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第二話 「この愚かな街には灰が降る」

1


手首から流れた血が海にポチャンと一粒零れ落ちる。海の波の中で私の血液が広がり漂う。海の蒼と私の赤。それらが混ざり合う。この世界にはちゃんと色がある。

今更だけど音だって。微かに響く風の音。耳のそばで風切り音が聞こえる。その音を聞いて、私はハッとする。

私は今、夢見心地だ。いや、ひょっとしたら今も夢を見ているのかもしれないとすら思っている。

私がちゃんと現実から来たかどうか確認する手段。それは手首に残る痛ましい傷跡達だ。あれは紛れもない現実、だから。すぐさま確認。


良かった。あった。


そして、安堵。どうやらこれは夢ではないようだ。例えば、物語の登場人物が夢かどうか不確かな時に頬を抓ったりして痛みを与えてみるだろう。私にとってはあれと同じ。しかし、次に手首を見ると次の瞬間には傷など跡形もなかった。あれだけ幾重の傷が付いていたのに。消える事無く跡も残っていたのに。今は何もない。私が見た後に一瞬にして消えてしまった。信じがたい。

だが、確認したいことはもう出来たので用済みか。ただ私の現実との唯一の繋がりが途絶えただけで。

そうだ。私はあの日、誰もいない東京で海に沈んだはず。なのに、どうして今こうして生きているのだろう。


まさか死なずにここへ流れ着いた?


いや、でもそんな事は有り得ない。だって私はあの時、一切の抵抗を見せずに沈んでいったのだから。朧気だが伸ばした手を覚えている。それに、今、着ている服。

純白で透けるかのワンピースに身を包む。下着等は身に着けず本当にそれ一枚。まるで海のクラゲを溶かしたかのように透明度が高く、素材はサラサラとしている。しかし、不思議な事に覆っている面の露出はなし。服としての機能は最低限あるというかしっかり隠れている。

(まぁ、丸だしは流石に私でも)

流石にそんな趣味はない。

しかし、不思議なのは服の素材などではなく私が服を着ている事。


でもそんなのは別に考えなくても良いか。きっと私も知らない誰かに与えられた。ただ、それだけなのだろう。その誰かは世界かもしかしたら神かもしれない。もしくはそれに通ずる何か人知を超えたもの。人知を超えているのなら、それはいくら考えても分からないのだろう。ならばこれは有難くいただくとする。そう思いながら、潮風に流れる髪を抑える。真っ白に変わった髪はそのまんま。


海の半ば、腰元が浸かるぐらいまで歩く。月がより近く、私を照らす。夜の海岸、月の下、そこに真っ白なワンピース一枚の私。なんだか絵画に出来そうなくらいには幻想的だ。それにこの服は不思議。幾ら濡れても直ぐに濡れる前に戻ったかのように乾く。まるで魔法でも使ったかのように。


面白い。これは本当に神から貰った賜物かもしれない。羽衣的な神器かのよう。そして、今度は自分の容姿を月夜に映えた水面を鏡のようにして確認してみる。白く不健康な肌はそのままとして、見た目で変わっていたのは目が赤くなっていた事だけだった。少々、不気味な位に燃え盛る赤。まるで返り血を浴びたかのような、道にいた獣の贓物のような赤色。でも、変わっていたのはそれくらい。


しかし、確認をした所で、なおもここで立ち止まっていれば、状況は何も変わらない。もちろん、このまま砂浜に座って景色を眺めていても良い。それはそれで楽しいかもしれない。


