第五話 「谷に潜む者」
1
それは谷の底に差しかかった時だった。
底に近づくにつれ、辺りには冷気が色濃くなる。肌寒く、私自身の寒さに対しての心もとないぼろ服と合わさり絶え間ない冷たさに襲われる。ガタガタと体に震えが走る。自らの体を抱きながら歩いて行く。
次には辺りの大気がパキパキと音を出して震え始める。依然として、灰を辿る集中は途切れる事無く続いている。いや、気持ちで繋ぎ合わせていると言った方が良い。でも、いつ途切れるか分からない。きっと時間の問題だろう。擦り切れる足の痛みは段々と無視が出来ないものとなっていた。
魔女様はもちろん、常に気遣ってくれる。けれど視界が悪い。きっと後ろを歩く私ですらあまりよくは見えない。私もまた辿るのに精一杯なのと、自らの状態を伝える勇気が出せずに先延ばしにしていた。無理なら無理だとちゃんと言う。それは分かっているのだ。
けれど、それが出来たら苦労していない。無理なものは無理なのだ。弱くて、自分の意思を伝えるのは全く難しい。
身がやられてくると、今度は気持ちが参って来る。眠気も襲い、衰弱する私。
(このまま進み続けて大丈夫だろうか)
次にはそんな弱音が芽生えて来た。人間、誰しも窮地に立たされればこうなってしまう。人は魔女と違い、完璧な存在ではないのだから。しかし、これは魔女様のせいではない。魔女様はここまで来る過程で何度も私の身を案じてくれた。それなのに、それを断り続けた私の責任だ。
私とて意地がある。
ここまで来て、折れる訳には・・・いかない。
朦朧とした意識の中、その一心。私を繋ぎ止めているのはそうした責任感。その責任感が私を後に引けなくする。だから、気持ちで繋ぎ止める。ただでさえ披露している体に更に鞭を打つ。呼吸が荒くなってきた。肺に冷たい空気が染みる。思考がまとまらず、頭がぼっーとする。手足がかじかむ。
そんな大小様々な異常が重なり合い、やがて溜まった疲労は体に蓄積。体を引きずりながら、付いていく。ずりずりと暗闇の中で私が体を引きずる音が響く。
ずり、ずり、ずりとその音が歩く程続き、やがて、前が見えなくなる。視界が薄れ、意識が薄れ、立ち眩みが襲う。
(いや、もう限界だ。私の旅はここで終わるかもしれない)
ここで力尽きて、魔女様は霧に呑まれた私に気づかずに先へ進んで。
それも良いかも。
そんな時、前を行く魔女様から「止まって」と声がかかった。
手を横に制し、静止の合図。
しかし、判断力の鈍った私がたまらず、急に立ち止まった魔女様にぶつかる。
「ドン」という音をさせて無様に尻餅をつく間抜けな私。けれど、その一瞬の判断ミスが最悪の事象を引き起こす。
尻餅をついた衝撃から目を閉じた。そして、その瞬間、私の真上を大きな何かが通り過ぎる。霧に包まれて何かは判然としない。けれど、確かに何者かがいた。黒い大きな何かが、有り得ない程機敏に通り過ぎたような気が、する。視界の端に映ったもの。釈然としない私。次に目を開いた時、目の前を歩いていた魔女様が真っ二つに切られていた。腰を境に奇麗に。私の視界で奇麗にストンと崩れ落ちていく。
まさか? 一瞬で?
