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第一話 「冬月夜空 一(いち)」

1


カッターの刃が、私の手首を切り裂く。


カーテンが薄く開き、窓から差し込む月明りだけが頼りの部屋。私はその光景をどこか他人事のように眺める。いや、この表現では適切ではない。正確には、私が左手に持つ刃先が三センチばかり飛び出したカッターで右手の手首に傷を付けただろうか。

まぁ、そんな事はどうでも良いし、いずれにせよ。どちらでも良い。ただ私がいつものように自傷行為に手を染めた。それだけ。何ら、特別な事ではない。少なくとも、私にとってはいつもの日常。

そして、私はこの瞬間、熱に浮かされる。衝動という熱に。現実を離れていく。


刃がプツリと私の健康的ではない細い腕、その真っ白な肌に沈む。沈んだのを見届けると自然な動作で、ゆっくりと横に動かす。次いで、体にピリリと電気が走るような感覚。そして、遅ればせながら血が溢れる。溢れた血は、私が座るベッドのシーツを赤く染めた。私はその様をしばらくの間、何を思う訳でもなく眺めていた。

痛みはあまり感じない。もう、慣れているから。


手には幾重にも刻まれた傷跡。そこへ新しく、いや更新するだけ。ただ、それだけだから。

別に死のうとしている訳ではない。ならば、なぜこのような行為に手を染めているのか。それは自分でも分からない。いや、本当に分からないのだ。

別に趣味だとか、誰かに構ってもらいたいだとかそういう理由でもない。ただ、私はこの世界に、生きることに反発しているのかもしれない。それか満たされない事への腹いせか。


色々な感情がごちゃごちゃする。もう考えたくない。今はただ何を考える訳でもなく、今しがた手に付けたばかりの傷を見守るだけ。この時間が一番、満たされる。


しばらくすると、高揚感から目を覚ましそばにあるティッシュで拭き取る。そうして、新しく出来た傷をそっと撫でる。依然、血は出ているので取り敢えず、机に置いてある包帯を巻いておいた。包帯を巻いた後はピンでパチンと取れない様に留めた。包帯はお日様に当てた布団へ寝転がった時のように傷口を包む。ふわふわで気持ち良い。そして、いつもの儀式の終わり。


今日は、2025年7月5日。ある夏の訪れを感じる日。

時刻は深夜。テレビの上にかけてある時計は午前零時三十分と十六秒を刻む。窓を覗くと空の真ん中に月が覗き、私の部屋には月明りが差し込む時間。電気を付けなくても月からの青白い明かりで十分に部屋の中を見渡せる。一日の内のそんな時。そして、今日は良い天気で夜空には沢山の星が輝き、雲が流れる。


私はそっと窓を開ける。もう遅く、下の階では両親も眠っているのであまり音を立てないようにしたが、カラカラと僅かばかりの音が鳴った。でもそれぐらいなら些細。気にしなくて良い。


窓を開け、空を眺める。

私の家は閑静な住宅街に位置する何の変哲もない家。強いて、何か特徴を挙げると言えばこの住宅街にある家だと比較的、新しいということだろうか。まぁ、これは共働きの両親が一生懸命働き、私が生まれた事をきっかけに建てたからだろう。でも、別にこんな事はどうでも良いか。こんなありふれた、会話の中でもさらっと聞き流してしまうような事は。

今度は視線を落とし住宅街へ目を向ける。周りの家は暗く、電気が消え、道にある街頭の明かりだけが辺りを照らす。

この時間は落ち着く。


煩い音も人も誰もいない。この街に、いやこの世界に自分一人だけになった気がするから。

「ふぅ」と自分の呼吸をする吐息が辺りを満たす。

今日は寒い。夏でも夜は冷え込む。それを肌で感じる。冷たい夜風が身に染みては、どうしようもなく孤独を感じる。夏の始まり。その訪れを感じながら。

この静けさ、この孤独感。そして、非現実感。現実は嫌だ。辛い事ばかりだから。私はまだこの夜の中に居たい。夢を見ていたい。しかし、この夜が終われば、また朝が来る。なんて事はない当たり前の、ならわし。そして、営み。朝は嫌いだ。太陽の光が差し込む時間が。でも、そう思ってもこの夜が過ぎればきっと朝が来る。

ああ、嫌だなぁ。


いつもの決まり事かのようにそう思う。

いっそ明日なんて来なければ良いのに。明日が来れば、私はまたいつものように学校に向かう。眠気と戦いながら退屈な授業を受ける。いつもの日常。ああ、そんな日々もいっそ、この暗闇に閉じ込めてしまえば良いのに。