ここに私を呼んだ神は何を為せと言うのだろう。こんなただ一人のありふれた人間を呼んで何をしろと言うのだろう。


少女はなおも考えた。そして、考えた末に行動する事を選んだ。あの日、あの獣が堪えきれず外に飛び出したかのように。今の私も同じように。


例えば、この世界の果てを目指しても良いかもしれない。それも面白そうだ。なんて考えながら。


砂浜には少女の足跡が続く。そして、その道には不思議な事にどこかから現れたか、雪のような灰が薄っすらと降り積もっていた。

灰の道を作りながら、少女は歩み出す。


この少女がこの世界で何を及ぼすのか。この、ぼんやりと歩く少女に今はまだ分からない。


2


何かを成し遂げる人ってどんなだろう。砂浜を抜けた後、歩きながら考える。暗闇に包まれた草原。風で揺れる草木。夜しかないからか、時間がゆっくりと流れるような感覚に陥る。現実世界でも昼間に学校で睡眠を摂って、夜に生を実感していたからあまり違和感がない。むしろ、ここが自分の居場所だとすら感じる。


話を戻そう。再三、時間だけはあるから草原の景色を眺めつつ。いや、成し遂げるでは分かりづらいか。何をという主語がないから。言い換える。そうだ。社会に、人に評価される事としよう。最も、今の私は人ではないかもしれないけれど。先程から後ろを付いて回る灰。これはどうやら私から生み出されているらしい。まともな思考を持っていなかった私だったが、どうやら身体までまともというか人間ではなくなったらしい。灰は舞うようにパラパラと降り積もっていく。生き物のようでなんだか可愛い。


そうこうしている内に思いつく。

そうだな。この場合の評価とは、人の感情をゆり動かした事としよう。例えば、それは好意だって不快感だって。プラスでもマイナスでも何か一つでも変わったのならそれは自分が行動したという事だ。行動したとはつまり勇気を出したという事。ならば、私はそれを評価する。それはとても尊い事だと思う。だってそれは自分を信じる事が出来たという事だから。その積み重ねがきっと何かを成し遂げるのだ。少なくとも、私はそう考える。だから、今はこの世界を私が信じた道を進む。この先に何が待ち受けていようとも。


ここが何処かは相変わらず分からない。傍目から見ても、現実とは違う未知の世界に放り出されたというのが正解だろう。

だとしたら不安は感じるか。いや、不安は前述の通り微塵もない。なにしろ私はそれを望んでいたのだから。

手首の傷含めて、スマホ等の持ち物も全て失った、と思う。

ふとワンピースの横に付いていたポケットを漁る。そこには何かある。何だろうと思い、一思いに取り出してみる。それはビニールの包に入っているクッキーだった。それも現実世界で私が良く見慣れている。

(何だ。あった。現実世界との繋がり)

恐ろしく身近に。クッキーは恐らく私と共に海に流されていたというのに割れる事無く形を保っている。数は二つ。

(に、してもクッキーか。確かに私の好物で現実世界ではよく学校にも持って行っていたけれど)

あの日もこうしてポケットの中に入れていた。それが私の学校へ行くためのルーティーンというかいつの間にか日常となっていたから。

(まぁ、いいか。この世界に来た餞別だと思って受け取っておこう)

それらを再びポケットにしまう。

手始めに草原を超えた先、目の前には街が見える。ポツポツと明かりが点く家々の連なり。

「あそこに行ってみよう」

そう目的を定める。そして、何か手掛かりが掴みとれるかもしれないと期待を寄せる。


2


薄暗い室内。冷たい石畳が広がる部屋。その中では艶めかしい音が響く。これは肉と肉が擦れあう音。その音は私の下腹部の方、私の秘部、その内側から響いてくる。私の上に跨る男は懸命に腰を振るう。杭を打つかのように何度も何度もそれを繰り返す。そして腰を振るうと同時に私の胸に一生懸命、吸い付いている。


器用なものだ。流石、私の体を余す事なく抱いてきただけの事はある。それとも、男は皆、こうなのだろうか。私は一切の快楽も感じる事無く、ただ目の前の男が満足するまで見慣れた天井を眺め、軋むベッドの音を聞きながら待つだけ。それ以上でも以下でもない、それだけの行為。こうした事はよくある。だから、私も慣れていた。だけど、毎度思うのはよくもまぁ、私のこんな貧相な体で興奮するのだろうという事。いや、この男にとってはなんでも良いのかもしれない。そこに穴さえあれば。