困惑。突然の事で何が何だか分からない。
視覚から飛び込んでくる情報を処理出来ない。否、理解しようとしない。あまりの事で涙は出ない。けれど、魔女様の残された半身達が「ドサリ」と私の横に倒れた。その音を聞き届けてなお私は呆然としているだけだった。悲鳴も涙も上げる間もなく。やがて血が流れて、魔女様の半身の真下にいる私の服に滲む。未だ、私は立ちあがれずに。とりあえず、
「魔女様。魔女様。」と何度か上半身の方へ呼びかける。それが正しいのかも知らず。当たり前だが、返事はない。呼吸もない。
それはそうだ。生きている訳が無いのだ。幾ら魔女だってこんな状態になれば生きていられる訳がない。
それは分かっているが、私のエラー後、フリーズを起こした脳では受け入れられなかった。でもそれでも私はゆすり続ける。
「嘘、ですよね」
そう、これは全て夢。弱気な私が生み出した幻。
なんて淡い期待抱いた後、砕かれながら。すると、黒い何かがもう一度、迫る気配がする。はっきりと近づく。恐らくそれは魔女様の体を切った後、立ち止まり、また向かってきたのだろう。
そして、振り返った時にはもう私の目の前で。視界に捉えた、その大きな口にある牙が霧の中でキラリと煌めいて。今にも届こうと。
牙を突き立てられそうになる直前、私の頭はなぜか恐怖や不安よりも一つの仮説を建てていた。それを恐ろしく冷静に分析。
(もしや、この黒い物体は音に反応しているのではないか、と)
だから、音を立てている私の方へ向かっているのではないか、と。
こいつは恐らく、目が見えていない。いや、犬(犬は一般的に目を信用せず、その嗅覚や音を信頼しているそう)のように当てにしていないと思う。
だって、この体格は、私が今見上げているこの風貌は獣、だ。
その存在を認知、やっとこ判別できた私はそのおぞましさに「こひゅ」と思わず息を呑む。
その黒い影の正体が分かった所で私にはどうする事も出来ないけれど。動かない体はなおも動く事はないけれど。
でも、その中で一人が動いた。それは何か。
地面にうつ伏せになった魔女様の上半身だ。動くはずのないそれが動き、そしてその手を固く握ったかと思えば信じられない程の衝撃を持って地面を叩いた。地面が砕け、下へ。いや、底へ。
(良かった。生きていたのですね)
これで心置きなく、というか心残りが消える。
そう安堵する私の目の前では地面が崩れる。二人は落ちていく。
私は目の前の暗闇に手を伸ばして、
(けれど、私はどうやらここまでのようです)
目を瞑った。
これが私の相応しい最後。
向かう先は谷の底。では、その先に待つのは絶望。
(ああ、魔女様、ごめんなさい。もし落下した先で、私が亡くなったらその場に捨て置いて魔女様は一人で先に進んでください)
元より最後まで付き添えるとは思っていない。だって付いて来たのは私の我儘だ。
いつでも死は覚悟している。それに、これはどう考えても私のミス。それによって引き起こされたもの。疑いようのない事実。取返しが付かなければ、私には責任もとれない。
ならば、せめて。
(落ちた先で私を見捨ててください)
無様な肉塊となった私をどうぞ。
私はここで死ぬ運命だったと、どうかそう割り切って先へ進んでください。
そんな幸いな結果を望みながら、私は目を閉じた。衝撃に備える。私の旅はここで終わる・・・はずだった。
2
魔女様が一体何に襲われたのか。未だはっきりとはせず奈落の底に落ちて暗闇に包まれた私達。しかし、一度絶望に立たされるとその先に待ち受けるもの。それは更なる絶望に決まっている。それは私の人生でも、この希望のない世界でもいつもそうだった。
目が覚めると土埃の匂い。パラパラと崩れてくる砂の破片。コホコホと咳き込む。上を見上げても真っ白で何も見えず、途方に暮れる。崖の底には月明りも差し込まない。手を彷徨わせても何も掴めない。いや、例え、明かりが差し込んでもこの霧では反射して何も見えない。
崖底に落ちた私がなぜ生きているのか。
それは魔女様が身を挺して守ってくれたからだ。何から何まで魔女様のお陰。私の体は魔女様の御身によって抱きかかえられていた。その体は私が意識を失う前に切られていたのが嘘のようにぴったりとくっついていた。その体に触れると華奢で私ぐらいには細い体。私と対称的な真っ白な髪。サラサラとした長髪。思わず「魔女様」と呼びかけたくなってしまう。暗闇の中で私の声が反響する。その響きを聞くと、生きていると実感して。
けれど、肝心の魔女様は私に覆いかぶさったままピクリとも動かない。先程から呼びかけても返事がない。そして、抱き上げた手にヌルっとした感触が伝う。普段は触れても冷たい魔女様に似つかないもの。
(これは何だ?)