そう思ってもどうしようもないのは分かっている。けれど、私は、ふと夜空へ手を伸ばす。窓からだから、伸ばす手には限界がある。けれど、そうせずにはいられなくて。


ここではない何処かへ行きたい。誰も私の事、名前すらも知らず生きていける場所へ。生まれた時からではないけれど、気づいたらそんな思いを抱えていた。それが私の願いで生きる意味。

だってこの世界はあまりに退屈で。既に飽き飽きしている。


名は体を表す。だからだろうか。私、冬月(ふゆつき) 夜空(よぞら)は憧れる。あの夜空に。あの暗闇に。

月明りは、私の手首に残る痛ましい傷跡達をそっと照らしていた。白く、撫でるかのように。


2


世界の広さを知った時、皆はどう思っただろう。この世界に居る人の多さを知った時はどうだっただろう。私は―――。


デジタル時計のピピ、ピピ、ピピという小刻みな音が私の眠りを妨げる。窓から差し込む朝日。ほんのりと温かい。カーテンの隙間から差し込むそれを身に受けて私は起き上がる。

見慣れた部屋、家具。それらを流し見してため息をつく。起き抜けの体は重い。その重い体を引きずるようにしてなんとか起き上がる。目覚まし時計が止まる。何事もない朝。私は今日も朝を迎えた。そばにあったスマホを手に取る。時刻は午前七時を指していた。


私はそれを見届け、立ち上がる。学校へ行く準備をするために。

顔を洗い、制服に身を包む。その際に手首の傷を隠すために注意を払う。昨日の夜に巻いた包帯は血が滲んでいるため交換。血が乾いたことで、私の肌とくっつきぺりぺりと嫌な音を立てる。それを容赦なく剥がしていく。


そして露になった傷。強引に剝がしたからか、血の跡が残っている。それを拭き取り、消毒をすると絆創膏を貼る。そして、その上へ包帯を巻く。そこまでした後、ワイシャツを着てブレザーを着込む。かなり厳重だ。それも全て、傷跡が周りに「バレる」と面倒だから。私の反発の跡を消すために。もちろん、体育で着替える時や身体検査の時はどうしても着替えたりしないといけないのだが、そういう時は何かしらの理由を付けて保健室へ行くか、もしくは休めばよい。成績だって、結局はある程度さぼってもごまかせるだろう。


朝ごはんは食べない。

元々、小食だというのもあるが、そもそも朝はお腹が空かない。そんなシンプルな理由。そのままに荷物を持つと「行ってきます」といって部屋を出る。

家の中は静か。だって私、一人だけだから。両親は私が起きるよりも朝早く家を出ては、夜遅くに帰って来る。だから、私とは大体、すれ違い。両親は私に構う時間が無い程に仕事が忙しい。だから、このように朝、顔を合わせる事もない。夜も私が学校を終えて家へ一番に帰って来るため顔を合わせることはない。夜遅く、疲れて帰って来る両親のためにご飯の用意はする。三人分の食事の用意をするのは、大変は大変だが、自分が食べるもののついでだから別段、苦ではない。それに、もう慣れている。美味しいか美味しくないかは自分では分からない。それこそ両親に聞いてみないと。自分が食べられるというかお腹に入れば良いとそう思うだけで作っているから。


休日も同様。ただ、休日は両親も家にいるので今度は母親が料理を作り、それを私の部屋の前に運んでくれる。私はそれを部屋に運び食べるだけ。この生活を私は中学から、そして、今は高校二年生なのでかれこれ五年間は続けているだろうか。だから、もう長い事、両親とは顔を合わせていない。同じ家に住んでいるにも関わらず、まるで他人のよう。別に嫌いだという訳では決してないのだけど。ただ、面倒くさいだけなのだ。多分、あっちだってそう思っているだろう。聞いて確かめてみた訳ではないけど。蛙の子は蛙。私がが、こんな性質ならばきっとあちらもそうだろう。

こんな私は、きっと普通ではない。


それは分かる。でも、別に良い。世界には多くの人、そしてそれに伴い家族の形がある。その中に、一つくらいこんな形の家族があっても良いだろう。


そんな事を思いながら、私は玄関の扉を閉めた。


3


外は朝のキラキラとした日差し。雲一つない空に太陽が眩しい。夜は少し冷えるのに、昼間はどうしてこんなに暑いのだろう。それを不思議に思う。

手で日よけを作り、太陽を仰ぐ。遠くで響く蝉の声。仄かに香る夏の匂い。今は夏の始まり。もう少し経てば、本格的に夏が訪れる。つまり今よりもさらに暑くなるという事だ。これ以上、暑くなるとどうなるのだろう。