でも、ならば。ならば、私ではなく、いや、そもそも人ではなく何かそこら辺の穴にでも衝動をぶつけて発散すれば良いのに。そうすれば自給自足だろうに。なんて身も蓋もない事を思ってしまった。


男は一頻り終わると、私の秘部からそれを抜く。「ゴポッ」という耳を汚す水音。また中に注がれた。断りもためらいもなく私の中へ。終わりの合図。醜い肉棒。それに滾る衝動が収まったのだろう。行為が終わると男は私をベッドの端に追いだす。そして、そのまま煩いいびきをかいて直ぐに寝始める。きっと疲れたのだろう。

これもいつもの事。奴隷のような身分の私のいつも。しかし、今日はまだ良い。いつもなら髪を引っ張られたり、首を絞められたりと散々な思いをするから。


こんな身分の私はといえば、定住する家もないので毎日、その日暮らし。毎日、誰かの床の相手をしては最低限の生活を保障してもらう。そんな生活をしているから、当然、身なりは汚い。ぼろ雑巾のような薄茶色に煤けた服、くすんだ金髪。病気だって持っているかもしれない。下の方は特に。好き勝手に使われているから。けれど、こうしないと生きていけない。私のような弱いものは。男に媚びて毎日を凌ぐ、しか。虚しくなる時もある。死にたいと思う事もある。だけど、これが私の運命(さだめ)。性質のようなもの。

男が眠ったのを確認すると私は身を起こす。隣に眠る男を起こさないように静かに細心の注意を払いながら。男は髭も剃っておらず、どこかしら、薄汚れていて不潔な印象を受ける。もう見慣れた男の姿を改めて確認しながらそう思う。

(いや、それでも私よりは良いけどさ)

けれど、この国ではこれが普通。いや、この夜に飲み込まれたこの世界では。そして、私は奥から溢れ出てきては、どこか温もりが残る白濁液を自分の手で掻き出した。


どこか黄色味がかかる液体。手に触れると粘り気と共に糸を引く。嗅いでみれば、ひどい臭い。言い表せない。生臭い。おおよそ人の体から出るものとは思えない。溢れ出る罵倒は止まらない。こんなのが私の中には流し込まれる。その事を改めて認識すると、本当に気持ち悪い。例え、呪物を見ても今目の前にある物に比べたら、

ここまでの気持ちは抱かないとそう確信する。気軽に触れたのを後悔する程には、並々ならぬものが込み上げる。文字通り、喉の奥から、そして心の奥から。けれど、隣にいる男を起こしてはダメだと理性が働き、なんとかそれを堪える。

もう、慣れていたはずなのに。


今日は何故?

何故、いつもの月明りすらも寂しく感じるのだろう。意識しなければこんな事にはならなかったのに。いつものように道具に徹すれば。


そうして、後悔。しかし、後悔はいつも先に立たない。私は最低の気分を振り払うためにも、脱ぎ去られた服を拾い集め、外に出た。

希望は持たない事にしている。希望を持っても辛くなるだけ。ならば、最初から持たない方が良い。持たなければ、最初から傷つかずに済む。でも、そんなのはありふれている。この街の殆どはそうではないか。


風は冷たい。私の体に溜まった熱を取り除いてくれる。氷のように溶かしてくれる。その感覚が心地よい。私は自分の住処に戻る。いや、住処と言っても男の家の隣なのだが。男の家の隣の小さな小屋。その中には少しばかりの枯草が敷いてある。

ここが私の居所。人間というよりもどちらかと言えば家畜の扱いに近い。奴隷のような身分の私に与えられた部屋。いや、正確には奴隷ではないのだが。しかし、首につけられた首輪がそれを言い逃れが出来ない。でも、似て非なるモノだ。なにせ生まれた時から親に捨てられたのだから。