「まさか」と最悪のケースが頭を過ぎる。考えもしなかったというよりかは魔女様に限ってそんな事はあるわけないと思っていたから。だってあの魔女様だ。どんな困難を前にしても変わる事無く進んでいく頼りになる背中。私を導いてくれる灰の道。しかし、今はどうだろう。灰は現れる事無く二人、真っ白で何もない空間に包まれている。ここから導き出される答え。明確だった。受け入れたくはなかった。
未だ慣れない眼を最大限開く。状況は把握できない。けれど、焦りと冷や汗が止まらない。頭にノイズが走る。煩い煩い煩い。その内に目が慣れる。付着していたのは血。それもべったりと。もう疑いようはないくらい。それらは床にピチャっと血だまりが出来るほどで地面に流れていく。
「嘘! 嘘だと言ってよ」
なんで、こんな私を何度も守って。
そう叫んでは涙が流れる。街にいた時の憐れな少女になり果てみっともなく泣く。谷底に落ちた私達。そこに待ち受けていたのは悪夢。私の悲鳴にならない声と嗚咽が響く。
(私のせいで、魔女様が死んだ)
そして、私がなぜ生きている。
唯一の心の支えが、憧れはもういない。そうだ。魔女様は私の憧れ、救世主で、思慕の対象だったのだ。今になって知った。けれど、手に伝わる冷たい感触は。
ああ、私は明日から何のために生きれば良いのだろう。事実は私に重くのしかかる。けれど、未知は待ってくれない。追い打ちをかけるように絶え間なくやって来る。路頭に迷い、立ち止まれなかった。
(まだ諦めたくない!)
絶望の淵だとしても運命に諦めたくなかった。抗いたかった。例え、希望の火が消えたとしてもまだ終わりたくない。この気持ちを抱えたまま終わりたくない。報われるとまではいかなくても灰のように朽ちたくはない。
それに、まだ死んだと決まったわけではない。魔女というのは未知だ。死んだと決めるには早計。それに、
あの魔女様が死ぬ?
それこそありえない。
そうだ。冷えた頭で今一度、思い返す。その体は真っ二つにされても生きていたのだ。ならば、意識を失っているだけかもしれない。
(ならば、今度は私が)
とにかく、行動して最善を尽くす。
嘆いたってどうしようもない。まだ諦めるタイミングではない。
魔女様を背負ったまま、ズリズリと這うようにして前に進む。
谷には死臭が満ちている。鼻にツンとした腐敗した臭い。空気はどこか生ぬるい。私の体に纏わりつくように。
とその時、私は何かに触れた。それは人の手だった。その手が伸びる先を見れば本体。けれど、それはどろどろに、けていた。どろどろに溶けた肌。もう、それは人と呼べるのかも怪しい。最早、異形に近い。けれど、それは人だというのが分かる。肌は爛れ、体はドロドロに溶けているのに眼球等の最低限の原型はある。それが余計に気味悪かった。それらはまるで進む私を面白がるように笑っているようだった。
「お前もこうなるぞ」と言うかのように見える。
でも、そんなのは嫌だ。この先人達のようにはいかない。私も魔女様も最後まで一生懸命、生きる。この世界には負けない。それが、それが私のたった一つの望み。
だから、越えていく。貴方の死体を踏みつぶしてでも、先へ。
すると、突然私の足が誰かに捕まれた。後ろをゆっくりと振り返れば何者かがいた。それが、私の足をがっちりと掴む。逃さないようギリギリと掴まれる。骨が軋む。
掴んでくる存在は人。いや、
「化け物。いや、こっちに来ないで」
ありきたりな台詞を吐く私。私が見た者。それは沢山の人の顔が付いていた。それらは溶け合い一つに融合している。そして、それは私の傍に一歩、一歩と這いよってくる。私は動けない。ニタニタと下卑た笑みを浮かべる。
「ひっ」
突如として目の前に表れた人ならざる者。谷の未知。