地球温暖化が進行している。毎年、夏が来るたびに思う。この熱気も、最早恒例行事と化していた。特に東京は並みある地方に比べて目の前に広がる道路ですらうだるような暑さとなる。それもこれも後先考えず、都市化を進めて来た結果なのだろう。


東京の郊外にある住宅街。幾ら東京とて郊外は意外と静か。都市に憧れる者達にとってはなかなか信じがたいかもしれないが、その一角。そこが私の家。私は朝からそんなことを考えながら。私が通う高校は都心部。だから、電車に乗るため最寄り駅へ向かう。いつもの道を歩いて行く。


ああ、今日も学校か。

憂鬱。別に勉強が嫌だとか授業を受けるのが嫌という訳ではない。はたまた友達がいない事を嘆くわけでもない。ただなんとなく嫌だという気持ちだけが私の心を支配する。そんな最中、道路の端にいつもと違う事、いや、物が見えた。近くまで寄って見ると、何か動物の死骸だった。それは暑さを避けるかのように住宅の塀の影にひっそりと。隠れる、もしくは社会の陰に隠されるかのように。


近くの森から逃げて来たのだろうか。その理由は?

餌を探しに来た? それとも今の私のように暑さにやられた?

それかまだ見ぬ外を求めてはるばる出てきたとか。僅かな時間で色々な考えが出て来た。あるいはそのたぬき? ハクビシン? を見ただけで色々なストーリーが構築されていく。


でも、その結果、こうして(おそらく)車に轢かれてしまったのだろう。体からは真っ赤な臓物が少しはみ出していた。顔を見れば歯が覗き、舌を垂れ下げ苦悶の表情で事切れている。


なぜこのように日々を必死に生きている者が死んで、なぜ日々を何も考えずのうのうと生きている人間が生きていられるのだろう。

それが世の摂理。それで片付けてしまえばそれまでだけれど。いくら考えても答えは出なかった。ただあまりの理不尽さと不平等さに悶々とするのみ。


この後の事は容易に考えられる。きっと誰かがこの亡骸を回収して処理するのだろう。そうして、この命は誰に知られず終わる。意味のない死だと思う者もいれば、朝から嫌な物を見せやがってと負の感情を持って見送るのかもしれない。誰も、この獣の勇気を認めずに。でも、私は、その前に・・・。亡骸をそっと抱き上げた。制服が汚れた。感染症の危険? そんなのどうでも良い。この子は誰がなんと言おうと一生懸命に生きたのだ。だから、そうせずにはいられなくて。どのくらいの時間そうしていたかは分からない。けど短かったと思う。私は再び、もう動かなく、ぬくもりを失って冷たくなったモノをそこに置いた。精一杯のぬくもりと弔いの気持ちを込めて。


制服が汚れてしまった。それだからか、駅の構内へ入ると周りからじろじろと見られる。でも、別に良い。構わない。そのまま改札を通り、駅のホームへ向かう。ホームに着くと、すぐに耳にイヤホンをして外界からの音を遮断。自分の世界に閉じこもる。


そうしている内に、電車が来る。電車内はガタンゴトンと揺れる。その揺れを感じながら。私は立ったまま、依然として音楽を聴き続ける。


でも、その日は何か奇妙だった。何が奇妙か言い表すのは難しい。東京、それに通勤の時間帯なのに不思議と電車内が空いている事とかそういう事もあったけれど。そうではない。

ただ、何か変だと感じた。それだけ。別に特別な日という訳でもないのに。私が普通に学校へ行く日でしかない。そう特別な事は何も。

けれど、変な予感は的中する。


気が付けば、周りに誰も人がいなかった。

おかしい。さっきまではいたはずなのに。

それでも、電車は構わず走り続ける。私が異変に気が付いたとて、止まる事無く。私が降りる駅すらも通り過ぎてどこまでも。景色が流れる。建物が移り変わる。私はそれを眺める。何も思わず、他人事のように。