だとしたらこの所業も当たり前だと考えられるだろうか。むしろ、よくここまで生きてこられた、とそう思うだろうか。そうだな。今、振り返って見れば良く生きてこられたな。惨め、だとは思う。けれど、絶望はしない。何せこれが当たり前だから。最初からそうであれば別に。絶望と言うのは、希望に身を浸していたからこそ言えるのだと私は思う。


枯草の上に横になる。もう眠ってしまおうとそう思ったから。


しかし、いつもならすぐに眠れる。けれど、今日は眠れない。目を閉じても、寝る体勢を幾ら変えて見ても眠れることはなかった。

困った。


困り果てた私はついには眠る事を諦めた。こんな夜はあれをするに限る。私は部屋の隅であれを取り出す。取り出すのは画用紙とペン。いつだったか、街に落ちていたのを拾ったモノ。金持ちの子供か何かが落としたのかもしれない。私は思うがまま、紙にペンを走らせる。ペンを勢いよく走らせて描くのはなんて事はない、小屋から覗く夜空の月と星々。この四角い小さな穴から覗く風景。でも、これが私の精一杯。生まれてこの方、こんな風景しか見ていないものだから想像力に乏しい。そして、私の世界は狭い。


世界ってどんなだろう。さて、考えた事もなかった。私がいるのは街。

街。私のような人が集まって共に暮らす場所。街だけでも広い。けれど、世界はもっと広い。そこには一体どのようなモノがあるのだろう。さて、想像もつかない。けれど、そんな私でも、


ああ、やっぱり絵を書くのは良い。目の前の線と線。またはそれらを交差して。色々な要素を自分なりに組み合わせて表現して。それらに集中することで嫌な事も全て忘れられるから。少なくとも、目の前に没頭していれば現実から目を背けられるから。そして、見た事もない未知に夢を馳せられるから。


私は夢中で風景を描く。窓から覗くこの風景を。黒一色だけれど色や影を付けて細部までこだわる。


3


世界は魔女によってめちゃくちゃにされた、らしい。らしいというのは私が実際に魔女を見た事がないし、元の世界を知らないから曖昧にしか言えない。そして、この世界はその他ならぬ魔女達によって崩壊した。人も街も、この世界にある物は余る事なく全て。私も聞いたモノや数少ない文献から得た情報でしかないけれど。そして、そんな世界を崩壊させた魔女達も今はもう誰一人、いや人ではないから一匹だろうか。とにかく、そんな魔女達ももう誰も存在しないという。だから、世界に残ったのは残りかすである僅かな人間とこの街に残る僅かなインフラだけ。


けれど、そんな私達は希望を持つ事もせず、再生を目指す訳でもなくこうして終わりを待つだけ。世界の終わり、終焉を。もちろん、最初から諦めていた訳ではない。色々な政策は講じた。けれど、残された人類はあまりにも少なすぎた。到底、再生する事など出来なかった。脅威の張本人達はもう去ったのに何もできない。その歯がゆさを偉い人達は抱えているのかもしれない。だから、この世界はただ終わりを待つのみ。明けぬ夜空を、暗闇に包まれて終焉を迎えるだけ。敢えて名付けるとしたら、「終末世界」とでも言うべきだろうか。


その時、頭上から声がした。

「奇麗」

誰か女性の声。いや女性と言うよりかは少し幼さが残る声。おかしい。ここには私一人だった。戸締りは・・・いや、ここには戸がないからそれは出来なかった。しかし、それにしてもここにあるのは、私がペンを走らせる音ぐらいのはず。さらに、それは私の絵に賛辞を贈る言葉だった。なおさら、この場には相応しくない。私は上を向く。そこにはまるで返り血を浴びたかのような赤い目を持つ女性がいた。赤い目と扉のない小屋から差し込んでくる月明りによって映える真っ白な髪が不気味な程に蠱惑的。女性は座って絵を書く私を見下ろしていた。