暴れたかった。でも、未知の存在を前にして情けない声を上げる事しかできない。人は弱い。次に股下に温かい感触。恐怖で失禁。汚い私はどうやら下半身もだらしないらしい。それとも、散々、使われていたから緩いのかもしれない。
さらに魔女様を汚してしまったという罪悪感。それに苛まれる。いや、むしろそれが一番強かったかもしれない。未知は私が漏らした物を見ては笑っている。
歯をカチャカチャと鳴らし、新しいおもちゃを見つけた子供みたいに。
頭がどうにかなりそう。心の加重で気が狂いそう。出来ればこれは全て夢であってほしい。夢ならば、私が気絶してしあえば目覚めるはず。
そうすればいつも私の前を歩く凛とした姿の魔女様もいるかもしれない。ああ、この人たちはどんな風に生きていたかは知らない。けれどこんな風にドロドロに一つに溶け合って幸せなのかもしれない。その中の一人と目が合った。
捕食される。本能で感じ取った。
「いやっ。止めて」
私と魔女様を汚さないで。
嫌だ。怖い。死にたくない。街で過ごしていた時は、いつでも死んでも良いと思っていた。
けれどそれは嘘だ。だって、死を本当に前にした今はこんなにも死にたくないと思っている。死んだら目の前が暗くなるだけだ。自我を、意志を、失うだけだ。ただそれだけだ。
とその時、魔女様が素早く身を起こし、目の前の異形の頭の一つを掴む。そして、灰にした。異形のようなモノが「ギャアアア」と汚い悲鳴を出して逃げて行った。その顔は断末魔までまんま人間が苦しんでいる時と同じ顔をしていて気味が悪かった。
いや、それよりも・・・。魔女様が生きていた。
「魔女様!」
ああ、生きていたのですね。呼びかけて抱き締めたかった。けれど、体は限界を迎えてしまって動かない。その場に倒れ伏したまま立ち上がった魔女様を見つめる。そこにはいつもの魔女様がいた。傷も溢れ出る血もなく毅然とした様子の魔女様が。
「大丈夫。それは幻。だから、落ち着いて」
魔女様の声が聞こえる。這いつくばった私に近づき、静かにするようにと口に人差し指を当てていた。
(良かった! 本当に良かった!)
それ以外に言葉が見つからない。
「さっき、私の体に触れたよね。その、くすぐったかった、よ」
さっき? ああ、私が先に目覚めた時か。でも、今更?
泉では自ら、私の手をとって触れさせていたというのに。
なぜか、そんな事をもじもじと恥ずかしそうに報告する。
(それより、起きていたなら言って欲しい)
沢山、心配してしまった。いや、言わなかったのは私も同じか。どう思われるか分からなくて「限界だ」と言えなかった私も。
「偉いね。よく頑張ったね」
そう言って頭を撫でてくれる。ああ、おかえり、魔女様。私の憧れ。その姿を見て目からまた雫が。今日の私は本当に泣き虫だ。
「あとは私に任せていいよ。だから今はゆっくりと休んで」
そのまま抱き起されて魔女様の背中に背負われる。頼もしい背中が目の前に一杯になる。負ぶわれ、安心を覚える。その安心感からか、疲労していた私は今度こそ、意識を手放した。
3
「本当によく頑張ったね」
改めてもう一度、声を掛けた。でも、聞こえていない。私の背で子供のようにスヤスヤと眠るリリー。どうやら相当、疲れていたらしい。霧の中で緊張の糸が切れたかのような寝息が聞こえてくる。
(さて、ここからどうしようか)
霧は濃く視界が悪い。谷の底に来たのは良い。元々、そこが目的地だったから。ただ、落ちたのは予想外だ。
「これじゃどこか分からない」
一人、呟く。
私が今、どこを歩いているのか。谷に続く道を降りていれば、順路で降りる事が出来た。しかし、これではどこに進めばよいのか全く検討が付かない。降り積もる灰も途切れている。何を頼りに進めば良いのやら。
この世界に来てから初めて立たされた窮地。
(でも、迷う必要はないか)
