人たちは器を置いて帰った。十一人ぶんの器が、水盤の窪みに収まっている。
久瀬は敬礼をして帰った。辞めなかった。減俸三月が明けたら、また綴りを持ってくると言った。
綾瀬は洋靴で砂利を鳴らして帰った。帰り際、鳥居の傾きを直す職人を寄越すと言った。
宗一郎は、志乃と数馬に支えられて坂を降りた。振り返らなかった。振り返らないほうが、この人には楽なのだろうと鶴は思った。
とめは残った。火の番をすると言って、社の裏で薪を割っている。
白は水盤のそばに伏せたきり、動かない。それでいいらしかった。
「大祀までだったな」
水無瀬が言った。
「はい。本日でございます」
「そうか」
長い間があった。この人の間は、いつも長い。
「お前でなければならない」
鶴は答えなかった。
答えなかったが、手を離さなかった。
指先は白いままだった。握っても色は戻らない。七月に落とした約束も、戻ってこない。久瀬が手帳に書き直したものが何だったか、鶴はいまも思い出せない。
「三日だ」
「はい」
「爪の下の白いのが、昨日より三日ぶん薄い」
鶴は自分の手を見た。分からなかった。
分からなかったが、この人が数えているのだと分かった。
鶴は帳面を出した。
最後の頁を開く。あと二行あった余白の、上の一行に、線を引いて消した字がある。
その下の、最後の一行に、書いた。
九月十五日 八朔宗一郎 六十年前 湧き水 返済済
書いてから、名前の欄をもう一つ増やした。
増やした欄に、二文字書いた。
書いた字を、しばらく見た。目を離しても、抜けなかった。
鶴は帳面を閉じた。