すると、今度は耳に入れていたイヤホンから音楽が止まる。異変は私にも向かう。次にはスマホの画面が消える。朝の身に染みた寒さが収まる。世界から色が消える。私の汚れた制服も何もかも。何処を見ても灰色。電車の座席もつり革も外のビルも。そして、あの嫌気が差すほどの青い空も。何もかもが灰へ。まるで元から色が無かったみたいに無に帰した。そして、音もない。先程から聞こえていたけたたましい電車の車輪の音も揺れも消える。無音。


世界は静かだ。

まるで夜の暗闇のように。ここではない何処かへ行きたいという私の夢がついに叶ったのだろうか。それとも世界が終わったのだろうか。確かに、世界の終末があるとしたらこれくらい静かに終わっていくのだろう。何か災害や戦争でめちゃくちゃになるというよりもこんな風に静かにそして突然終わる方が素敵だ。政治家の策略や専門家の予測、それらに左右される事柄なんかよりも。それこそ。終わった事にすら誰も気づかず消える方が良い。

世界から色が、音が消えた。さぁ今度は何が起こるのだろう。こんな状況でも私は慌てるどころか楽しんですらいた。


ふと窓を見る。窓にはうっすらと私の姿が映る。でも、私は普通。何ら変わる事なく制服に身を包む。私の長く伸びた髪。見慣れた顔。そこにいるのはいつもの自分・・・。のはず、なのに不思議と自分とは思えなかった。ただ、なんとなくだけれど。窓に映る自分のような何かと目が合う。窓にいる自分が薄っすらと笑った。

その瞬間、走り続けていた電車が止まった。ドアが開く。入り口付近に立っていた私。早く出ろと促されるかのように、背中を押され電車を降りる。

誰かにぶつかられたかのように吐き出された私。電車は私を降ろすとすぐに扉が閉まった。そして、また走り出す。しかし、誰も運転している様子がない。朝は確かに車掌さんが運転していたのに。アナウンスだって聞こえたのに。

でも今はもう何もない。私だけ。

何をしろと言うのだろう。

ちょっと考える。


考えた後、私はその場に背を向けて歩き出す。真っ白に変わった髪の端をいじりつつ。


4


駅を出るとそこは渋谷の街だった。

なんというか、別にありきたりだというか。電車の勢いを見ると、もっと移動していると思ったのに。

横断歩道の白線が交差するスクランブル交差点。回送電車の車輪の音。そして、何も映っていない電子掲示板。誰もいない今ならどんな迷惑行為でもできそうだ。そんなことしないけど。

私は交差点の真ん中で立ち尽くす。渋谷109、そしてそれに並ぶビル。ガラス張りのオフィス。それらは色を失って今にも崩れそう。音もたてず、誰の記憶にも残らずに。

次に、私はさらにその上、ビルの頭上、どこまでも続きそうな空を眺める。空は雲が覆いつくしているように見える。それくらい濁っている。今にも何か降りそうだ。

果たして、この世界は時が進んでいるのだろうか。歩むことなく、流れる事無く今の私のように立ち尽くしているのではなかろうか。時計もスマホももう使えないので時刻を確認する事は出来ないのだが。それとも並みいる人の中で私だけがこの世界に移動したのだろうか。考えうる可能性はそれこそ人の数ほど。もしかしたら、今は私がいない事にも構わずに皆、いつもの教室で退屈な授業を受けて、いつもの日常を過ごしているのではないか。


だとしたら、それは最高だ。私は天を仰ぐ。


最後に悲しいと、または嬉しいと思った時っていつだろう?


欲しい物が手に入った時、美味しい物を食べた時、莫大なお金が手に入った時?

否、今だ。世界から何もなくなって孤独になった今だ。私は今、満たされている。手から伝わる血が、脈が、私が生きているというのを感じさせる。手首には包帯。今まで繰り返してきた自傷。けれど、これももう今日で終わり。だって、今の私は手首を切らなくとも気持ちが高ぶっているから。


湧き立つ高揚感は留まる事を知らず、いてもたってもいられない。私は走り出す。腰元にかかる程の長い髪を振り乱して。左右に、そして視界の端にちらつく色素を失った髪。スマホを、荷物を、靴も全てを放り出して。捨てて。止まる事無く駆け出す。世界を、時を、追い越して。風を切って、大地を蹴って。皆の知らない先を一人。駆け出す足は心地よい。吐く呼吸が気持ちいい。力強く踏み出す足は止まらない。そのまま駆け続ける。どこまでも、どこまでも。