このまま進み続ければいつか出ることが出来るだろう。そんな楽観に包まれる。まぁ、なるようになるとだけ。物事に対してそんなに深く考えるタイプでもない私らしい。何も心配などない。
辺りに漂う霧は奥に進むにつれて一層濃くなる。先程から感じていたが、この霧はとてもきな臭い。そう、これは。よく嗅いでいるニオイ。私の灰から発せられる物と同じ。何故か既視感がある。上を見ても、夜空は見えずこの谷底には月明かりがとどいている様子もない。あるのは一面の霧。ホワイトアウトを起こしたかのような状態の視界。
状況を冷静に分析していく。それに、先程、リリーを襲った異形の存在。あれは人だ。それも何者かによって死ぬことすら出来ず放置された者達の。彼らは溶け合い、そして融合してなんとか生き延びていた。
普通だったら有り得ない事象。でも、この世界、この終末世界だったら。そして、そんな芸当を為しえるのは。そんな人の命を弄ぶかのような行為を行う悪趣味な者。それは恐らく。
(とりあえず、霧の濃い方へ行ってみようか)
私の後に続く灰は再び機能し始めた。降り積もっては、サラサラと広がっていく。
しばらく歩くと辺りにはドシン、ドシンという足音のような振動が響く。前方から何か巨大な物が近づいて来ている。音だけで推測するに体長はかなり大きそうだった。リリーを起こさないように壁に身を潜め、息を殺す。視界が悪いのを見越して壁伝いに歩いていたのが僥倖だった。そのお陰でイレギュラーに見舞われてもすぐに対処する事が出来た。それは通り過ぎていく。巨大な影を私の軌跡(灰)を踏みつぶして。こちらに気づく様子はない。
(ああ、やっぱり)
推論は確信に変わる。霧の中で私と同じ赤い瞳が二つ。ゆらゆらと揺れる。まるで人の返り血を浴びたかのような色。これは魔女だ。谷の底で異形と成り生き延びていたのだ。
(ああ、あれを相手にするのは少し骨が折れるなぁ)
どうしようかと思考を巡らせながら岩陰から見送った。この谷をどう抜けようか考える事は山積みだ。けれど、行動を起こすにも、
(とりあえずリリーが目覚めてからかな)
事を起こすのは。
リリーを背負いながらだと流石に動けない。それにリリーを人質代わりに獲られても困る。落ちぶれた身にそんな知能はないのかもしれないが念には念を。この世界に来て初めての魔女との遭遇、もしかすれば戦闘。いわば先達の相手をとる訳だ。相手は経験が違う。準備を怠るべきではない。それをしかと胸に刻み。
もちろん、逃げても良い。いや、むしろそれが一番良い選択なのだ。
(けれど、さっきのやり返しをしようか)
と。私は意外と根に持つタイプなのだ。
4
目を開けると、魔女様の奇麗な顔が私の目の前に広がっていた。驚く私。慌てて周りを見やる。
「良く休んでいたね」
次いで、声を掛けられ髪を梳かされる。それも真上から。薄く微笑を浮かべる魔女様。
「ご、ごめんなさい」
膝枕。
少し眠るどころか魔女様のお手を煩わせてしまった。申し訳なさやら恥ずかしさやら、で飛び起きる。顔が熱い。先程まで近くにあった魔女様の顔を見る事が出来ない。
「よく眠れた?」
「は、はい。とても」
それ以上、会話は続かない。何を話せば良いか分からない。いや、そもそも状況が把握できない。
「あの、ここは?」
「ここは、多分、洞穴的な所だと思う」
簡潔な答え。でも、はっきりとしていない。
「大丈夫。ここは安全」
そうか。魔女様がそう言うのならそうなのだろう。
「あの、あいつは。あの黒い化け物は?」
「何処へ行ったのですか?」と口に出そうとした所で口を塞がれる。「静かに」という口に人差し指を当てるジェスチャーが魔女様の瞳の赤い輝きに照らされて。