これは・・・


目の前に立つ存在は明らかに私と同じ人間だとは思えなかった。いや、そう思うのを頭が拒絶している。まるで見る者全てを魅了してしまうかのような相貌とそして風貌。それに、記憶の端から引っ張り出す知識が一つ。魔女は人の血を煮詰めたかのような真っ赤な瞳を持つという。歴史に残る魔女達、その皆に共通する特徴。そして、人と魔女を簡単に見分ける方法。

それが今、私の目の前にある。私の事を一直線に見据えている。

私は動けなかった。正直、怖かった。恐怖に支配されて何もできない。ペンを動かす手すら止まってしまっている。まるで蛇に睨まれた蛙のよう。

驚いた。蛙は蛇に睨まれると動けなくなるのだ。それを今、知った。その中で、私が唯一出来る事とすれば、その吸い込まれそうな赤い瞳にただひたすらに魅入られる事だった。けれど、そんな私の様子とは裏腹に、いや、お構いなしといったように目の前の魔女(らしき者)は話しかける。私の絵を指さして、

「絵、上手いね」

と裏表がなく真っ直ぐで純粋な言葉。そう言うと、魔女は私の手から画用紙を抜き去りもっと近くで眺める。


私の頭の中はもうめちゃくちゃだった。色々な思考が頭をぐるぐると。

まずこの魔女は何処から来て、なぜこの部屋に入ったのかとか。そもそも魔女は世界にはもういないのではとか。


確かにこの小屋は入口に扉がないから誰でも簡単に入ってくることが出来る。


でも、そんな思いがどうでも良くなる程に私は目の前の存在に、魔女に魅入られていた。そうか魔女は世界だけではなく、人すらも狂わせてしまうのか。そんな風に思って。そして、その魔女が今、私の描いた絵を見て笑顔を零し、はしゃいでいる。


どうしよう。嬉しい。


もう相手が魔女だとか人間だとかどうでも良かった。自分のような人間が人知れず書いた絵を誰かが見て褒めてくれた。それだけで天にも昇るような気持ち。それもこんな魅力的な女性とあれば。顔に熱が灯る。照れてしまう。


こんな状況で喜んでしまうのは人間失格だろうか。あの世界を滅ぼした、人間にとっては敵と言うか見ることすら拒むべき邪悪な存在なのに。

でも、私自身は魔女に何かされたわけでもないから。

例え、世界が普通でも同じように生きていたと思う。生まれた瞬間に親から捨てられ、奴隷というか浮浪者のような身分の私は。


なんとかお礼を言いたくて、口をもごもごと。


「あぃがとうござぃ・・・ぁぅ」


男を喜ばすための喘ぎ以外の声を出すのは久しぶり。ましてや会話なんて。

そう思ってしまうと、上手く言えなかった。思えば誰かに、それも自分から何かを伝える事なんてしてこなかった。しようとも思わなかった。身近にいる存在があの汚らしい男しかいなかったし、街へ出ても皆、家から出てこない。電気はついていても、部屋の中には本当にいるのか分からない。だから、ちゃんと私の気持ちが伝わっただろうか。心が揺れる。不安になる。でも、魔女は私を見て笑ってくれた。良かった。伝わったのかもしれない。


「隣、座っても良い?」


魔女は聞く。私は思わず「うえっ」と言葉にならない声が出てしまった。良いのだろうか。この小屋はお世辞にも奇麗だとは言えない。むしろ、不潔。だって元々は家畜小屋だ。人が住む環境ではないのだから。そんな場所に、人だとみなされていない私ならともかく、こんな奇麗で大人っぽい人が座っても良いのだろうか。その透き通るようなこの世の物とは思えない御物が汚れてしまうのではないのだろうか。もし汚れてしまったら私はどうなるだろう。償えない。罰せられてしまうのではないだろうか。


隣の床を見たまま固まってしまった私を見て、魔女は困ったように言う。

「じゃあ、座るね」

魔女は私が気にしていた事などお構いなしかのように腰を下ろす。私の隣に座る。私が少しでも手を横に動かせば肌が触れてしまう距離。それぐらい近い場所に。


「ねぇ、私も絵を書いて見ても良いかな」

魔女はそう言う。もちろん、構わなかった。私は「うん」と頷く。そうして、「やった」と言って魔女は書き始める。画用紙にペンを勢いよく。ああ、そんな勢いよく動かしたら上手く書けないよ、とそう思ったが私はその姿を静かに眺めていた。


