頁(ページ)の中の幽霊
2100年9月7日。
窓の外から、誰かのウォッチが「0」になる直前のアラーム音と、それを嘲笑う酔客の怒声が聞こえてくる。ドヤ街の夜だ。
小松原拳士は、四畳半のボロアパートでハンバーガーを齧っていた。「5時間」の代物。ローズカップの賞金からすれば端数にもならないが、拳士はこの下卑た味にどこか安堵していた。15年の寿命を持つ男が住む場所ではない。だが、ここ以上に落ち着く場所を知らなかった。
ふと、テーブルの隅に置かれた古い闇情報紙に目が止まった。検閲を逃れた地下ルートで出回る、紙の印刷物だ。何気なくページをめくっていた指が、小さなゴシップ記事の前で止まった。
『未確認報告:寿命倍増現象の真実』
「……寿命が、倍になる?」
記事によれば、稀に「一秒の消費で二秒分の生命を維持する」特異体質の持ち主が存在するという。同じ寿命を持っていても、他人の二倍の時間を生きる。譲渡された寿命が、その体内で二倍の価値に膨れ上がるのだ。
この寿命通貨社会における、絶対的なバグ。経済システムを根底から破壊しかねない、禁忌の存在。
拳士は、ハンバーガーを噛む手を止めた。
頭の中に、一人の老人の顔が浮かんだ。
竹原。
白飛びしたウォッチ。上限を超え、数えることをやめた男。
(……あんたも、これなのか?)
記事を読み進めると、さらに不穏な一文があった。国庫庁は、この特異点を「国家資源」として極秘裏に管理・回収している疑いがある、と。
「回収」。
拳士は自分の左手首を見つめた。
『15年3ヶ月12日』
ローズカップでサクラから強引に奪い取った時間は、本当に「5年」だったのか。もし自分、あるいはサクラの肉体に「ダブル・クロック」が働いていたとしたら——「からくりボクシング」という競技自体が、特異点を効率よく炙り出し、「精製」するための巨大な装置なのではないか。
底知れない疑念が、静かに、だが確実に広がり始めていた。
その時、薄いドアが激しく叩かれた。
「拳士! おるか! 公務員が来とるぞ!」
隣室の住人の悲鳴のような声だった。
拳士は紙を丸めてゴミ箱に放り込み、ドアを睨みつけた。
扉が開くと、隙のないスーツを着た血色のいい男が二人、静かに立っていた。ドヤ街のヘドロの臭いとは無縁の、無菌室のような清潔さを漂わせている。
「小松原拳士さんですね。広島県・国庫管理課の者です。ローズカップでの素晴らしいご活躍、拝見しておりました」
男のウォッチには『公務執行中(非課税・全権限委任)』の静かな青光が灯っている。
「あなたの直近の寿命収支および試合中のエネルギー変換効率において、極めて不自然な特異データが検出されました。一度、本庁までご同行願えますか」
丁寧で礼儀正しい口調。だがその瞳には感情がなく、目の前の人間をただの「帳簿の数値」としてしか見ていない冷徹さがあった。
拳士はゆっくりと立ち上がり、残ったハンバーガーを口に放り込んだ。顎を鳴らしながら、公務員の男たちを睨みつける。
「……公務員様が、ドヤ街のボロアパートまで何の用だ。手数料なら、さっきのバーガーで使い果たしたぜ」
男の一人が微かに微笑み、胸ポケットから銀色の特殊な拘束具を取り出した。
「ご安心ください。あなたの『時間』は、国が最も有効な形で再利用させていただきます」