そうだった。あいつは音に反応するのだった。迂闊。また同じ失敗を繰り返すとこだった。この谷の底へあいつがいるかは分からないけれど。私達と共に落ちてきているとは思うから。それに魔女様も気づいていたのか。音に敏感だという事を。
「でも、リリーも起きたし、夜目にも慣れて来た。丁度良い。そろそろ行こうか」
どうやら気まずいのは私だけらしい。
魔女様はさして気にする様子もなくスタスタと歩き出す。その胆力にびっくりしつつ私も後に続く。先程よりも霧が深く、距離を詰めて歩かないとはぐれてしまいそう。たどたどしい足取りで付いていきつつ、「魔女様の太ももは柔らかかったなぁ」などと邪な思いを抱く。それくらいには余裕が現れていた。
絶望とは打って変わり、多分、大丈夫だろうという気持ちが芽生え始めていた。
真っ暗闇が広がる谷の底を縫うようにしばらくの間、歩いていると前から再び「止まって」と声がかかる。
すると、慎重にじりじりと壁に身を隠す。私もそれに倣って、静かに。耳を澄ませば、足音が近づいて来ているのが分かった。今はまだはっきりとしない。谷の底がそれだけ広い事が分かる。
しばらく経って、足音が近づいては通り過ぎる。それがどんどん遠くに言った所で、いきなりどこから出したのか、何かナイフのような鋭利なものを飛ばす魔女様。暗闇にキラリと光り、音のする方へ一直線。私はあまりにもいきなりすぎて付いていけない。呆けている私をよそに霧の中で「キン」とナイフを弾く音がする。そして、霧の中から赤い点が二つ、ぼんやりと浮かぶ。
それが開戦の合図だと言うばかりに。
(あれは。まさか・・・)
額に嫌な汗が噴き出る。何故か身近に見覚えがある。浮かんだ点は段々と近づいてくる。そう、あれはある存在を裏付ける特徴。
「あれは、魔女。私の同族」
私の思考が真相に辿り着く前に魔女様が答える。
「魔女って。あの魔女ですか」
「うん。あの魔女。恐らく、この谷をこんな風にした存在。敢えて、名前を付けるとしたら霧の魔女とでも呼ぶべきかな」
霧の魔女。魔女様はそう言った。
「魔女は生きていたのですね」
「あれが、生きていると思う?」
霧の魔女は谷にある人だった者を捕食している。餌を喜ぶ獣のように。その姿は霧の中で大きな影が見え隠れしながら、美味しいのか嬉しそうにその身を震わせて。グチャリグチャリという気色の悪い音が辺りには響く。魔女様と同じ赤い目を揺らしながら。贓物を必死に取り込む。その姿を見てゾッとした。
「あれはただのなれ果て。いや、魔女には相応しい最後なのかな」
なれ果て。世界をこんな風にした魔女の辿り着いた先。人知を超えた力を持ち、その力があればまさしく自分の望みであれば何でも叶えられる。そんな存在の最後。あれは幸せなのだろうか。私には分からない。獣のように理性を置き去り、人だった者を、喰らう。
そんな醜い化け物になる事が。果たして、生きていると言えるのか。
ふと思い出したのは谷底で私が見た人ならざる者。あれも霧の魔女の手によって生み出された物だろう。
「でも、大丈夫」
魔女様はそう言った。私の手をもう一度握って、誓うかのように。
「あんな奴なんかに私の灰は、消されはしない」
そう言うと、魔女様が前に飛び出す。霧の中へ姿を消す。まるで空に浮かぶ雲のように熱い霧。繋いでいた手が離され路頭に迷う。霧に覆われた中では何も見通す事が出来ない。
しかし、その中でも赤い点が、魔女達の瞳が素早く移動していた。点は線となって、それを追う事で私は魔女達の位置が掴めた。それらは瞬時に場所を変えていく。霧の中で線を描くかのように激しくぶつかる。霧の中で何か刃物と刃物がぶつかりあう音が聞こえて来た。
5
(この力を試してみるか)
森で力を使った時と同様、再び灰の剣を生み出す。相変わらず、プラスチックのように軽い。だから、
「ごめん。霧の魔女。傷つけるつもりはなかったけれど」