誰もいない公園を、ドアが半開きで開いていたショッピングモールも、東京タワーの傍も、スカイツリーが見える橋だって。私はけたたましいビル群を越えていく。東京の煩わしい街。現実を、自分一人の力で。誰に頼る事無く。寂しさや孤独を振り払うように。居場所を求めるかのように。


ああ、世界は美しい。


心からそう思う。裸足でいくら走っても自分の足は擦り切れる事を知らず、まるで背中に羽が生えたかのように軽く走る事が出来る。疲れすらも知らない。自分が望めばどこまでも行ける。自分の血が、巻いた包帯も今は色がない。

私はもう人間ではないのかもしれない。もしかしたらもうすぐ消えてしまうのかもしれない。でも、それでも良いとそう思える。この思いだけは忘れず、世界のどこかに残り続ける。そんな気がする。漠然とだけれど例え、私が消えたとしても。


気づけば、もうこんな所まで来ていた。東京湾が、海浜公園が見えるレインボーブリッジ。遠くには富士山すらも見える。雲がない程に晴れていれば東京からでも見えるのだ。よく考えると不思議。東京から富士山までは大分、離れているのに。そこで私は一際大きく息を吐く。膝に手を乗せて呼吸を繰り返す。何かをやり遂げた気持ち。まだ何もしていないというのに。


誰もいない東京。車も時が止まったかのように静止したまま動くことはない。運転席を見ても運転手の姿はどこにもない。そしていつもは太陽が反射してキラキラと光る海も、今はそんな面影は一つとしてなく。それどころか生き物すらも存在していないように見える。


流石に、世界には私一人だとそんな風に奢るつもりはないけれど。今はそう思っても良いのかもしれない。橋の欄干で物思いに耽ける。


世界の広さを知った時、皆はどう思っただろう。

そして、問いかける。

この世界に居る人の多さを知った時はどうだっただろう。私は初めてそれを知った時、吐き気がした。そして、今、これも運命。


私はおもむろに服を脱ぐ。血の気を失った肌。生まれたままの姿。ストレートの髪が私の膨らみの乏しい胸の突起に当たる。それを少しくすぐったく感じながら。私は橋の手すりに手をかける。そこからは一瞬。体を乗り出し、そのまま頭から落ちていく。


落ちる瞬間はスローモーションに感じる。飛び降りをした人は皆、こうなのだろうか。恐らく、知らなくて良い事だけど。


暗い海。開く眼。水面が遠ざかる。私の体は沈んでいく。深く、深く沈んでいく。呼吸が苦しい。ゴポゴポと水の泡を吐きながら、体の重さによって沈んでいく事に一切の抵抗を見せず。


キラキラとした水面が遠ざかる。もう手を伸ばしても無意味で届く事はない。きっともうすぐに死が訪れる。けれど、不思議と怖くはない。例え、このまま海の藻屑になろうと不思議と悪い気はしない。だって、最高の気持ちのまま私は死ねるのだから。あの道路の端で、車に轢かれて亡くなっていた動物と違って後悔や未練を残さず死ねるのだから。ただ、唯一違うのは、誰も死を慈しんでくれない所だろうか。あの動物は少なくとも、私が看取ったから。

でも、別に良い。それを私が望み、選んだのだから。


沈み行く体はもうすぐに終わりを迎える。私の意識が微睡に包まれていく。


思えば悲しい人生だったと言いたいところだけど。残念ながら私は悲しい事など何一つない。過去を振り返って見てもまるで思い当たる事が無い。むしろ、毎日、ご飯を食べられて、普通に学校に通えて、と恵まれている方ではないだろうか。差し当たって、自死を決意するのは何か悲しいみたいな負の感情を抱いている事が多いだろうから。でも、私にはそれが当てはまらない。だから、これも普通の自死とは違うだろう。私は最後まで普通とは異なってしまうのだろう。


だってこんな今だって、海の底には何があるのだろう。地球の中心には何があるのだろう。そんな事ばかり考えている。

全く、おかしい。


けれど、私は今、確実に世界に近づいている。寄り添っている。この感覚はきっと誰にも分からない。それは恐らくいつかテレビ画面に映っていたサッカーのW杯。そこで優勝を治めると最高の景色を見られるという。いや、サッカーに限らず、どんなスポーツの選手でもそう口にする人が多い。

でも、私は今、その選手たちですら、感じた事が見た事がない景色を眺めている。私は手を伸ばした。目の前に広がるあの暗闇に。


次は、もし生まれ変わったならどんな存在になるのだろう。そう思いながら。


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