見れば見る程、この少女の存在を異質に思う。

近くで見ると、色が白くて端正な顔立ちで。まるで異国の人形のよう。そして、それを見る私は夢見心地。なんだかふわふわとする。


これは本当に現実なのかな。夢ではないだろうか。さっきから頭も上手く回らないし。隣に座った魔女が来た方を見た。見れば、何か白くキラキラとした物が見える。


何だろう。雪、かな?

でも、冷たくない。

風で吹き込んできたのだろうか。

下を見れば私の周りにも散らばっている。


手に取ってみる。灰、だろうか。何かパラパラとしている。


そしてその元を辿ってみれば、思いの他近い。というか、元凶がいた。魔女だ。その良く分からない白い物は魔女の周りを取り囲むようにしていた。不思議な事に魔女の一挙手一投足に着き回る。まるできのこの傘から溢れ出る胞子のように。でも、魔女は気にしていない。それどころか当たり前というか、認知すらしていないように思える。普通、こんなものがあれば気になるのではないのだろうか。自分の身から出ているとなれば尚更。近くにいる私ですらこうして気にしているのに。それとも、私の頭がおかしいのだろうか。


その可能性もある。むしろ、その可能性の方が高い。


観察してみれば、その灰はキラキラと光りが付いたり消えたりと点滅どころか消えかかっていた。


そうか。これは幻覚だ。

取り敢えず、私はそう思う事にした。当の本人である魔女が気にしてないのだから。私も気にしない。見て見ぬふりをしよう。うん。そうした方が良い。


私はそのまま魔女が絵を書き終わるのを待っていた。そうして、どのくらい経っただろうか。きっと二、三時間くらいだろうか。この世界では時刻と言うものももう失われてしまったから正確には分からない。空を見ても、いつでも変わらないから感覚でしか掴めない。月の位置も星の位置すらも変わらないから。流れる雲すらも存在しないから。でも、私は待つのには慣れている。隣にいる魔女は依然として集中している。視線は紙に、そして動かすペンに一直線。良い目だ。絵を書く時はこうでないと。自分の目の前にある紙が全て。そこに思いを乗せて描いていく。それ以外は何も考えない、目に入らない。それぐらいでないと、夢に浸れない。少なくとも、私はそう思う。魔女もそうだったら嬉しいな。私はそう思った。


小屋の中には人間が一人と魔女がいる。魔女を数える単位はそれこそ人と同じ「人」で良いのだろうか。私の中で前例がないと共に、定義すらない。それも今、出会ったばかり。そして、魔女が絵を書いて私がその姿を眺める。とても奇妙な光景だ。思わず、笑ってしまう。でも、不思議と私には居心地が良かった。寒い小屋の中も温かく思えるくらいには。


「出来た」


嬉しそうに魔女は言う。完成したばかりの絵を私に見せる。なんだか棒のような手足を持った二人が小屋から月と星々を覗いている、ように見える。その棒のような私達には顔はない。恐らく、書けなかったのだろう。

「あまり上手くないね」

私は見たままを正直に伝えた。驚いた。こんな風に気軽に話しかけられるなんて。思いのまま、正直に。先程までの相手が魔女だからとか、恐怖だとか恐れ多い気持ちも何もなかった。対等の関係。同じ時を共有したからだろうか。

「やっぱり。上手く書くのは難しい」

そして、その気持ちは魔女にも共有される。そうして、二人は笑う。一人と一つ。その間に垣根はもうなかった。


「この世界は奇麗」


魔女はそう言った。


奇麗? どこが?