私の実験台になって。殺意と殺意がぶつかり合う。
最初は剣。剣で霧の魔女の攻撃(爪のようなもの)多分、全身が影のように黒く波揺れていてイマイチ何をしているかよく分からない。ただ、この素早い斬撃は危険とだけ。先程の谷底で受けて危険だというのはその身をもって味わっている。何せ、通り過ぎただけで私の体が飛ばされた。どうやら柔肌程度ならものの一瞬で刻まれてしまうみたいだ。
今も霧に紛れ幾つもの斬撃が飛んでくる。致命傷は灰の剣で受け流して、防いではいるが全てを防ぎきるのは無理だ。所々、体にかすって傷を作る。すぐに治るけど。それに、剣だけでは攻撃の手段がない。守りにしか徹せない。やはり決め手に欠ける。射程が相手より上回り、かつ威力の高い物。
(うーん。どうしようか)
さっきと同じナイフでも良いけど。でも、飛び道具と言えばナイフよりも定番で適した物がある。それをそっと思い浮かべる。イメージが固まった所で声を出す。
「銃」
すると灰の拳銃が現れる。警察が持ち合わせるくらいであまり大きくはない。これまた軽く、肝心の弾も銃と同じく灰で凝り固まっている。装填されている弾は五発。霧に揺れる赤い目に照準を合わせて、受け流す剣の下から直ぐに打ち込む。反動は全く言っていい程ない。何せ、片手で打てるくらいだ。
バンバンバン、バンバンとしっかり五発。銃口から煙が上がり、霧の中には火花が散る。次いで悲鳴。赤い目の片方が光を失った。不慣れな私でも運良く命中。どうやら片目を打ち抜いたようだ。
ビギナーズラック?
自らの幸運に感謝しつつ、悲鳴のした方へ素早く近づく。
(見つけた。大きな黒い影)
そして、捉えた。目の前では片目を瞑り、血を流している黒い塊(霧の魔女)。私の背丈よりも随分と大きく横幅も比べられない。姿形はもふもふで意外と可愛い?
でも、その身は影のように揺れてはっきりとは判別できない。
でも、可愛くても関係ない。
さて、お次は、
近づいたとあれば、
「ショットガン」
これをお見舞いしよう。
ゲームでしか見た事が無いけれど。剣を消して、生み出した物を両手で構える。この距離なら狙う必要など皆無。そして、ゼロ距離で射撃。辺りに霧の魔女の残骸が飛び散った。べちゃり、べちゃり、と黒いゼリーのようにも見える肉塊。肉塊は互いに付着するべき場所を求めてうねうねと動く。
(これで終わりと言いたいけれど)
残念ながらそうではない。魔女は例え、残骸として飛び散っても再生する。だから、それに対抗する手段。それは、
(私の、灰だ)
魔女には魔女の力を持って制していく。予め、霧の中を闇雲に動いているようで私はしっかりと種を巻いておいた。剣を、銃を持ちながら舞うように動き、私の分身に近い灰を散らしていた。その灰を集めて圧縮。一つに集合。霧の魔女を覆う。そのまま手の動作と共にぎゅっと握りしめる。ギリギリと力を込めていく。握りしめる手には霧の魔女の抵抗が垣間見えたが、やがて途絶える。
(これで終わり)
潰した灰の球体から赤い血液が落ち、下に水たまりを作る。大きな血だまりが広がっていく。
全く、魔女は手間がかかる。出来ればもう二度と相手はしたくない。
6
正直何が起こっているのかははっきりとは分からない。ただ、魔女様が生み出した剣と霧の魔女の鋭い爪が激しくぶつかっている音が霧の中から聞こえてくる。
剣戟と剣戟、互いの得物がぶつかりあっては移動していく。あちらこちらで火花が散っては消えていく。それらは目で追うのが間に合わない程、二つと二つ、合わせて四つの赤い点がゆらりゆらりと霧の中で舞う。やがて銃声が一つ、二つと聞こえて。
魔女と魔女が戦うとこうなるのか。私はただその場で一歩も動けず見守るだけ。