一体どう見たらそうなるのだろう。ここには嫌な現実と汚い男しかいない。でも隣にいる魔女の瞳はキラキラと輝いていて。私が良く見ていた小窓からこれまた同じように、夜空に浮かぶ月と星を眺めながら。でも、そうだろうか。この世界はいつでも暗くて、冷たくて、寂しくて。空には沢山の星と月があるけれど、どこか孤独で。


私は寒いのは苦手だ。この希望のない世界でそんな思いを散々味わって慣れているけれど。寒いと凍えてしまう。暗いと悲しくなる。けれど、私は、


「そうだね」

としばし間を開けてからそう言った。思ってもいない事を口にする。でも、私がそうなるのもしょうがない。温かくないのも生きるのに希望が持てないのももう私は沢山、味わってしまったからか半ば諦めたように同調する。でも、この世界にいる人ならば皆、そうではないだろうか。皆、静かに終わりを待ってそして朽ちていく。そして、さらに私のような搾取される側の人間の絶望は特に多い。


魔女は私の答えをどう思ったのかは分からなかった。けれど、その赤い瞳には夜空に浮かぶ星々が映っていた。


魔女は私の首に手を差し伸べてきた。なぜだかその手が私の首輪に触れた瞬間、私は自由になれる気がした。ずっと縛られてきた鎖が解けるような気がした。でも、その手は届かない。触れる直前、寸での所で止まった。横やりが入ったから。

「そいつから離れろ」

そんな声が小屋の入口から聞こえた。見れば、いつの間にか起きて来た男が手に銃(猟銃だろうか)を向けていた。銃口の向く先は私の隣。魔女だった。


普通なら、無抵抗の意思を示すか戦慄する場面。しかし、魔女は、

「誰?」

なんて呑気に私の方を見て呟く。引き金を引かれれば打たれる、そんな場面でも一切の恐怖や焦りはないらしい。それか、例え打たれたとしても死なない自信があるのだろうか。魔女については私も未知数。


いや、こんな事を観察する前に魔女の問いに答えるべきだった。でも、魔女の問いに対する答えを持ち合わせていない事に気づく。

今までは生きるために何も考えず、抵抗せず従ってきたから気づかなかった。

さぁ、誰だろうか。

そういえば、私は男の名前も何が好きか、どんな存在か良く知らない。

主?

いや、そう呼べる程の扱いをされていない。じゃあ、

家族?

確かに生活は共にしていたけれど。一時的なものだし。いや、そんな柄ではない。あ、でも、一つあった。私と彼を繋ぐ関係性。


性処理道具。

そう、私は彼の性処理道具だ。性処理をする代わりに紙やペン、最低限の食事、それらを与えてもらえる。そういった関係。しかし、これを人に伝えるのは難しいな。どう伝えようか非常に悩む。これでは相手が誰かという問いに答えられない。私の事を性処理の道具にする者ですというべきか。でも、自ら、性処理にされていると伝えるのは果たしてどうなのだろう。あまり常識的とは言えないだろう。


悩む私をよそに、男は魔女が近づいた瞬間に鉄砲を撃った。魔女はいつの間にか男の方へ進んでいたらしい。全く、恐れ知らず。銃を向けている相手に対して普通は近づかない。だって死んでしまうから。しかし、放たれた弾は魔女に当たる事はなかった。無に帰した、というべきか。