その銃声を合図にやがて、霧が薄くなってくる。そうすると、ようやく戦いの全容が掴める。霧が晴れた先、見えたのは大きな灰の塊。それが球体となって霧の魔女を覆っている。その灰の塊の前では魔女様が灰で作った細くて長い銃を降ろした状態で立っていた。そして、手に持っていた銃はやがてどこかにいくように消えて。大きな灰の塊に近づいていく。ゆっくりと、ゆっくりと近づいて触れた時それは砕けた。
絶望の声が谷の底に響く。
谷に潜む者。すなわち、霧の魔女。
それがどのように生まれたかは私には分からない。また、何を思って過ごしていたのかも。でも、その声は酷く悲しく響く。まるで泣くように。地を揺らすくらいに金切り声のような悲鳴が幾度か。
私は思わず両手で耳を覆った。それでもなお鼓膜をビリビリと震わせ、耳鳴りすら起こす。数秒の後、叫びが止んだ。霧が薄れそして晴れていく。恐らく、長年の間この地を支配していた霧。それが今、終わった。
谷には月明りが差し込む。辺りにはバラバラと霧の魔女の残骸の灰が舞う。キラキラと。谷には大きな血だまりができ、周りにはねずみやゴキブリといった汚らしい環境を好む生き物たちが死体を求めて集まり、飛び散った残骸を食べていく。今まで霧に覆われて見る事ができなかった谷の全容がはっきりとしていく。そして、その中心には霧の魔女の血を浴びた魔女様が佇む。その真っ白な髪を、肌を、服を真っ赤に染め上げた姿で立っていた。
「終わったよ」
ドロドロと人間と変わらない血液が付着する手を私の方へ差し出す。私も恐れながらも手を伸ばしていく。魔女様の体に出来た傷は灰が覆って、やがて跡形もなく消えた。谷底で霧の魔女に切りつけられた時と同じだ。まるで魔法のような力。
「どのように倒したのですか」とそれを聞こうとした、けれど。
正直、怖い。
立っているのもやっとこで、
魔女は安心させるかのように私の手を握り、そして、引いてくれた。暗闇を抜け出してくれた。そうだ。魔女様はあんな存在とは違う。あんななれ果てのようには成り下がらない。あんな人を食らうだけの化け物には。
そうですよね。魔女様。
私は心の中で問いかけた。問いかけた後、魔女様が「あ」と言った。
「これ、霧の魔女の中にあったもの」
そう言って、黒い手袋を目の前に差し出される。私の「それは着けても大丈夫なのか」という瞳をどう勘違いしたのか、
「大丈夫。汚くないよ」
なんて言う。違う。そうではない。
「着けると良いよ。多分、特別な力が宿っているよ」
黒くて無地の味気のないデザインをしている代物。そう押し付けられ言われるがまま、手に取って眺める。「身に着けても良い」とそう言われても霧の魔女を前にした手前、なかなか気が進まない。そんな悶々と悩む私。着けるのには、勇気がいるかもしれない。
すると、魔女様が、
「もしかして、手袋じゃなくてパンツの方が良かった?」
なんて言わなくても言い事を。自然な顔で当たり前のように。
「濡れていたから」
首を傾げて訪ねて来た。
しばしの間。
というかなぜ知っている。私ですら忘れていたのに。そう、恐怖で失禁した事など。いや、忘れたかったのに。でも、それは分かるか。股下の湿った感触が背負われている間中、服越しとはいえ触れていたのだから。
(今は大分、落ち着いて乾いて来たけれど)
しかし、染みついてしまった臭いまでは隠せない。一刻も早く洗い流したい。
私はすぐに手袋を身に着ける。そして、魔女様に背を向けてスタスタと歩いて行く。その場に置いていく。
「どうしたの?」
という何も分かっていなさそうな声を後ろから聞きながら。丁重に無視を決め込む私。無礼だとしても今だけは許してほしい。だって魔女様が悪いのだから。
謝ってもしばらくは許して上げない。
(せめて、私が怒っている理由が分かるまでは)
口も聞いてあげないと。もうすっかりと霧が晴れた谷に背を向けて。