銃口からは煙が出ている。男は呆気に取られる。そして、目の前の出来事が信じられなかったのか今度は二発、三発と続けざまに発砲。

ダン、ダンと力強い音が辺りに響く。鼓膜を震わせる振動、火薬による火花。


しかし、それもまた跡形もなく消滅。

「おい、どうなっている、んだ」

男は絶望したように言う。魔女は更に近づいていく。

「く、来るな!」

拒絶。そして、男は逃げようとした。けれど、魔女の赤くゆらゆらと揺れる瞳を見て腰が抜けたのかその場に無様に倒れた。


返り血のような赤い目。それがゆらゆらと揺れて燃えていた。


なおも、男は慌てたように弾を詰め直す。手が震えていて、何発かは地面に落としていた。人知を超えた存在に対して人の身では何も出来ない。それが見てとれた。

「ば、化け物」

男はたまらず叫ぶ。必死の形相で藻掻く、抵抗する。生にしがみつくように。

私はその姿を見て、感心していた。

そうか。それが未知に対しての正しい反応だったのか。

私はまた一つ学びを得た。そして、それが男の最後の言葉だった。


魔女の手が男の肩に触れる。すると、そこにはもう男の姿はなかった。サァァ、と瞬きをする間。魔女が触れたら砂のように崩れ去った。


そして、魔女は私の方へ振り向いて言った。

「ごめん。消しちゃった。でも、目障りだったし別に良い、よね」

なんてことのないように。誰かを殺めても何も思っていなさそうだった。私は、それを見て、ああと思った。


自分がどんな顔をしていたのかは分からない。恐怖していたのか、悲痛に歪んでいたのか、それとも全てを悟っていたのか。そのどれでもないかもしれない。ただ、私は先程まで男がいた場所を静かに眺めていた。


先程までは薄れていたけれど、目の前の存在は恐ろしい存在だという事を再認識した。けれど、私にはどうする事も出来なくて。例え、逃げたとしてもさっきの男と同じ轍を踏むだけ。いや、その前に私も腰が抜けてたてないのだけど。そんな私を知ってか知らず、魔女は「大丈夫?」と手を差し出す。


私も見下ろす魔女の瞳は元に戻っていた。けれど、差し出された手を取るべきか迷ってしまう。どうしても震えてしまう。だってしょうがない。怖い物は怖い。さっき、心を通わせたとしてもあの光景を見ればそうなってしまう。私は弱いから。申し訳ないけれど。


魔女は「ああ」と伸ばした手を引っ込めた。その様子は男を殺した時と違ってどこか寂しそうに見えたのが不思議だった。


考えてみれば当たり前だった。人が魔女に敵うはずがない。それは歴史が証明してきたはずだ。魔女は世界すらも操れる存在。どうとでも出来る人知を超えた存在。そんな相手と対峙して人間がどうこうできるものではないのだ。強き者が弱き者が淘汰される。世の摂理。慈悲をこうならまた別だけど。


私は男だった者の灰を集めて、地面に埋めた。そして、手を合わせる。どう思っていたかは別としてそうするべきだと思ったから。私はそれに従った、まで。そこに悲しいだとか嬉しいだとかそう言った気持ちものない。ただ淡々と機械のようにこなしていく。魔女もそれを黙って見つめていた。そして、私がその一連の作業を終えて、祈りを終えると魔女は見届けたかのように身を翻す。そのまま振り返る事無く歩いて行く。私もそれをどう思う訳でもなく眺めている、つもりだった。


けれど、手を自然と伸ばしていた。伸ばした手は服の裾を掴む。透き通る服はシルクのような滑らかな手触り。その手に、私も連れて行って欲しい。暗にそういう気持ちを込めて。なぜそうしたか分からない。人の身で彼女に付いて行くのは難しいはずなのに。けれど伸ばした手は決して離れなかった。いや、離そうとしなかった。この手に掴むのは絶望か希望か。分からない。けれど、分からなくて良い。

「来るの?」

魔女は問いかける。私は頷く。

「そう」とだけ魔女は言った。否定も肯定もしない。深く聞いてこない事は有難い。歩き出す。私はただ、後ろをついていく。


魔女が歩いた所には灰が降る。魔女自身は気にしていない。もしかしたら私しか認知していない。この明かりはあるけど、今にも消えそうなこの街に。人がいるのかいないのか分からない。もし、いたとしても生きることに希望を見いだせず、引きこもり続けている。明日の見えない暮らしを義務付けられている。一粒の温かみも暖かさもない、この街には灰が降る。まるで雪のように降り積もる。


離れていく街。さして愛着もないけれど。それなりに生活をしたから。それを眺め、

「さよなら」

もう帰る事はない。私はそれだけ口にした。


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